1 刑務所の屋上にて待つ
死亡したトロイ・インコグニート。その姿を見ていたのはケイシーだけではなかった。
トロイの死から2時間後。近くのビルの屋上から飛び降りたのはアリス。大人しくなったレヴァナントを見て、それとなく事情を察していたが――
「案の定お前にはタリスマンは厳しすぎたってわけだね。本当に無様だよ。こっちのトロイならまだ隠し玉があるというのに」
アリスはトロイ・インコグニートだった肉片を見下ろした。死んでからそれほど時間が経ったわけでもないが、それは既に腐臭を放ち始めていた。これもその能力の弊害だ。
――タリスマンの支配者。殺す者。運命の魔術師。裏切者。呪われた吸血鬼。そして、この私。いいね、役者は揃った。これから面白いことになりそうだ。
アリスは教会の廃墟を離れ、タリスマン支部へと足を進める。当然ながら、その場所には誰もいない。見張りもいなければ、本来そこにいるようなトロイの親衛隊もいない。それでもアリスは足を進めた。彼女自身の好奇心の赴くままに。そして、ついにアリスはとある存在と顔を合わせることになる。
アリスはふと、足を止めた。
「……禍々しい気配かと思えば」
男の声だった。その声に続き、ぬっと現れる長身で屈強な男。目の色は赤く、彼が人間ではないことは明白だった。
「模造の魔族か。そういえば、いたねぇ。タリスマンにはヤバいやつがって」
「ヤバいやつ……」
戸惑う様子を見せる模造の魔族、エリュシオン。彼の前に立つアリスは下手に手を出そうとはしなかった。吸血鬼から見てみれば、たとえ模造であっても魔族は捕食者だ。食物連鎖には抗えない。
「おまえは、何だ。急に俺の前に現れて」
「何でもいいじゃないか。私を制限できるのは私だけ。と、言いたいところだが何も手を出さなければ悪いようにはしないさ」
と、アリス。
暗闇に包まれた男はアリスの意図を読み取ろうともせず、ただ『捕食すべき相手』と認識してアリスに近寄った。
「ほう……やんのかい」
アリスは小声でそう言うとイデアを展開した。時の流れが遅くなる。エリュシオンは突然の出来事に戸惑いながらアリスを捉えようと手を伸ばす。が、アリスはそれをスルリと抜けた。アリスだけが加速しているような。違う。アリスだけが元の速度を保ち、それ以外すべてが遅くなったような。
エリュシオンが認識したのは引き延ばされた一瞬。認識できていたとしてもそれは不可解としか言えなかった。
そして。気が付けばエリュシオンは投げ飛ばされていた。そのままエリュシオンは剣を持った戦士のオブジェに刺さり、血を流す。
ここで時の流れが元に戻った。
「何をした……?」
「知りたければ自分で考えるがいいさ。一応、致命傷にならないようにはしておいたよ」
エリュシオンを見上げるアリス。魔族の痛覚はこの上なく鈍い。痛がる様子を見せないエリュシオンを見ながらアリスは投げ斧をちらつかせた。
「致命傷……吸血鬼ごときにそれができるのか?」
「さあね? ちなみに、理論上光の魔法を使わずに吸血鬼を殺すことは可能だ。それが魔族となれば、どうだね?」
アリスは歯を見せて声を出さずに笑うと投げ斧を投げた。狙いはエリュシオン――
オブジェが破壊される。自由になったエリュシオンはそのまま落下する。が、彼はその最中に彼自身の力を解放する。両手の腕にできた傷から伸びる蔦。それは鎧のようになり、一部はアリスを狙う。
アリスは跳び上がり、蔦を躱す。が、おそらくきりがない。アリスはスカートの中に隠し持っていた投げ斧を手に取ると壁に向かって投げつけた。吸血鬼であるアリスの力では投げ斧の1発でも壁を破壊することなどたやすい。アリスはあけた穴から外に出る。
エリュシオンはおそらく追ってくる。そう確信したアリスはさらに壁を破壊する。あわよくば瓦礫で埋めてしまおうと考えて。
「……ったく、こういうのを相手にしたくはないね」
積もる瓦礫を見てアリスは言った。
――相当マズいものが野放しになっている。アレは私よりも強い。並みの人間が吸血鬼を殺す感覚でどうにかできる相手ではない。私を斃せる相手でなければ厳しいところだねえ。
探さなければならない。光の魔法やそれに類するものを使ってエリュシオンを斃せる者を。それができる者はかなり限られてくるだろう。が、アリスには心当たりがあった。
マルセル・クロル。対策チームとしてタリスマンに派遣されてきた光の魔法使い。アリスは持ち歩いているメモ帳を出し、「光の魔法使いへ。刑務所の屋上にて待つ」と書いて紙飛行機の形に折ると空中に飛ばした。
「待っているよ、マルセル。あの姿を見たところで私に敵うとは思えないが」
寮の窓から入り込む紙飛行機。それが魔法によるものであることは一目でわかった。
ユーリーはそれを手に取り、開いて中を見た。
――光の魔法使いへ。刑務所の屋上にて待つ。
誰のものとも取れない筆跡。だが、それは達筆だった。
ユーリーは手紙を無言でマルセルに手渡した。
「どういうことだ?」
マルセルは聞き返す。
「光の魔法使いはあんたしかいねえだろ。刑務所の屋上で待つって話だぜ」
「どう考えても罠だろう。ルナティカがどう考えるかにもよると思うが」
と、マルセル。
罠と言ってしまえばそれまでだ。そんな中で、クリフォードは協力を仰ぐべくルナティカに電話をしていた。
「ルナティカか? 俺だ、クリフォードだ。マルセルが何者かに呼び出された。場所は、刑務所の屋上、らしい」
『本当に? そういうのって因縁でもない限り呼び出した側に事情があると思うんだけど。それか、マルセルをどうしても殺したい理由があるか』
と、ルナティカ。
「俺もそう思うぞ。だから監視役でも欲しいところだな」
『だろうね。うん、いいよ。エレナ辺りに頼んでみる』
ルナティカはそう言って電話を切った。
一方のユーリーとマルセル。2人の間には何とも言えない空気が漂っていた。行くべきか、行くべきではないか。
「マルセル」
と、クリフォード。
「お前も俺を行かせるつもりか? いや、ルナティカと電話しているなら何か策でもあるんだろうな?」
「ああ。さすがルナティカだ。名案を思い付いたらしい。とりあえずお前は1人で戦うわけじゃないからな」
クリフォードはそれだけをマルセルに伝えた。