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第13話・上宮太子妃という名-2

 玄理は時折、飛鳥の奥、小高い丘の棚田に囲まれた南淵請安の庵を訪ねた。京の中心地から離れたこの地に来ると、日頃の緊張が解けるようだった。

 請安の庵では、縁者だという若い男が住み込みで身の回りの世話をしていたが、玄理が訪問すると、請安は用を言いつけて男を外出させた。警戒心の強さは玄理以上だった。

 請安は常に言っていた。

「国作りが始まって三十年も経つのに、この国は我らが国を出た時と大きく変わっておらぬ。上宮様が亡くなって時が止まってしまったようだ。天皇も大臣も、地方の豪族の顔色を窺ってばかりで事を進めようとしないのだ。そなたも大陸の国々を見てきただろう。制度改革をするには一気呵成にやらねばならぬのだ。文句を言っていた者たちもいずれは慣れる。今の天皇にも大臣にもそのような力がない。これが大陸の国ならば、誰かが事を起こすかもしれないのに、この国は呑気だ」

 玄理も、請安ほどではないが政府のやり方を歯がゆく感じていた。

 厩戸皇子のように、真剣に国の将来を考えている人間がいない。蘇我入鹿は、自分の代になったら改革を一気に推し進める、と言ってはいるが、天皇と気持ちが一つになっていない。玄理はそう感じていた。

「上宮様のような方がいれば」

 思わず呟いた玄理を、請安は一笑した。

「落花枝に帰らず。いつまでも上宮様を惜しんでも無駄だぞ」

「そんなことは承知している」

 それでも思わず漏れてしまうほどの気持ちだったのだ。

「次の天皇ならできるだろうか」

「無理だろう。あの大臣がいる限りは。そうだ、貴公は次の天皇は誰になると思う。古人大兄じゃまだ若すぎよう」

「皆同じことを聞いてくるな。そんなこと、帰国したばかりの私がわかるわけがあるまい」

「それは俺も同じだ。だが情報集めを怠ってはいかん。俺は常に世間話のふりをして門下生から噂を仕入れている。情報を多く持つのは重要だ」

「ならば、貴公はその情報によると誰だと思うのだ」

「それは俺が考える必要はない。だがな、中臣鎌足連、彼は考えているようだ。次世代の有力な皇子たちに次々と近付いているともっぱらの噂だからな」

「鎌足連が……」

 玄理は橘王の話を思い出した。橘王の息子、白髪部皇子を有力候補の一人と思っているのだろうか。だが白髪部皇子は古人皇子よりも更に若い。

「白髪部皇子か……。あるかもしれぬな。蘇我氏の息のかかっていない皇子を担ぎあげれば、うまくいけば第二の蘇我氏となれるからな。上宮様の息子なら上等だ。貴公、橘姫王を妻にしたいのか」

「な、何を突然。私はそんなことは一言も」

「来る度に橘姫王がどうした、白髪部皇子がこうしたと、そなたを見ていればわかる」

「いや、だって、親子ほど年が離れているのだ。私のような年寄りを、彼女が相手にするわけがない。そのようなこと」

「上宮様とはもっと年が離れていたではないか。歳を取ってから若い妻を娶った男はいくらでもいる。だが問題は年齢じゃないがな」

「え」

「彼女は亡き上宮太子の妃、その名を捨てることはあるまい」

「……」

「上宮様のお母上は皇后だったが、天皇亡き後、再婚して皇太后の地位を捨てたそうだ。そなたの話では橘王は賢明な女性と見た。そのような愚行をするまい。上宮太子妃という名は尊い。もしかしたら今までも誰かに利用されそうになったかもしれぬ。その名は大いに役に立つのだ。白髪部皇子を天皇にするためには、彼女は再婚しないだろう。もし彼女が再婚するとしたら、相手は天皇か皇太子でなければならないのだよ」

「……そのようなことはわかっている。私のような身分の者が、彼女に近寄れただけすごいことなのだ。何も望んではいない」

「ふ……ん」

 請安は疑るような眼差しを向けた。

 そうだ、自分は時折でいい、橘王と心穏やかな時を過ごせればそれだけで満足なのだ。ただ芙蓉の花が揺れるように笑うあの御方の声をずっと聞いていたい、そう思っただけのことだ。妻に、などと畏れ多いことをこれぽっちも望んではおらぬ。

 玄理は自分の心に言い聞かせた。

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