第30話・おかしな噂
翌年の新年祝賀の行事では、それまで上宮一族がいた席がなくなり皇族の席が寂しく見えた。白髪部皇子の喪に服している橘王の姿もなかった。
普段の山背皇子は斑鳩にいたので人々はさほど意識していなかったのだが、上宮一族が滅びたことを改めて感じた。
上宮一族が滅ぼされたことや経緯を知らなかった地方の豪族らは、この時初めて事の顛末を知ることとなったが、それは必ずしも公正な情報ではなかった。
「山背大兄は入鹿臣の政の批判を口を出したから、入鹿臣の軍隊に攻められ、滅ぼされたそうですよ」
「元々、入鹿臣が自分のお身内の皇子を天皇にするためには、人気のある山背大兄が邪魔だったのだ」
「いや、入鹿臣は他の皇族も皆滅ぼして、ゆくゆくは自分が天皇になるつもりなのだとか」
地方では上宮太子の人気は根強い。山背皇子への同情が彼をますます聖人化していく。
「山背大兄は、多くの民を戦いに巻き込みたくないと、入鹿臣との戦を避け、ご自分の身を犠牲にしたという」
「なんと慈悲深い」
間もなく町人や農民の間では妙な噂が囁かれるようになった。
「いずれ上宮様の祟りが入鹿臣に降りかかる」
玄理は巷のそういった噂話を耳にし、心にずっとくすぶっている疑問を携えて請安の庵を訪ねた。
「近頃、上宮家を滅ぼしたのは入鹿臣の独断だったと噂が流れている。おかしくないか」
請安は当たり前の顔をして言った。
「そんなの、おかしいに決まっているだろう。歪められた情報で、何者かが入鹿臣の評判を落とそうとしている。わかりきったことだ」
「何者かが入鹿臣の評判を落とそうとしているとはどういうことだ」
「先に旻法師から言われた。そなたが余計なことに首を突っ込まぬよう、止めてくれと」
「何をまったく、心配してるのだ。なあ、山背皇子は本当に二心を抱いていたのだろうか」
「わからぬ」
「貴公でもわからぬとは」
「山背皇子の心は本人しかわからぬ。残口なのか誰もわかるまい。もしかしたら本当に思っていたのかも知れぬ。ただ、大きな流れが上宮一族を廃し、また入鹿臣を滅ぼそうとしているのなら、その流れに流されよ、ということだ。疑問を持つだけ無駄なこと、我らがどうあがいても隋は滅びた。それと同じことだ」
「何が起きようとしているのだ」
「だから、考えるな。貴公にそんな暇はないはずだ」
請安はいつになく真剣な口調で言った。
「動き出してしまったものは、もう誰にも止められないのだ」
明らかに何かを知っていそうな請安だったが、玄理はこれ以上聞くのをやめた。
「しかしのお、」
請安はひと息入れた。
「うん」
「今なら貴公、橘王と結婚できるぞ」
玄理の顔が凍りついた。
「息子が天皇になることもなくなった。橘王はもはや普通の皇女だ。一族を失って傷心の今なら、存外、貴公を受け入れるかもしれんぞ」
玄理は硬い表情のまま答えた。
「人の不幸に付け込むようなことを言うな。それ以上言ったら貴公を軽蔑する」
ふふん、と請安は嘲笑った。
「綺麗事を言っても仕方ない。貴公にその気持ちが全くないと言えるか」
「……」
玄理は無言で席を立った。




