第10話・桃見の宴
三月になり、桃の節句が過ぎた頃、玄理は橘王から桃見の宴に招かれた。
今回は白髪部皇子の宮ではなく、その奥にある橘王の宮であった。橘王と交流のある友人知人の集まりらしく、白髪部皇子はいなかった。玄理の他に、見知らぬ皇族、貴族の男女が数人集っている。
一緒に招かれた旻法師によると、橘王は季節ごとにこういった宴を開いて皇族や貴族、知識人などを呼んで親交を深めているそうだ。おそらく白髪部皇子の将来のために人脈を広げているのではないかという話だ。
橘王は、客一人ひとりに親しく声をかけ迎えた。
この日の橘王は、宴の趣旨にあわせ萌黄色の薄絹の装いで、まるで若い桃の蕾のようだった。揺れる白い玉の髪飾りが映えるよう、美しい髪を高いところで結ってあった。
午餐の前には皆で歌を詠みあった。お題は桃、あるいは春である。 中庭に面した窓を開け放ち、庭の桃花がちょうど皆から見えるようにしつらえてある。
皆はそれぞれ上手に歌を詠んでいき、やがて玄理の順番が回ってきた。
「私は不調法者で、皆さんのように歌を詠むのが得意ではありませんので、ここは、唐の国で覚えた漢詩を披露したいと存じます」
「春來日漸長、醉客喜年光、稍覺池亭好、偏宜酒甕香」
「まあ、どう言った意味ですの」
「春がやって来て日が長くなってきた。酒飲みも春の光を喜んでいる。池辺の亭の眺めも美しいし酒甕から漂う香りはさらに良い、という意味です」
「酒飲みの歌ですか」
「ええ、王績という詩人の歌です。大層酒好きで隠棲した自宅では酒を作っているほどです。隋の国の官僚として働き、隋が滅び唐の国となってからも仕官していたのですが、すぐに辞職して今は都を離れ隠棲生活をしています。私は大酒飲みではないのであまり気持ちがわからないのですが」
「私はわかりますぞ。世の喧騒を離れ池辺の別荘で酒の香りを漂わせる、大いに結構」
初対面の皇族らしい男性が言った。
「韻を踏んだ見事な詩ですね」
「なるほど呑気な暮らしの詩のように見えて、奥が深い」
橘王の宮で、玄理は久しぶりに楽しい時を過ごした。
妻子が死んで以来、何をしても楽しめずに暮らしていたが、明るく教養ある橘王や客人たちと話していると、とても穏やかな気持ちになれた。春という季節のせいもあるのかもしれない。
宮を出るときには「今日は楽しゅうございました」と言葉が心から出た。




