第一章07 入学前日、それぞれの思い。
月日は流れた。
早朝は書き物それから剣の指南。朝昼晩と主人の付き添い。そしてまた、変わらぬ次の朝が来て。
俺は変わらずフィーリア様の従者で、フィーリア様は俺の主人。
その関係が、いつの日か崩れるとしても。その時が来るまでは、彼女の笑顔を隣で見ていたいと思う。
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「ジジイ。久しぶりだな」
人の手が一切加わらぬ森の奥深く。その一角で、確かに人の暮らしていた痕跡が残る小屋の焼け跡がある。
何か月ぶりだろう。約一年、来ていなかっただろうか。
毎朝の指南役との剣の稽古に、フィーリア様の付き添い。それでへとへとになった上、さらに、娘の為だとか抜かしてヴラドは屋敷から抜け出すことを許してくれない。事実上の無休暇状態。誰だあんなところホワイトとか言ったやつ。うん、一年前の俺だ。そして、そんな俺をケラケラ笑いながら眺めてくるフィヨルド。
過ごせば長く。過ぎれば短い。そんな一年という短い期間の中で、俺は少しばかり背丈を伸ばし、たくさんの人々と出会って、話した。
そんな成長しているのかしていないのかわからない俺ことスカイ十二歳は、恩人――――――ユズル・ナリタと共に暮らしたその場所で、彼へ想いを馳せていた。
「俺、フィーリア様の付き添いで学園に入るんだ」
返事はない。ただ、記憶の奥底にあったジジイの声が、鮮明に甦ってくるのを感じた。
『そうか。元気そうでなによりだよ』
「またしばらくここには来れないけどさ。来れる時が来たら絶対、会いに来るからさ」
『ああ。待ってる』
返事はない。ただ、ジジイの声を都合よく脳内で再生しているだけ。彼ならきっと、こう答えてくれるだろうと。
「またな。次に来るときは、もっと背、伸ばしとくから。楽しみにしておいてくれよ?もしかしたら、追い越してるかもな」
そして沈黙。目を閉じ、過去の日々、そしてこれからの日々に目を向け、想いを馳せる。
不意に、心地よいそよ風が吹き抜けた。
――――――ああ。楽しみにしてるぞ、スカイ。
その優しげな声は、確かに耳に届いたんだ。
「バイバイ、ユズル」
初めて、その名を口にした。
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今日一日の予定はいつも通りだとは言いがたい。
なぜなら、明日の早朝にはこの屋敷を出て、王都にある学園へ向かわねばならないからだ。その為の準備を今日中に全て完了させるべく、授業は免除という形になっている。言ってしまえば、一日が自由時間である。・・・・・・俺は自由になれないけどな。
そういうわけで、一日が明日の準備に回される分、必要なものの買い出しの為、という大義名分を使って、俺は約一年ぶりに屋敷の外へ解放されたのだった。
「遅かったわね、スカイ」
部屋へ向かえば、愛らしい顔立ちの少女の姿が目に入った。
元々愛らしかった顔立ちは、出会って一年が過ぎて美しさの片鱗を際立たせ始めている。つり目で気が強そうなのはそのままだが、表情は当初よりだいぶ柔らかで優しげなものになった。髪型は変わらずロングのままで、その茶髪の艶やかさは、さらに磨きがかかったように思う。背も少し伸びて・・・・・・体のラインには女性らしさが出始めていた。
その可憐な少女――――――つまるところ我が主人、フィーリア様がベッドに腰を下ろして足をパタパタさせていた。俺の部屋だぞ。プライバシーの何もあったもんじゃない。まあ、今更なんだが。
「ちょっと買い物が長引いてしまいまして」
手に持つ紙袋をベッド横の机に置きながら、そう答える。嘘は言っていない。事実滅多に屋敷の外へ出ないフィーリア様のためにお土産を買っていて、時間が結構かかってしまった。真の目的は、ジジイに会いに行くことだったが。
「そうなの。明日は早いから、荷物整理だとか、早いうちにやっておいてね」
