16 もう長くない
――こっちだ!
ブリトニーはちらりと上を見た。追ってくる少女エミリー。逆光で顔は見えないが、確かに彼女はブリトニーを狙っている。無邪気そうにブリトニーを追い、どこか適当なタイミングで首などを斬ろうと。
「逃げてもむだだよ。だってここはわたしの庭だから」
エミリーはブリトニーの死角に入り、そこからブリトニーに突っ込む。身長が足りずに首を落とすまではできないが、エミリーが狙ったのは足。
鉈がぎらりと光る。
――くそっ! 奇襲が得意なのか!
ブリトニーの脚を掠める鉈。あと少し遅ければブリトニーの脚は斬られていただろう。
ブリトニーは攻撃後の隙を見て電磁波を放とうとした。
この光景を見ていたのはブリトニーだけではなかった。
偶然路地裏から見えていたイアン。戦っている二人はいずれもイアンがよく知る人物。特に、エミリー。彼女は――
「エミリー……なぜ生きているんだ。君はあの日に病気で死んだはずだ……」
イアンの知るエミリー、エミリー・クレヴィック。7年前、当時は原因不明とされた病気――ゲート由来のガスによる中毒で死んだとされるイアンの娘。葬儀だって済ませ、テュールの町の墓地に埋葬されたはず。イアンも娘の葬式で棺の蓋を閉めていたことを覚えている。
そして何より不可解なこと。仮にそれがエミリー本人だったにしても、彼女はあの頃――7年前と変わらない姿だ。
――確かにイデアなら死体を操れるし、実際にそういう能力を使うヤツなら心当たりがある。だが、エミリーの遺体を腐敗させずにどうやって7年間も持たせるんだ……!?
イアンは確かめずにはいられなかった。
「――逃げてもむだだよ。だってここはわたしの庭だから」
切り込むエミリー。はっきり言って、ブリトニーは今のエミリーに有利とは言いがたい。イアンはブリトニーの援護をするため、エミリーのことを確かめるために路地から飛び出していた。
「……え?」
エミリーはイアンの姿が目に入った瞬間、目を見開いた。一瞬だけ動きを止め、鎖を鉈で受け止めた。その瞳に映るのはエミリーの記憶の片隅にいる人物。かつての――
「エミリー。君は一度……」
「そうだよ。わたし、生きてなんかいない。トロイに……」
エミリーは感情のこもらない声で言う。それはまさしくイアンの知るエミリーだったのだが。
それでもイアンは恐怖を覚えたのだ。娘が得体の知れない化物に変えられている。誰がやったのだろう。エミリーの目線を避けながら彼女の前に出るイアン。
「トロイが何かしたと言うのか……」
イアンは声を漏らす。
そんなとき、ブリトニーが言う。
「待て、状況が読めねえな。その子がレヴァナントだってのはわかる。それで、あんたは何のつもりなんだよ、イアン」
「私の娘が彼女なんだよ。何があったのかは知らないが、おおかたトロイがやったんだろう。しかも普通のレヴァナントとは違って人格を残している」
イアンは答えた。
「人格を残したレヴァナントか。そりゃ、厄介な相手だな。だが人格があるなら説得もできる」
「説得か……」
ブリトニーに言われ、頭を抱えるイアン。
エミリーは今、自分自身がトロイの娘なのだと思い込んでいる。その彼女をいかにして本来の彼女に戻すか。それが問題だった。
先にエミリーに歩み寄ったのはブリトニー。
「よしよし、その鉈を振り上げるなよ。あんたはね、そのお父様ってヤツに人殺しさせられてんだよ。わかるか? ストリート・ギャングのボスだってあんたが殺したんだろ」
彼女の口調はエミリーを追い詰めていた。やっていたことは事実なのだが、エミリーの精神力などたかが知れている。エミリーは怯えた顔で――
「わたし、悪くないもん! トロイがやれって言ったから!」
話が通じない。エミリーは自分の非を認めずにその目に涙を浮かべた。レヴァナントであるとはいえ、彼女も10歳前後の少女。非を認められないことだってあるのだろう。
――やはり、私の娘ではないのか? いや、確かめるしかない。
イアンはエミリーから一瞬だけ目をそらした。自分の娘はこのようなことを言う子ではなかった、と考えながら。実際、彼女が死ぬ前はそのようなことを言わなかった。
イアンは鎖のイデアを展開し、エミリーに向かって放った。鎖が伸びる。建物や塀に固定され、エミリーを縛り上げた。エミリーはもう動けない。勿論、鉈を振るうこともできない。が、エミリーは鎖で空中にとらえられたままその手にしっかりと鉈を握り、イアンを見下ろしている。
「エミリー、私を覚えているか? 私と一緒にいた頃には一緒に旅行にも行ったね。アトランティスは良かっただろう?」
イアンはエミリーに近付いて過去の思い出を語る。少しでも思い出してくれるのなら、と考えてのことだった。
「うん」
エミリーは返事をした。緊張――イアンを警戒したような顔のままであるが。
「そうだろう。エミリーも楽しそうだった。病気が治ったらまた行きたかったね」
「うん。でも、できなかったよ。お父様から聞いてしまったの、わたしがゲートに近づいたからああなっちゃったって」
と、エミリー。
やはり、彼女は自分自身の娘だとイアンは再認識する。だからこそイアンは優しくて悲しそうな顔でエミリーに声をかけるのだった。
「そんなことはない。あれはね、仕方がなかったんだ……エミリーは、私にもう一度会うまでどうだったかな?」
「こわかった。お兄ちゃんが……他の人にいじめられて、なのに次の日には忘れてるみたいだったから……」
エミリーはイアンの前で本来の彼女の心を見せつつあった。
「辛かったね」
「ううん。でも、トロイももう長くないみたい。だからわたしももうすぐ……」
エミリーは言う。
――わかっている。トロイの手でレヴァナントにされたのだから、ヤツ次第でエミリーはどうにでもなる。恐らくは――
イアンが再びエミリーを見たとき、彼女の体からは力が抜けていた。鉈も地面に落ち、体は磔の死体のよう。トロイがイデアを解いたのか、あるいは。
そして、イアンも。胸に激痛が走ったのだ。
「んぅっ……」
左胸を押さえて背中を丸めるイアン。
「ちょっと、所長!? どうしたんだよ!」
ブリトニーはイアンの異変に気付くと声をかける。
左胸を押さえたイアンの顔には脂汗が染み出ており、表情は痛みあるいは苦しみに満ちている。おまけに顔色も悪い。呼吸もとぎれとぎれになっているが――
「いや、ちょっとした発作……違うな。私にも寿命が近付いているということだ。私は持って1週間か」
イアンがそう言うとブリトニーは耳を疑った。
「は?」
ブリトニーは聞き返す。41歳のイアンが寿命を迎えることについて、ブリトニーとしては気になることだらけだったのだ。