第38話・二つの京
その直後、皇太子葛城皇子は突然、飛鳥に遷都すると発意した。天皇は猛反対したが、葛城皇子は大臣公卿を集め「これより政治は飛鳥にて行なう。皆も早々に飛鳥に戻るが良い」と皆に宣言した。
「難波で政を行なうのは不都合極まりない。だから、以前のように飛鳥に戻す。天皇が拒むのなら難波にいればよろしいだろう。政は我が飛鳥で行なう。全て任せよと」
葛城皇子に反対する者はなかった。内臣や左大臣と組み、前もって裏から手に回していたのかもしれないと、玄理は思った。
「いや、今、葛城皇子に反対できる人間などいるものか」
皇祖母尊宝皇女はじめ皇后間人皇女や大臣公卿、官人、役人なども皆揃って葛城皇子に従い、完成したばかりの難波宮へ天皇を残して飛鳥へ引っ越しした。天皇とその息子の有間皇子、天皇の宮に仕える人間だけが難波に残った。実姉からも妻からも見捨てられ、周りから信頼する臣下が減っていき気落ちする天皇だった。
唯一、重臣で難波に残ったのは中臣鎌足だけだった。彼が残ったのは何らかの策謀があるのだろうと、玄理は感じた。
玄理も国博士という立場上、他の大臣公卿に倣って飛鳥に引っ越したのだが、旻法師は難波の安曇寺の僧房にそのまま残った。
「皇太子の政には、私は必要ないでしょう」
旻法師は悟った顔を見せた。
「私も、皇太子はどうも苦手だ」
玄理が言うと、旻法師は人差し指を立てて言った。
「そのようなことを言うと、いつどこに皇太子のお耳があるかわかりませんよ。お気をつけなされ。命が惜しくば」
「そうですね。讒言をして、葛城皇子に褒美をもらおうと考える人間がどこにいるかわからない」
それからは、政治は飛鳥で行い、難波の天皇には事後報告という、天皇にとって屈辱的な状態になった。葛城皇子は皇太子の名で勅命を出し、天皇を名ばかりにして実権を握った。
年配者なら、上宮太子の時代を思い出すだろう。天皇の宮がある飛鳥と上宮太子が住む斑鳩宮、まるで京が二つあるような時代。天皇は神祇祭祀を行い、政は主に上宮太子が行なった。皇太子の名で命令を出すなど、当たり前のように受け入れる世代がまだまだいる。
飛鳥に戻った玄理に与えられた仕事は、宮の書物の整理だった。大陸の言葉で書かれた書物を翻訳して書き直す仕事である。それが終わったら、宮にある膨大な量の古びた書物を書き写すよう、申し付けられていた。
「このような仕事は国博士のやることではないだろうに」
月に一度の会議にも、呼ばれなくなった。
「自分を政から遠ざけようとしているな」
本人はもちろん、周りの目にも明らかであった。
玄理は以前からずっと葛城皇子を苦手に感じていた。
彼からは政治理念が感じられない。今上天皇に政治理念があるかというと、そういうわけでもないが、ただ、天皇は改革に意欲的であるし、優れた臣を周りに置いて旻法師や自分の意見もよく聞く。
葛城皇子が実権を握り、独断専行で政治を行う今の世は生きにくい。もし代が変わって彼が天皇となったら、かつて南淵請安が隠棲して塾を開いたように、自分も政治から離れ後進を育てることに専念しようか。王績のように、隠居して季節を楽しむ暮らしもいいかもしれない。
桃の花咲く橘王の宮の景色が頭に浮かんだ。




