4 どうせお前は変わらない
異様に白い、美しい女は地面に叩きつけられた青年を見て冷たい視線を送る。まるで、ネズミ捕りにかかったネズミを見るかのように冷ややかな。
「ユーリー……あんたはそこに転がってなよ。ボロ雑巾はボロ雑巾らしく転がっているのがお似合いなんだから」
イザベラは言った。
「そりゃ、ジェラルドがヤるってわけだから今は放置してあげるけど」
横たわるユーリーはいざ知らず、イザベラは青年の方に目を向けた。青年は痛みをこらえながら立ち上がり、再びイデアを展開した。
そして、イザベラに襲い掛かるコウモリの影。そのコウモリの影は触れた生命体の筋力を奪う。身体能力を大幅に強化できるユーリーだってそれによって無力化された。吸血鬼の血を引き、怪力を有するイザベラだっていずれユーリーのように倒れ伏すことになるだろう。
例えイザベラでも相性が悪すぎる。
ユーリーの予想に反して、彼女に黒い影が触れることはなかった。
黒い影は彼女から50センチほどのところで腐敗し、ぼろぼろになって地面に落ちた。その様を見て、青年は驚愕した。
「今、何が……」
「見てわからない? これだからストリート・ギャングは。お前の体も、同じようにしてあげる。もちろん、全身には及ばないから安心してね」
イザベラがそう言い終わらないうちに、彼女は消えた。いや、消えたのではなく常識外れのスピードで青年の後ろに回り込む。
イザベラは青年の右肩をモーニングスターで殴打し、彼に囁いた。
「名前を名乗りなさい」
イザベラは距離を取る。青年の右肩はみるみるうちに腐敗し、うっすらと骨が顔を出す。
殴られた青年の顔は青ざめる。
「名乗らなかったら、今度は左肩に同じことをする。誰を討ち取ったか、報告しておきたいじゃない?」
と、イザベラは言う。
ユーリーはイザベラに対し、恐怖心を抱いていた。
イザベラは嗜虐趣味を持つ、つまりサディストだ。それも敵意、愛情などほとんどの感情を抱いた相手を痛めつけたくなるという、悪質な。彼女にとっての違いといえば、痛めつけて殺すに値するものか否かの違い程度なのだろう。
――イザベラがヤツに対して本気を出しているように見えないが、やっぱりヤツは殺すにも値しない人間ってことか。
イザベラの持つモーニングスターには腐りかけた血液が付着し、異臭を放っていた。まだ、その程度――本気で傷つけるまでもないということ。
「チャドだ。デーモンボーイズの兄弟になったときに――」
「そうなんだ! とりあえず、立てる状態にしておく必要はなくなったね!」
イザベラはそう言うと、再びチャドに肉薄する。
その赤い瞳がチャドを見つめたかと思えばモーニングスターが振るわれる。棘のついた鉄球がチャドの肋骨を粉砕し、チャドは地面に叩きつけられた。
イザベラはチャドを見逃すこともなく、彼の頭を蛍光ブルーの靴で踏みつけた。
「で。私がいくらユーリーを見逃すからって、お前を放置するつもりはないんだけど。どう? 痛いか?」
イザベラの左足の下にいるチャドは痛みで声も出ないまま、不規則な呼吸を繰り返していた。加えて、殴打された場所は腐敗し、腐りかけた血と肉が露出している。それでもまだ、チャドは生きている。
チャドが動けない状態となり、ユーリーの体に力が戻る。彼は立ち上がり、イザベラとチャドを見た。
――やはりイザベラは痛めつけることを楽しんでいる。
「ねえ、ユーリー。一度裏切ったお前に言うのもよくないとは思うけど。もう一度タリスマン支部に戻ってこない? 再教育されることは必至だと思うけど。きっとジェラルドに殺されることもなくなるかもよぉ?」
イザベラはゆっくりと振り返り、静かな声で言った。
彼女の言った『再教育』。支部長の意向により、導入されたタリスマン支部独自のシステム『教育』を再び行うこと。人を殺すことをためらう者に対して行われ、彼らの心を徹底的に壊してゆく。そうすることで、人は残酷な殺人者と化す。
ユーリーも一度、『教育』によってその心を徹底的に破壊された。そうして人殺しに何も思うことがなくなったときに、殺人カビのイデアが発現した。
タリスマンにて行われる『教育』はユーリーにとって忌まわしいものであり、『再教育』もそうなのだろうとユーリーは考える。
「お前のやってることってさ、周りにいる囲いが変わっただけで本質としては何も変わっていない。お前は、どこに行っても殺人者。だったら、戻ってくる方がいいんじゃない?」
イザベラはユーリーの弱いところを確実に抉ってきた。
人の弱みを知るからこそ。『教育』によってその嗜虐性に磨きがかかったからこそ、彼女にはそれができる。
「認めてしまいなよ」
チャドの頭を踏み潰すと同時に、イザベラは言う。彼女の脚にはチャドの脳漿が付着した。
「畜生……やっぱり俺は……」
「『殺す者』。胸を張って名乗ればいいのに。ほら……ここにはまだ浮浪者もストリート・ギャングもならず者もみんないる! その持ち前の、最凶の殺人カビで殺してしまいなよ! それとも、逃げ出して腑抜けちゃったぁ? そうだよね。ヌルい仲間意識は力を削ぐだけだし! どうせお前は変わらない。残酷な人殺しで、いずれ仲間だって殺す! お前にくっついてきた赤髪の野郎も、早々にくたばるよね!」
イザベラは薄ら笑いを浮かべて声高々に言う。
――イザベラはタリスマン支部やトロイの考えに染まっている。いわゆる、悪人であれば何をしてもいい、という考えに。そこに彼女の嗜虐性も加わるのだから、苦しめられた者も少なくないはずだ。果たして彼女は正義に疑問を持ったことがあるのだろうか?
ユーリーは湧き上がる怒りを抑えながら斧を取る。
今、殺人カビを使えば再び暴走した正義を振りかざす殺人者になるだろうと考えながら。正義を振りかざすまいと決意しながら。
だが、彼の思いは早々に打ち砕かれる。
ユーリーを取り囲むストリート・ギャングの青年たち。服装からして、デーモンボーイズなのだろう。それに加え、数名の浮浪者。
ユーリーは囲まれていた。
「あはは……囲まれちゃったね! ユーリーはどうするの? 場合によっては私もユーリーの敵になっちゃうし! このまま1人ずつ相手にしたって――」
――違う。俺はトロイなんかと――
意識せずして、紫の胞子が周囲を漂いはじめていた。紫の胞子は殺意の胞子。あらゆる命を蝕み、奪う。
それはまさに、死神の吐息。ユーリーのトラウマと壊された心が生んだ、悲劇。
「やっぱり、変わらないね」
ユーリーの意識が向かないところでイザベラは穴から出ていた。
死神の吐息は廃工場の中に充満していた。