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第33話・乙巳の変

 その後も鬱々とした気持ちを引きずっていた玄理だったが、夏六月のある朝、旻法師に稲淵の請安の庵へ来るよう呼ばれた。中臣鎌足から「さる高貴なお方が旻法師にお話を聞きたいと庵へ伺います、高向臣もご一緒に是非」と言われたのだという。

 請安の庵には、請安が死んだ後も弟子が住み着いて、毎日のように集まっては勉強会を開いていた。その日も数人の若い弟子がいた。

「鎌足連からきいております。さ、どうぞ」

 玄理が行くと、弟子の一人が庵の奥の部屋へ案内した。そこには旻法師が座って待っていた。

「そろそろ来られる頃かと思うのですが」

 旻法師は人待ち顔で呟いた。

「高貴なお方とは、誰がいらっしゃるのだ」

 玄理はあまり乗り気ではなかった。

「おそらくは軽皇子あたりではないかと。鎌足連と親しい間柄だと評判ですから」

「それにしても遅いな」

 ふと、外が何だか騒がしいことに気づいた。

「大変だ」

「戦さが始まる」

 そんな声が聞こえた。

 弟子たちが慌ただしく走り回っている。

「どうしたのか見てきましょう」

 旻法師は席を立つと同時に、ひとりの弟子が縁側の木戸を閉め始めた。

「どうしたのです」

 弟子は、口の端に泡を吐きながら言った。

「大変です。入鹿臣が殺されたそうです」

「なんだって」

「どういうことです」

「詳しいことはよくわかりませんが、これから戦さになると大騒ぎです。我らは巻き込まれないよう、戸を閉めて閉じこもるつもりです」

 弟子はそう早口で言うと忙しそうに走り去ってしまった。

「一体全体、何が起きたのだ」

 玄理が暗くなった部屋に灯りを灯すと、一人、また一人、と弟子が集まり出した。

 皆、不安げな顔をして部屋の隅に固まって黙ったまま、ただ座っている。部屋の空気が蒸し暑く重苦しかった。

 そんな空気を見かねてか、弟子の一人が立ち上がった。

「何か食べるものでも作りましょう」


 弟子が作った菜葉ばかりの粥を皆ですすると、気持ちが少し落ち着いた。

「何があったのですか」

 旻法師は弟子たちを見回して尋ねた。

「皆もわかりません。ただ、これから戦さが始まると」

「入鹿臣は誰に殺されたのですか。戦さとは」

「わかりません。大臣が兵を招集しているそうです。この辺りも戦場にならなければいいのですが」

 玄理は橘王のことが気になった。橘王の宮は大臣の邸からそう離れていない。

「ちょっと見に行ってまいろうか。情報収集が大事だと請安もよく言っていた」

 玄理がそう言って立ち上がろうとすると、弟子の一人が制止した。

「おやめください、危のうございます。先生は国家にとって大切なお体、他の者が見てまいりますから」

 たとえ自分が行ったところで橘王の力になれることはない、宮の下人たちに任せたほうが安全なのだ、と玄理は思い直した。

 結局、くじを引いて弟子の一人が出かけることになった。

 残った者たちの気を落ち着かせるために、旻法師は講義をすることにした。


 しばらくすると里の様子を見にいった弟子が戻ってきて言った。

「いよいよ戦さになるかもしれません。飛鳥寺に兵が大勢集まっているのが遠くからでも見えます」

「誰と誰の戦だ。入鹿臣は誰に殺されたと言うのだ」

「それが……」

 その弟子は言葉を濁した。

「わからぬのか」

「いえ、天皇の御子、葛城皇子だと」

 一同は顔を見合わせた。

「皇子が……」

 皆、茫然とした。

「……それならば」

 旻法師が静かに言った。

「戦さにはならないでしょう。天皇は当然、ご自身の御子、葛城皇子の味方をするでしょうし、一方、大臣は入鹿臣がいなくなったのだとしたら、たとえ戦って勝っても跡取りがいないのだから未来はない。かねてより入鹿臣が天皇に代わろうとしていたなど悪い噂が囁かれていたところ。群卿がどちらにつくかと考えたら」

 弟子たちの顔に微かな安堵が見えた。

「それにしても、皇子が自らの手で次期大臣を殺めるなど」

 玄理は首を捻った。


 その日は玄理と旻法師もそこに泊まることにした。布団などはなく、弟子たちも好き勝手に雑魚寝している。

 横になりながら玄理は小声で言った。

「なあ、旻法師」

「中臣連はこのことを知っていたのだろうかの」

「……」

「ことが起きることを知っていて、我らが巻き込まれぬよう、このような場所に足止めしたのじゃあるまいか。飛鳥寺にいれば、旻法師の身にも危険が及ぶかも知れぬと、心配してのことかもしれぬなあ。何しろ恩師だからなあ」

「私の身を心配……ですか」

 旻法師は自嘲気味な微笑みを漏らし、言った。

「私の身ではなく、私の知識ではないでしょうかね」

「そのような。とにかく我らを救ってくれたことには変わりない。感謝せねば」

「……そうですね」

 旻法師はそれきり黙ってしまった。

 玄理はそれ以上話しかけず、目を閉じた。

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