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第40話・出国

 年が明けて出発の日が迫り、玄理は橘王にひと目会いたくて宮を訪ねた。

 未練がましいと自分でも思った。最初から手の届かない存在、儚い憧れであったのに、ずっと側にいたいと思うなど高望みというもの。もっと早くに諦めていればよかったのに。


 玄理は橘王と会見するいつもの部屋でなく、別部屋へ通された。しばらく待っていると、下女が呼びに来た。

「お待たせしてしまって申し訳ありません」

 その日の橘王は、珍しく蘇芳色の衣を着ていた。偶然にも玄理と同じ色だった。

「白壁部の姫王は今春十四歳になりました。成人の儀を執り行なおうと思い、そのことで人が出入りしておりました」

「それはおめでとうございます。ほお、もう十四歳ですか。ついこの間まで片言でお話ししていたと思ったら、早いものですね」

「ええ、そろそろ結婚の話なども考えています。ただ、姫王は皇族から離れさせようと思います。どんな皇子と結婚しても、上宮様の孫娘を妻にした皇子には陰謀が付き纏いましょう」

 その言葉に、それまで彼女が経験してきた人生が感じられた。

「祖母は、皇子二人を早くに亡くし、孫である私を大事に育ててくれました。祖母の気持ち、今ならわかります。私は、白髪部皇子の娘には、上宮様の尊い血を受け、いつか天皇となるお方と添い遂げてほしい。でも、そう思うのは私の身勝手。このまま上宮様の孫娘という名を背負って生きるにはあまりにも重すぎましょう。普通の豪族の家に嫁がせ、政争に巻き込まれることなく愛する方と穏やかな人生を歩んでほしいと願います」

 彼女はずっと重い荷を背負って生きてきたのだ、と玄理はせつなくなった。

「私も陰ながら姫王のお幸せをお祈りいたします」

「ありがとうございます。……高向臣は、唐に行かれると聞きました」

 なかなか本題を言い出せない玄理に、彼女から言った。

「ええ、来月に出立いたします」

「まあ、すぐですのね」

「今度ばかりはなかなか厳しい旅となりそうです」

 玄理は苦笑いを浮かべた。

「新羅が百済を攻めるのを止めるよう、唐の皇帝に頼みにいかねばなりません。しかし、唐は新羅と親しくしています。日本が何を言っても二国間の争いは止められないでしょう。私には皇太子がなぜそこまで百済に肩入れするのかわからない。こんな時だからこそ、自国をまとめなければならないのに、天皇は皇太子には逆らえないのです。唐の皇帝に頼んだところで、その見返りに何を要求されるか知れたものではありません。正直言って私にはこの任務を遂行する自信がありません」

「……大変なお仕事なのですね」

「皇太子が私を遣唐使に任命したのは語学や交渉力ではないと思います。ただ、私を天皇から引き離したかっただけでしょう。皇太子には何の理念もない。上宮様や白壁部皇子のような理念が見えないのです。私は彼の下で働くくらいなら」

 玄理は言葉をそこで切り、口をつぐんだ。

「このような話を橘姫王にしてしまって……。次にいつお会いできるかわかりませんが、ごきげんよろしゅう」

「貴方はもう……」

 橘王はそれ以上言葉を続けなかった。

 二度とこの国には戻らないつもりなのですか、との問いを飲み込んだ気持ちを、玄理は察し、答えなかった。問うてしまえば答えてしまえば、永遠の別れを告げねばならぬ。また会える日を、帰りを待つ微かな希望が消え失せてしまう。

 橘王は涙を堪え玄理を見た。

「どうか、お元気で」

 彼女は初めて会った時と同じように、精一杯優美な微笑を作り玄理を送り出した。玄理の心に残るように。

 ・ ・ ・ 

 白雉五年(西暦六百五十四年)二月、玄理は四十六年前と同じように筑紫港からこの国を出た。

 若かったあの日、遠くに見える大陸を少々の不安と大いなる希望を持って眺めたが、今はどちらもない。

 玄理はただ自分の非力さを感じるだけだった。

 上宮太子が礎を作ったこの国を、自分たちが遺志を引き継ぎもっともっと発展させるはずだった。この先この国はどうなるのだろう。葛城皇子はどのような国を作っていくだろうか。

 玄理は遠ざかる故国の岸に背を向け、大海原を見つめた。

 この国に対して自分ができることはもう何もない。願わくは、橘王が幸せに暮らせますよう。


 玄理が日本を出たその年、天皇の信頼が厚く良き相談役だった旻法師が病死すると、十月、難波に取り残された天皇は孤独のうちに薨去した。

 その後には宝皇女が自ら重祚を宣言し、再び皇太子に葛城皇子を据えた。

 やがて玄理と共に大陸に渡った遣唐使が帰国した。しかしその中に玄理の姿はなかった。副使の河辺臣は、遣唐大使の高向玄理が唐で病死したことを伝えた。一部の人間の間では、玄理は日本に愛想を尽かして帰ってこなかったのだと囁かれた。


 それから程なくして、橘王は孫娘の結婚を見届けると出家した。彼女は残りの人生を亡くなった者たちへの供養に捧げた。

 数年後、数奇な運命に翻弄された彼女は、穏やかな顔で永遠の眠りについたという。

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