第02話・舒明天皇と大臣
飛鳥の船着場で船を降りた玄理と請安は、京内まで風景を眺めながらのんびり歩いた。
正面に見えるのは、蘇我氏の氏寺、飛鳥の中心地にある。飛鳥京に行くにはあの塔を目指して歩けばよい、と玄理が子供の頃から言われてきた。
それともうひとつ、西の方にそれより高い塔が聳え立っている。
「あの塔は」
同行する役人が答えた。
「天皇の詔により造られている大寺の塔でございます。その横に大宮もまもなく完成する予定です」
玄理は、塔だけでなく、あちらこちらに建物が増えているように感じた。
「しかし、唐の都とはずいぶん景色が違うな」
請安は言った。
長閑な田園を従えた飛鳥の山々は変わっていなかった。
玄理と請安は、ひとまず客人用の宿舎に案内された。明朝、支度を整えてから朝見する。
宿舎に到着した玄理を待っていたのは、両親は既に亡き人となっているという知らせだった。長兄が供養をし、その兄もまた、数年前に世を去ったという。
「結局、間に合わなかったか」
玄理は足の力が抜けた。
夜、寝床に入ると、三十二年前、見送りの人の中にあった母の顔が瞼の裏に浮かんだ。遠目には喜んでいるのか泣いているのかわからなかった。結局あの時に見た姿が最後となった。
玄理は両親のことをもっと思い出そうとしたが、長旅の疲れでいつのまにか寝入っていた。
翌朝、玄理と請安は天皇のいる厩坂宮へ案内された。
玄理は、即位する前の田村皇子を全く知らない。玄理が国を出た時は、まだ天皇候補と考えられていない、数多いる皇子のひとりだったのだ。
朝庭に跪く玄理らの前に姿を現した天皇は、玄理の想像よりかなり若く見えた。病弱なせいか華奢で線が細い。
天皇の隣に皇后。皇后とも初対面だ。皇后は穏やかそうなごく普通の年配の皇女といった風情である。
厩戸皇子のような威厳も牽引力も、推古天皇の持っていた巫女性も、玄理は二人から感じ取れなかった。
天皇皇后と玄理らの間に大臣蘇我毛人が座っている。眉間に深く刻まれた皺が目立つ。自分が遣隋使に任命された時には毛人は既に父親の補佐をしていたから、自分よりかなり年上なはずだと玄理は思い出した。
天皇は玄理と請安の帰国をとても喜び、長年の労苦を労った。この国のために学んだ知識と技術を役立ててほしいと、二人に官位を与えた。
その午後、玄理と請安は共に飛鳥寺近くの大臣蘇我毛人の別邸での午餐に招かれた。毛人の邸宅は飛鳥の地に広く土地を使い建てられていた。
毛人は、改めて玄理らに労いの言葉をかけた。
こうして毛人を見ると、物腰穏やかな、それでいてどこか意志が強そうな顔をしていた。
毛人は玄理らに嫡男の入鹿を紹介した。入鹿には父親とは全く違った印象を受けた。キリリとした顔つきで、どちらかというと、入鹿の祖父、蘇我馬子の面影がある。玄理よりかなり年下であろう。
「唐国の都や宮はどのくらいの広さなのだね」
毛人は、唐の都の様子や人々の暮らしなどを尋ねた。
毛人が尋ねるのは政治の話はなく、当たり障りのないことばかりだった。入鹿は発言せず、ただ聞いていただけだった。
毛人が唐国の食事のことを質問した時、入鹿が眉を顰めたように玄理には見えた。まるで、そんなくだらない質問をして、と思っているような表情だった。
他愛もない話にうんざりしたのか、入鹿が言った。
「隋国の皇帝は家臣の反逆によって滅ぼされたと聞いていますが、それほど悪い皇帝だったのですか。一体どれほど悪行をしたのです」
「良いこともしたし悪いこともした、そんな皇帝です」
玄理は答えた。
それを受けて毛人が続けた。
「確かに、全部が全部正しい人間などいない。特に国を大きくするためには多少悪どいこともする。私もいろんな人間を見てきたからわかる」
「その通りです。唐国では隋の皇帝を悪く言っています。でも、唐が正しく隋が悪だったということではないと思います。勝者が正義、敗者が悪とされるのは世の常ですから」
翌日からは毎日、玄理らは毛人に連れられて、京中あちらこちらへ引っ張り回された。役所や寺、学問所などの施設の他、重臣が催す宴にも連れて行かれた。まるで、日本もこれほどに発展しているのだと見せているようだった。
飛鳥京は唐の都とは大違いだった。
唐の都、長安では、どこまでも平らな広い土地に城壁に囲まれた都、その中は整然と区画された条坊、街区の中心を広い大路が宮殿まで真っ直ぐに伸びている。
それに比べて飛鳥の地はどうだ。
山々に囲まれた湿原と田畑の中に、天皇の宮、皇族の宮や豪族の屋敷が点々と存在している。天皇が変わるたびに宮の場所も移り、唐のような大きな宮殿を作らない。その結果、どこが都の中心なのかわからないし、圧倒されるような文化的な都の印象を与えられない。
毛人が言うには、現在建設中の難波宮が完成したらいずれ難波に遷都するつもりであるとのことだ。玄理もその案には賛成だった。ただ、古くから飛鳥周辺に土地を持つ豪族らの反対は必至であろう、と毛人は言った。
「まだまだ発展途上の国だな」
宿に帰ると、請安は玄理に漏らした。