プロローグ
「上宮太子三部作」の第二作になります。「上宮太子三部作」は第一作「女帝の憂鬱・皇子の受難」(カクヨムに掲載中)、第二作「非時香菓〜上宮一族の滅亡」(なろう)、第三作「上宮太子の幻影」(なろう)の順番に読んでいただけると幸いです。
推古天皇の三十年(西暦六百二十二年)二月二十二日、世は沈黙していた。
その日の朝、皇太子厩戸皇子の薨去が伝えられると、人々は、農民や奴に至るまで、悲しみの涙を流した。
額田部皇女が天皇になり、厩戸皇子が皇太子となって国を治めること約三十年、その間、大きな争いもなく世は落ち着き、大陸の国との交流により入ってきた技術の発達により国は豊かになっていった。この平和な世は、厩戸皇子が天皇になってからもずっと続くと思われていた。
しかし、厩戸皇子は即位する前に薨去した。
天皇はもうじき七十歳と高齢である。皇太子の死は、敏達天皇が崩御した直後の皇位争いを人々に思い起こさせ、この先の世はどうなっていくのかと不安を抱かせた。
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埋葬が終わり四十九日の斎会が済むと、天皇は自身の孫娘である位奈部橘王を宮に招いた。橘王は天皇の次男の尾張皇子の娘であり、厩戸皇子の妻であった。まだ二十歳になったばかりだというのに、二人の幼子を抱え寡婦の身となった。
厩戸皇子には、橘王を含め四人の妻がいた。
一人目の妻は敏達天皇の娘、菟道磯津貝皇女。最初に娶った正妃であったのだが、子を成す前に世を去った。
二人目の妻は大臣蘇我馬子の娘、刀自古郎女。厩戸皇子の嫡男である山背皇子を産んでいる。彼女も既に故人となっている。
三人目の妻、膳氏の娘、膳菩岐々美郎女は、唯一、厩戸皇子が望んだ政略結婚ではない妻である。皇子に最も愛され、同じ宮で子供たちと一緒に暮らしていたが、皇子と同時期に同じ病で没した。
そして最後の妻、四人目の妻がこの橘王である。
皇太子である厩戸皇子は、いずれ即位する時には皇族出身の皇后を立てなければならなかった。そのため高齢となった天皇が自分の孫娘との婚姻を勧めたのだ。周りの皆も、いずれ厩戸皇子が即位する時には橘王を皇后として立てるのだろうと思っていた。
天皇が敏達天皇との間に産んだ皇子は二人いた。だが、長男竹田皇子は子を残さないまま早世し、次男の尾張皇子も橘王が幼いうちに没し、天皇は自分の息子を天皇にすることが叶わなくなった。そこで、息子の遺した娘、橘王を皇后とし、その子孫を天皇とすることで、息子の無念を晴らそうという思ったのである。
しかし、橘王が皇后となる前に厩戸皇子は薨じた。
「先日言ったこと、考えましたか」
天皇は橘王に対して、天皇としてではなく慈愛に満ちた祖母として言葉をかけた。
橘王は答えた。
「はい。私、繍帳を作ろうと思っています。我が君が住む天寿国を元に曼荼羅図を描いて繍帳を作り、ひと針ひと針、我が君のご冥福をお祈りしようと思っております」
「繍帳を」
天皇は、皺ひとつない若い橘王の顔を見つめた。
「我が君は生前おっしゃっていました。この世のものは全て虚仮、ただ仏だけが真にある、と。私はそのことを考えましたが、我が君はまさに天寿国に生まれ変わったのではないでしょうか。天寿国は私には見えませぬ。願わくは、愛する我が君が天寿国におられる御姿を想像することができたならと思いました」
厩戸皇子のおそらく最後の妻となるであろう若い孫娘に、一時は嫉妬を感じたこともある。しかし今は、若くして寡婦となった孫娘に自分の姿を重ね、憐憫の情しか感じなかった。
「そう。それはよろしいことね。良い供養になりましょう。貴女の気持ち、親として聞き届けましょう」
天皇はゆっくり頷いた。
自分も三十二歳と言う若さで夫を亡くした。
自分の場合は天皇であった父や夫を亡くしても、権力者である大臣蘇我馬子という叔父の後ろ盾があったが、彼女には頼りになる祖父も父も母も夫も、誰もいない。唯一頼れる祖母である自分は、既に老齢、いつまでこの孫を守ってあげられるかわからない。
しばらく橘王を見つめた後、思い出したように言った。
「その繍帳には、上宮太子と貴女とその子供の系図を入れたほうがよろしいわね」
「系図を」
「上宮太子がどんな方だったか、この世で何を成し遂げたか、天寿国の御仏にもよくわかるように」
「はあ」
「それに」
天皇は言葉を繋いだ。
「貴女の子供のためにもなりましょう」
橘王は、天皇が言わんとすることがよくわからなかった。
天皇は、自分が子を成すことが不可能になった時からずっと、この橘王を自分の化身として育ててきた。そして橘王が産んだ皇子、白髪部皇子の将来を、誰よりも案じていた。
自分が果たせなかった夢、厩戸皇子との子を天皇にする夢が叶わなかった今、今度は、厩戸皇子と自分の血を受け継ぐ唯一の男子、白髪部皇子に悲願を託したのだ。
「貴女の子が成人する頃には、私はもういないかもしれない。ですから、貴女の子が、正統な血筋の生まれであることが皆にわかるようにしておかなければなりません。私は貴女の子が天皇になるのを願っています」
天皇の目は、橘王を通り越して、何か遠くを見ていた。