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第18話・宝皇女の即位

 年が明け、年初の儀式が催された。

 天皇の喪中だったので祝賀の宴はなく、一月十五日に宝皇女の即位式が行われた。大臣は蘇我毛人のまま変わらず、皇太子には、大臣の甥っ子にあたる古人大兄が立てられた。

 宝皇女の即位を、皇女本人も、大臣も、その他の豪族も諸手を挙げて歓迎しているわけではなかった。山背皇子を推していた豪族のみならず、蘇我氏さえも複雑な思いで見ていた。天皇にふさわしい才覚が彼女にあるとは誰も思っていなかったが、窮余の策で選んだのだ。


 当初、宝皇女は天皇になる気などさらさらなかった。今後の人生を皇太后として影響力を持ちながらも悠々自適に暮らすつもりだった。

 しかし、軽皇子が宮を訪ねて言った。

「姉上はそれでよろしいのですか」

「ええ、もう政は疲れました。後はのんびり過ごしたいわ」

「葛城皇子を天皇にするのは諦めると」

「それは……。だって次は古人大兄だと決まっているし、もしかしたら古人大兄の後に回ってくるかもしれないでしょ」

「ふっ。姉上は判っておられないのですね。古人大兄がまだ若すぎるから、上宮家の山背皇子にという話になっているのですよ、今は」

「え、上宮家の、山背皇子? 」

「もし山背皇子が天皇になったら、政の中心は斑鳩に移って、葛城皇子に順番が回ってくるのは難しくなるでしょうね。姉上は今の暮らしが続けられると思っておられるかもしれないが、いずれ我らも古い皇族として打ち捨てられますよ」

「……」

 宝皇女の顔から徐々に血の気が引いていった。

「我としては何の関係のない山背皇子よりは古人大兄のほうがまだ良いけれど、古人大兄が立ったら、皇子の母、蘇我法提郎女そがのほていのいらつめ皇祖母命すめみおやのみこととなられる。我らが母上と同じ地位ですね。それだけが癪に障る」

「どういうこと、それは」

「考えなかったんですか。それくらい承知されているのかと。我は母上と蘇我法提郎女が同じ地位になるのはいい気分じゃないけれど、姉上が承知なさっているのなら致し方ないと思っていましたよ。おやまあ」

「だって」

「我なら、山背皇子も古人大兄も天皇にしない妙計があるですがね。姉上にその気がないならどうしようもない。我は何も言わずに引き下がりましょう」

「ちょっと、待って。詳しく話して頂戴」

 軽皇子は心の中でほくそ笑んだ。

「ならば姉上に策を授けましょう」

 軽皇子は、宝皇女が天皇になりたいと思っていることを阿倍臣に伝えるよう指示した。

「そうすれば阿倍臣が調整してくれるはず。姉上が天皇になりさえすれば、後は誰に譲位しようと自由でしょう」

 軽皇子は上目遣いで姉を見た。


 阿倍臣から皇后宝皇女を立てたらどうかという提案を受けた毛人は迷った。宝皇女を天皇にするということは、蘇我氏にとっても際疾い策である。彼女は自分の実の息子に皇位を継がせる気なのであろう。

「私が宝皇女に打診しましょう」

 入鹿が確認の役目を買って出た。


 皇后の宮を訪問した入鹿は、まず、宝皇女が中継ぎとして天皇になる意思があるかを確かめた。

 彼女は「皆が望むなら」と落ち着いた態度で言った。

「ただ、次の天皇となるには条件があるのですが」

 そこで入鹿は、古人皇子を皇太子とした上で五年後に譲位する条件を、宝皇女に突き付けた。

「もし皇后がお断りなさるなら」

 入鹿は目を側めた。

「山背皇子に話を持っていきますから、無理なら断っても構わないんですよ。山背皇子も古人皇子も我ら蘇我の血で繋がっておられる。まあ、山背皇子なら受けてくれるでしょう」と入鹿は空嘯いた。

 宝皇女はそんな入鹿の態度を憎らしく思った。だが、無碍に断るわけにはいかない。田村皇子が天皇になれたのも、自分が皇后になれたのも、全て蘇我氏の後援のおかげである。その蘇我氏に見放されたら自分と子供たちの将来はどうなる。

「少し時間をください。考えたく思います」


 入鹿が帰った後、宝皇女は頭を抱えた。

 入鹿が足元を見ているとわかってはいるが、拒むことはできない。条件を呑まなければ山背皇子に皇位が行ってしまう。息子の葛城皇子を位に即かせるには、上宮王家に皇位が行くことだけは避けなければならぬ。斑鳩が政の中心となれば、自分だって中央から遠ざかる暮らしとなるかもしれないのだ。しかし、古人皇子を皇太子とするのは本意でない。

 宝皇女は再び軽皇子を宮へ呼んだ。

「姉上は何をそんなに気を揉んでおられるのです」

 宝皇女の深刻そうな顔を見て軽皇子が言った。

「私なら一にも二にもなく条件を呑んで天皇になりますよ。天皇になりさえすれば後は好きなようにできるし、五年の間に何が起こるかわからないじゃないですか。そんな先のことを心配するより、今、姉上が断ることによる不都合を考えた方がいい。葛城皇子を皇位に就かせたいのでしょう。姉上が立たなければ、おそらく山背皇子、その皇子たちが皇位を継承し、もう二度と葛城皇子には順番が回ってこないのですよ。それでもよろしいんですか。私だって、甥の葛城皇子が天皇になってくれたほうが嬉しい。とにかくあれこれ悩む前に、受けてみたらいかがです」

 軽皇子は中臣鎌足と親しくなってずいぶんと弁が立つようになっていた。

「そう、……そうね。山背皇子が天皇になったらどうにもならないものね。でも、古人大兄を皇太子に立てるのよ」

「前にも言ったでしょう。古人大兄を天皇にしない妙計がある、と」

「その、妙計とは……」

「そんなこと気になさらずに、姉上は天皇になればいいのです」

 宝皇女はすがるような目で弟を見た。


 後日、宝皇女からの返答を聞いて安堵する毛人に対し、入鹿は当然顔で言った。

「断るはずがないと私は最初から思っていましたよ」

「しかし皇后は五年後、本当に譲位するだろうか。やはり自分の息子に譲ると言い出しはしないか」

「言い出すかもしれませんね。もし、どうしてもいうことを聞かなかったら、場合によっては……力尽くでもよろしいのでは」

 入鹿の言葉を聞いた毛人の脳裏に長谷部はつせべ天皇(=崇峻天皇)のことがよぎった。

 長谷部天皇とは、用明天皇(厩戸皇子の父)が薨去した後、蘇我氏によって擁立された天皇だった。天皇になってからは蘇我氏の意に反して自分勝手に政を行なったので、蘇我氏の家臣、東漢氏やまとのあやうじによって弑逆されたのである。

「できれば穏便にすませたいが」

 毛人は眉間に皺を寄せた。


 そして即位式の朝、天皇となった宝皇女はそんな密議などなかったかのように満面の笑みを浮かべ、群臣が会する朝庭に姿を現した。

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