2 地獄
マルセルはユーリーの思惑を不審に感じていた。本来なら吸血鬼は敵。それを超えた存在なのだから魔族も敵であるに違いないと認識していたから。だが、それについての知識もないユーリーはエリュシオンを早急に敵とみなすことはなかった。
ユーリーが考えていたのはあくまでも最悪のケースの話。エリュシオンに話が通じなかった場合の。
「振りきれてしまえば案外冷静になれるな」
一番前を歩きながらユーリーは小声で言った。その声はクリフォードやマルセルには聞こえていない。
歩き続けていると、鉄の扉が一行の目に入る。以前は鎖で固く閉ざされていたはずの扉はなぜか鎖が外されている。そして、この場所。ユーリーは息を整えてクリフォードらの方へ向き直る。
「俺の記憶が正しければここにエリュシオンがいる」
と、ユーリー。
「だろうな。お前の様子でそれとなくわかるぞ」
クリフォードは言う。
鎖が外されていたとしても、鍵が開いているかどうかはわからない。ユーリーはどうにか扉を開けようと、扉を押した。
扉は重く、堅い。鍵は閉まっている。どうやら、扉の鍵までは開けられていないらしい。扉の前でユーリーはため息をつくとクリフォードらの方に向き直る。
「今は入れない」
ユーリーは言った。
「本当なのか?」
マルセルは聞き返す。
「信じられねえならお前も押してみろよ。本当に開かねえよ」
と、ユーリーが答えるとマルセルは扉の前に立ち、力をかけた。重い扉は動かない。しっかりと鍵がかけられ、内部にいる何かを閉じ込めている。と、同時にマルセルはあることに気付いた。扉を伝うものは何やら馴染みのある、それでいて得体の知れないエネルギー。ユーリーには感じ取れなかったものを、マルセルは確かに感じ取った。
この扉と鍵にはよく知られていない魔法が伝っている。
「今は開かないだろうな。だが、俺はこの扉の鍵の仕組みを知っている。魔法仕掛けの時限装置だ。こじあける方法はわからない」
と、マルセル。
「爆弾以外にも使い道はあるんだな」
「ああ」
マルセルはユーリーに聞かれて頷いた。
「その扉なら夜に開く。扉の管理なら俺がやっていたからよくわかるよ」
ぞわり。
マルセルが感じ取る怪しい気配。その傍らのユーリーは半ば動揺している。
「初耳だぜ、ケイシー……何しにここに来た?」
ユーリーは振り返ることなくそう言った。優しいつもりでいるケイシーも、記憶を取り戻した今のユーリーは信じることなどできない。
一度この場所から逃げるときの約束も――
「スカウトだよ。ユーリー、また俺のところに来ないか? どうせトロイはいなくなるんだ、次は俺たちがこのタリスマンで――」
それは呪いの言葉だった。ユーリーの心を蝕んでいた、他でもないこの男。彼の目的などユーリーの知るところではないが、彼は過去にユーリーを貶めた。その記憶をも改竄し、表向きでは頼れる人物を演じていたのだった。
「どの口が言いやがる、ケイシー。俺に隠してやっていたこと、知ってんだよ」
ここでユーリーは振り返る。
ケイシーに向けるのは憎悪。トロイに向けるものとはまた違ったような。
「なんのことだ、ユーリー。仮にそういうことがあったにしても俺はあんたの味方だが」
と、ケイシー。
――あれだけ俺を貶めておいてよく言えるな。何を考えているか知らねえが。お前がしたことまで知ってしまった以上、以前と同じように接するなんて無理な話だ。
「8年間同じチームにいたからよくわかる。俺はあんたの理解者だぞ? ルナティカより……」
「じゃあ一つ聞くぜ。俺を兵器っつったのは誰だ? ルナティカのしたことを密告したのは。優しい顔をしながら、お前は……」
と、ユーリー。
当然ながら、彼の過去はクリフォードやマルセルの知ったことではない。それでも二人――ユーリーとケイシーの間の雰囲気はよくない。
それを感じ取ったのか、クリフォードはアサルトライフルを手に取ってケイシーに銃口を向けた。
「やめてくれよ。そうしたら俺が悪者みたいだろ。なあ、赤髪くん?」
向けられた銃口を前にして、ケイシーは両手を上げながら言った。
「そうだな。まだ悪者だと決まってはいない。だが、ユーリーの様子を見るに以前何かあったらしいな」
と、クリフォード。
「何もなかったと言えば嘘になる。ユーリーを利用しようとしたことについては謝罪する。が、俺はトロイをあの座から引きずり下ろすことだけを考えた。ユーリーを手なづけて、ルナティカを投獄させて、トロイに接触した。そうした方が、都合がよかったよ」
ケイシーが語る、彼の思惑。彼がしようとしていたことは恐らく、ユーリーを味方につけること。そして。
「思い出したならわかるだろ? お前がただの殺す者でいてくれたらそれでよかった。俺とお前だけで新しいタリスマンを作り上げられるんだ。地獄のようなタリスマンじゃなくなるんだ」
ケイシーは言う。それと同時に引かれる引き金。弾丸は見切られていたかのように打ち落とされる。打ち落としたものは、ケイシーの周囲に展開された巨大な手の骨格。それは青白いエネルギーを纏いながら蠢いていた
「地獄か……」
マルセルは口ごもる。
「そう、地獄。タリスマンを地獄だと思ったのはユーリーも俺も同じ。なぜ対立する必要がある? いくつもの運命から、やっとここまで進めたというのに」
ケイシーはマルセルを憐れむような目で見ながら言った。
これ以上手を出してはいけない。ユーリーもマルセルもクリフォードも下手に動くことができなかった。対するケイシーはユーリーに近寄り、彼の頬を手で撫でる。
「地獄から自由になりたくないのか? 俺がいればジェラルドもトロイも敵じゃない」
語りかけるケイシーの声は優しかった。だが、彼はユーリーが恨まれる原因となった人物。ユーリーはどうしても許せなかった。
その一方でユーリーはケイシーの中に絶対的な正しさを見た。強くて、不正をものともしないような。もしこの世界で一番正しい存在があるのであれば、間違いなくケイシーであるように。しかし、その正しさは歪だった。
「もし、お前の提案に乗ればルナティカはどうなる? ルナティカに限らずクリフォードとマルセルは?」
「死ぬよ。俺に反抗してくることは目に見えている。そうなれば殺すしかないじゃないか」
あっさりと答えるケイシー。ユーリーはケイシーを突き飛ばし、イデアを展開する。
「聞いたよな、お前ら。こいつ、俺以外を殺すつもりらしい」
ユーリーは言った。
「どうしたんだ、ユーリー。お前、結構動揺しているんだろ? いつでも俺は受け入れてやるよ」
――ヘドが出る。どうせケイシーはあの態度の裏で何かを考えている。
ケイシーは立ち上がってその場を去った。
「いつもの会議室に手紙を置いてきた。もし読んでくれたらお前の考えも変わるはずだ」
その言葉だけを残して。