第32話・鬱然とした日々
この世の万物は水のように流れている。国が滅びまた興る。愛する家族も親しい友も、時が来ればこの世を去って玉響の幸せは終わる。
「尊敬してやまなかった厩戸皇子も、白髪部皇子も上宮一族も盟友請安も、皆、自分の周りからいなくなってしまった。自分の幸せとは何なのか、自分のしていることは無意味ではないか。一体何のために生きているのか」
玄理は虚しさを感じ、以前のように仕事に精を出せなくなった。妻子が死んだ時とはまた違った。このような気持ちの時に橘王とも会いたくなかった。役所に行く時以外は邸に閉じこもる生活が続いた。
やがて年が明け祝賀行事が催されても、玄理の心は晴れなかった。人々はもう、上宮一族がいないことなどすっかり忘れているようで、新春の祝賀に沸いていた。
朝賀の席、玄理から遠い上座に橘王の姿があった。喪が明けたのだろう。久しぶりに見る彼女は、上品な淡い紫色の絹衣、新年らしく黄金や瑪瑙の飾りを身につけ、変わらず典雅に微笑んでいた。
橘王は日頃から淡い紫色の衣を好んで身につけていた。紫色……それは身分の高い人間だけが身に付けることを許される高貴な色。これまでも、紫に身を包む橘王を見る度、玄理は自分との身分の差を痛感していた。
その日の玄理はいつにも増して橘王を遠く感じた。
請安が死んで数ヶ月、鬱然として日々を送っていた玄理に、橘王の桃の宴で知り合った大派皇子から宴の誘いが届いた。春の宴を開催すると言う。
大派皇子は敏達天皇の息子であり、橘王の父親の異母弟になる。今は皇族の長老のような立場の人間だ。同じ敏達天皇系の皇孫として日頃から橘王と親しくしていた。
宴の気分ではなかったが、気晴らしに出かけるのも必要と思い、玄理は誘いに応じた。心のどこかに橘王と会えるという期待があったのかも知れない。
玄理は、橘王の宮に集い春の歌を詠んでいた頃が遠い昔のような気がした。
穏やかな春日の中、大派皇子の庭を皆で散策した。自慢の庭だけあって、松、梅、杏など様々な木々が植えられ、美しい庭だった。季の花びらが雪のように舞い、微かな花の香りが人々の周りに漂う。
橘王の桃見の宴とは顔ぶれが少し違っていた。皇族の他に、大派皇子と縁のあるらしい豪族の姿が見られた。
季の木の間に橘王の姿が見えた。玄理が深々と頭を下げ挨拶をすると、彼女のほうから近付いてきた。
「お変わりなくて」
「はい、姫王もご機嫌いかがですか」
「変わりないと言えば変わりないかもしれませんが。高向臣のお仕事は相変わらず忙しいのですか」
「はあ、しかし、近頃友が亡くなり、何もやる気が起きなくて」
「ご友人が……それはおつらいでしょう」
「しっかりせねばと思うのですが、自分でもどうしたいのかわからなくて」
「私もそうでしたわ。ええ、そう。……皇子がいなくなってからは自分が生きているのか死んでいるのかわからない毎日でした。美味しい果実を食べても美しい景色を見ても、何も感じず何も見えない。それでも孫娘を引き取ると気が紛れて、いえ、その頃は姫王を育てようとかどうとか思っていたのではありません。ただ幼子の無邪気な様子を見て気を紛らわせていた、そんな感じでした」
橘王は庭の木々の間をゆっくり歩きながら話した。
玄理は彼女と並んで歩くのを憚り、一歩下がった。
「どれくらい経ったでしょうか、ある日、姫王が私に自分の書いた歌を持ってきたのです。幼い字で一生懸命に書かれた書を見て、私は祖母のことを思い出しました。祖母も、私の父を亡くした時、どのようなお気持ちだったのでしょう、と。どんなにつらくても、私のことをお育てくださった。祖母は大変お強い方でした。私は、その祖母の血を引いている、そう、私は祖母の血を引き、上宮様の妻なのです。このくらいのことに負けてはならないと」
「それからやっと、私は姫王をきちんと育てようと思ったのです。いつか手嶋姫王も皇子を生むかもしれません。私はその子らのためにしっかり生きなければ、と思ったのです」
玄理は橘王の言葉を聞きながらも、自分にはそのような気持ちになる日が来るのだろうかと考えた。
「高向臣にはこの国を良くしようと言う志がおありです。私などよりもっともっと高い志。今は悲しみのほうが大きいかもしれませんが、いつか、それでも生きていて良かったと思う日がきっと訪れましょう」
橘王は自分自身にも言い聞かせるように、そう言って振り返り、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
悲しみは晴れなかったが、玄理はなぜか涙がこぼれそうになった。