これは、俺の荷物を、という意味だ。従者を思いやったりと、考え方が少し貴族のそれからズレているフィーリア様は、自分の荷物は自分で準備している様子。普通は従者や使用人に用意させると思うのだが、この人は「? 自分のものは自分で準備するものでしょ?」と首をかしげながら、さも当然のように言うのだ。やっぱりこの人ちょっとおかしい。
「はい」
首肯すると、すぐさま次の話題を切り出される。
「あ、そうそう。今日は一日暇よね?」
「いえ、私は一日貴方の従者のままですよ」
例え主人が暇でも、つき従わねばいけないのが従者である。
例え主人が休暇でも、自らは休暇じゃないのが従者である。
例え休暇がなくても、文句を言ったり逆らったりすれば殺されるのが、グランヒール家の従者である。
この三つ、しっかり頭に刻み込んでます。
「そうよね、暇よね。じゃあ、少し付き合ってくれるかしら」
「おい俺の話聞いてたかあんた」
俺が返した言葉の意味をよく理解できていない残念なお耳とおつむをお持ちのようなので、なんとか理解させようと頑張ってみることにする。この一年で頭も少しは良くなったと思ってたんだけどなぁ。
が、言葉を紡ごうとする俺を遮って、だって、とフィーリア様は言った。
「私が暇なら、あなたもほとんどやることないはずだわ。なら、別にいいじゃない」
「そりゃあ、そうですけど・・・・・・」
でも付き従うから暇ではないんだよなぁ・・・・・・
「じゃあ決まりね。付いてきて」
ぴょこんとベッドから立ち上がり、俺を背を向け扉へ向かうフィーリア様。
有無を言わさぬその態度に、ため息をつきながらも、
「・・・・・・待ってくださいよ、フィーリア様!」
微かに笑みを浮かべ、後を追う俺だった。なんだかんだで、この人に振り回されるのは悪い気はしないし、今に始まったことでもない。
もう、一年、彼女の隣にいるのだから。
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フィーリア様の後を追って、彼女の部屋につく。これではいつも通りではないかと彼女を見れば、見慣れたイタズラっぽい笑みを浮かべ、何やら本棚をいじりだす。不思議に思いながらその様子を背後から見ていると、不意にポチッと、何かを押したような音がして、天井の一部が開き、そこから梯子が降りてきた。・・・・・・なんだこの仕掛け。
梯子を登ると、そこは屋根裏部屋であるようだった。こんなのあったんだ。隠し部屋か、何だかカッコいい。
「・・・・・・屋根裏なんて入れたんですね。今まで知りませんでしたよ」
感心するような驚いているような複雑な声音で言いながら、ニコニコ、という音が似合いそうなイタズラっぽい笑みを浮かべた、我がご主人様を見据えた。
「だって、教えてないもの。ここを知ってるのなんて、グランヒール家の人間と、限られた使用人だけだから」
「・・・・・・そんな場所、俺なんかに教えていいんですか?」
「いいの。スカイは特別」
ずいぶんと信頼されてるもんだな、俺。
一年間一緒に居たくらいでそこまで人間を信用できるのだろうか? 人の悪意を視てきたこの人であれば、なおさら。
そんな俺の心中の疑問を読んだように、フィーリア様は答えた。
「だって、スカイの心の色は丸見えだし。部屋の中にだってこの一年、毎晩ずっと入り浸ってるんだから、あなたのことはだいたい知ってるつもりよ。今更あなたの人間性を疑ったりなんかしないわ」
ふふん、とドヤ顔で言われた。ムカつくのに可愛い。
「・・・・・・ひぇー」
でも怖いな、それ。信頼と引き換えに人間性筒抜けとか、本当にプライバシーもプライベートも何もかもが無くなっちゃってるよ。
「・・・・・・まぁ、それは置いておきましょう。ところで、何故俺のことをここに連れてきたんです?」
「ここからならよく見えるから、かしらね」
「?」
そんな主語の抜けた発言の意味がよくわからず、眉を潜める。
「ほら、貧民街。スカイと私が、初めて会ったところ」
窓から覗ける眼下の景色の一角。フィーリア様の指差すそこに目を向ければ、そこは懐かしく、それでいて苦しい日々を過ごした、ある意味で故郷と呼べる場所だった。
「・・・・・・ああ、なるほど」
