第20話・杏の枝
宝皇女が天皇となってからも、世の中は大きく変わらなかった。大臣は蘇我毛人のままで変わらず政の中心にいたし、天皇は以前に況して大臣の言いなりだった。
葛城皇子はそんな母に対して苛立たしく見ていた。
父の時代から変わらない。一体この国の天皇は誰なのか、この国は蘇我大臣のものなのか、なぜ父も母も天皇として政を行わないのか。
その不満は日々募るばかりであった。
葛城皇子はふと、中臣鎌足を思い出した。
・ ・ ・
高向玄理は相変わらず律令制度の草案作りに心を砕いていた。
いつまでたっても改革が進まずに焦れていた。草案作りに専念しようとしても特定の豪族に気を使うことを求められたり、権力争いが口を挟んでくる。本当にこの国は国家として発展する気があるのかと、疑わしくも思った。
鬱憤ばらしに南淵請安の庵へ行くことが多々あった。
請安は、そんな玄理の愚痴をただニヤニヤして聞くだけだった。
「そっちは大変だな」
「大変などと、他人事のように」
「こっちは面白いぞ。最近、変わった客が来るようになった。天皇の息子、葛城皇子が通ってくるのだ」
「皇子が学ぶのは別に珍しいことではあるまい」
玄理はぶっきらぼうに答えた。
「中臣連鎌足という男の話を覚えているか」
「ああ、なんでも大層頭がいい男だろう」
「俺の塾に通ってきているのだが、面白いぞ。毎回いろいろ質問してくる。先日は、隋がどうして滅ぼされたのか、詳しく聞きたがった」
「ふうん」
玄理は中臣鎌足にさほどの興味を持っていなかった。
「俺は言ってやった。もしお前が国王で、自分の国を滅ぼしたいのなら、大々的に国の制度を改正せよ。それから土木工事を盛んにし、諸外国へ戦に出かければいい。さすれば、民は疲弊し不満が溜まり自然と国は滅ぼされる」
「うむ。確かに隋は外征の失敗が反乱を起こさせたと言われていた」
「運河の建設は良いことだったが、ただでさえ新しい律令の制定で人民が戸惑っているところを、外征と建設の両方に人民を駆り出したのが失敗だった。人がいなくなり農地は荒れ放題になっていったのだからな。そこをうまく利用したのが唐だ。隋が作った律令制度と運河をそのまま貰ったのだから、良いやり方だった」
「うむ」
「中臣連鎌足、あの者はいつか何かをしでかすと思うぞ」
「何かというと」
「隋が滅ぼされた詳細だけではない。唐が成立した後、王の次男が、皇太子だった兄や弟を殺し、王位を継承した話を非常に興味深く聞いてた。反抗する人間に対しどうするか、既成権力をどう滅ぼすか、あの者はまるで、自分ではなく葛城皇子に聞かせるように質問してくるのだ。俺にはわかる。あの二人はお互い知らん顔をしているが、通じていると見た。きっと何か企んでるぞ。楽しみだ」
請安は笑って言った。
「まったく、請安も中臣連とやらも、一体何を考えているのだ」
請安の庵からの帰り道、玄理は、思い通りに仕事が進まない焦燥感もあって複雑な気持ちになった。
請安は帰国した時からこの日本を改革するつもりだったのだろう。それが、自分の健康上の不安から改革を全うできないと悟ると、後進を育てる方向に転換した。今、彼は自分の代わりを見つけたのかもしれない。
その時、どこからか、杏の香りがした。
顔を上げると、道端に白い杏が咲き始めていた。
玄理はふと、橘王のことを思い出し、杏の枝に手を伸ばした。
「私などが花を贈ったら迷惑だろうか……」
玄理は花を手折ろうとする手を止めた。




