第35話・新政権発足
何かのきっかけで世の中は急に変わる。人々が望むとも望まなくとも、時代の波は急激に動く。
大臣蘇我毛人、入鹿父子が滅んだ後、実姉の宝皇女から譲位され天皇となった軽皇子は、皇太子に葛城皇子を、皇后に葛城皇子の実妹の間人皇女を立てた。左大臣に阿倍臣倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田臣石川麻呂、また新たに内臣という役職を左右大臣の上に設け、それには中臣鎌足を任命し、新政権を発足させた。
新政権下で、玄理と旻法師は共に国博士(国政の顧問)に任命された。
新天皇は玄理に新しい邸と使用人を与えて言った。
「他に何か欲しいものはあるか。我の側にずっと仕えてくれたら欲しいものを何でもあげようぞ」
玄理には天皇は人間関係が不器用なように見えた。感謝や親愛、信頼を示す方法を、物や金銭を贈ることでしか表現できない人間だなのだろうと感じた。
「そうだ、妻はどうだ。独り身では何かと不便じゃろう。若い女がいいか。采女でも誰でも望みの女をくれてやろう」
玄理の脳裏に橘王の顔が浮かんだが、瞬時に打ち消した。
「いえ、妻は要りませぬ」
このような力を使って橘王を手に入れるのは、彼女の尊厳を踏みにじることになる。自分としても、正面からは手の届かない女性を権力で手に入れたとて、自分がみじめになるだけだ。
「また綺麗事を。くれるというのなら貰ってしまえばいいものを」
頭の隅で請安が笑う声が聞こえた気がした。
そうだ、皇子がいない今、橘王はもう誰と再婚しようともかまわないはずだ。いつぞやに蘇我大臣が言っていたように、また誰が彼女の名を利用して結婚させようとするかも知れぬ。
国博士に任命された報告を理由に橘王の宮を訪ね、その折にこっそり顔なじみの下女に尋ねた。
「姫王はこの先ずっとお独りで過ごされるのでしょうか」
「え」
「いえ、あの、再婚はなさらないのかな、とふと思っただけで、いいんです、何でもありません」
「……姫王はこの先、一生どんなお方とも結婚なされません。それは亡き小治田天皇の遺言なのです」
「小治田天皇の」
「上宮様が身罷られた時、小治田天皇がおっしゃられたそうです。姫王はこの国で最も優れた男性の妻なのだから、この先決して上宮様以外の男性と結婚してはならぬ、上宮様のお母上のようになってはならぬ、と、小治田天皇はお隠れになるまでずっと何度も何度もおっしゃられていたそうです。姫王はその誓いを決して破らないでしょう。姫王は誇り高きお方。上宮太子妃としての誇りをお捨てになるくらいなら御仏の手に命を委ねましょう」
玄理は下女の言葉に安心する一方、なんとなく気落ちした。
・ ・ ・
新しい天皇は早速動き始めた。今まで玄理らが作っていた法律を次々と発布し、滞っていた制度改革を進めていった。蘇我毛人、入鹿の政策をそのまま引き継ぎ、本来なら古人皇子が即位してからするはずだった改革を行っただけのことだが、皆にはそれが新しい時代の幕開けのように見えた。
新しい世になり、争いの火種は消え、これからは平和に明るく暮らせるはずだった。誰もがそう思っていた。
しかし三ヶ月後、前皇太子古人皇子が、新政府によって殺害された。
「古人皇子が? 」
古人皇子は、身内であり後援者であった蘇我大臣父子が滅んだ後、敵意がない意思表示として皇太子の地位を捨て出家し吉野山に隠棲していた。
「古人大兄が謀反の計画を立てていると、皇太子に告げた者がいたそうで」
顔見知りの役人が玄理に言った。
「改革を良く思わぬ旧勢力が、古人大兄を掲げて政権を奪取しようと企て、大兄は吉野にて兵を集めていたため、謀反人として討ったそうです。男子は滅ぼし、妃妾は自害なさりました」
「なんと。御子も、妃妾も全員ですか」
上宮一族が滅ぼされた時のようだと玄理は感じた。
「いえ、処罰されたのは古人大兄と嫡男だけだそうです。妃妾は自害なされたのです。兵の話によると、防ぐことはできなかったと、幼い姫君を無事救い出すのが精一杯だったとか」
救い出された幼い姫君、古人皇子の妃手嶋姫王の娘である倭姫王は、宝皇女の元に引き取られた。
「有力な天皇候補となる皇子、次世代の争いの芽を摘む。山背皇子の時と同じだ。これは仕方のないことなのだろうか」
玄理は旻法師を訪ねて言った。
「皇太子の意向だと聞きました。葛城皇子、彼には気をつけなければなりませぬ。彼には嫌な気配がします」
旻法師が言った。
「どういうことです」
「以前、南淵様から聞いたことがあります。彼は自分の気に入らない者をことごとく排除しようと考える人物だと。蘇我氏や天皇の比ではなさそうです。彼の気に障った人間は、どのような手を使ってでも滅ぼそうとする。新法が発布されたら、私たちの存在の重要性は以前ほどでなくなるでしょう。気をつけなければなりません」
「我々も、邪魔になったら排除されると? 」
冬になると新天皇は遷都を発表した。京を飛鳥から難波に移すというのである。
宮が完全に完成していないので、当面は儀式などは難波で行うが役所の通常作業は飛鳥で行う。いずれは天皇も官人たちも全員難波に引っ越すことになる。
「橘姫王は飛鳥に残るのだろうか……」
今は少なくとも季節毎には挨拶に行き、年に一度の大派皇子の宴でも顔を合わしている。自分が難波に居を移したら、そう頻繁には会えなくなるかもしれない。ただ近くにいられるだけでよかったのに。
玄理は寂しく思った。