ようやく理解が追いつき、声を上げる。
「本当に一年間あっという間だったな、なんて思ってね」
「そうですね。凄く充実してました」
ジジイと過ごした日々と同等か、それ以上に。
ムカついたり、殴ってやりたいと思ったこともあったけど、それ以上にこの人と共に過ごした日々は、輝いていて、楽しかった。
フィーリア様も、そう思ってくれていたら、なんて思ってみる。
「私ね、笑わない人間だったの」
唐突な話題の切り替え。その懐かしむような悲しい瞳には、一体何が見えているのだろうか。
「・・・・・・はい」
ただただ肯定の意を示す。わからなくても、聞き手に徹することはできる。今は、同調することではなく、聞くという行為そのものに意味があると思った。
「神眼に目覚めて、人の打算とか、汚れた部分が目に見えてわかるようになった。こんな奴等と仲良くするとなんて無理だ、なんて。いろいろ抑え込むようになったわ」
「・・・・・・はい」
「一年だって、一日だって。凄く長いものに感じていたわ。でも、貴方と過ごした日々はあっという間に過ぎて。スカイとなら、いつだって楽しく思えたの。笑うことができたの。貴方と出会えて、本当によかったわ」
まるでどちらかがもうすぐ死んでしまうかのような口ぶり。縁起でもないのでやめてほしい。
「・・・・・・お別れみたいに言わないで下さいよ。俺は、これからもフィーリア様についていきます」
「あら、そう聞こえちゃった?・・・・・・ええ、お願いね。私、スカイがいないと、きっと笑えないから」
それは流石に依存がすぎるのではなかろうか。俺を大事に思ってくれることは嬉しい限りだが、そんな狭い世界のままで自己を完結させるのはこの少女には勿体なさすぎるように思う。このお人好しなご主人様は、もっと周囲に目を向けるべきであると思うのだ。彼女の『眼』を考えれば酷な話かもしれない。けれど、悪意を遠ざけるだけでなく、利用したり、引き込むことができるようになれば、この人はきっと今以上に輝く。
だがまあ、今は。今はまだ、
「それはそれでまずいと思いますけど。・・・・・・でもまぁ、約束しますよ。俺は、絶対に貴女の隣にいます」
俺を頼ってくれる内は、その思いに応えようと思う。いつか、この人が外に目を向けられるようになるまでは。
「これからも、よろしくね。スカイ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願い致します。フィーリア様」
ふふふっ、と無邪気に笑う。はははっ、と軽々しい笑みを浮かべる。
この、笑顔の似合う可愛いご主人様に、今一度、強く忠誠を誓おう。一年更新の忠誠なんて、安っちいものになってしまうけれど。そんな安い忠誠でも、俺には誠心誠意の精一杯だから。
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フィーリア様と話し込んでしまい、喉が渇いてきたので、お茶と、あればお茶菓子を持ってこようと思い、梯子を降りて、部屋を出た。
常に料理人がいる厨房の横、使用人用の台所へ向かい、ヤカンを用意する。
火をつけるには基本、常備されている火の魔石を使用しなければならないが、俺の一年間で培った一段階魔法でも、代用可能だ。使い道が生活に役立てる程度のものなので、時々悲しくなるが、資源を節約できるので、悲しさは忘れよう。うん。環境に優しいっていいよね。
湯が沸けば、ヤカンを取って、こちらも常備されている茶葉を使い、紅茶の完成だ。俺だっておちおちフィーリア様の後をついて回っていただけではないのだ。フィーリア様の学園生活をサポートするべく、使用人の必須家事スキルとこの歳の勉学はあらかた習得済みである。まぁ、紅茶淹れるのなんて、誰でもできそうなものだけどな。
後はお茶菓子だが、これは客人用のものなので、勝手に持っていくわけにはいかない。保存されていたクッキーを何枚か拝借し、近くの革袋へきっちりその分の金を入れておく。俺の給金からの出費だが、特に使い道があるわけでもなく貯金しているので、むしろこれを食べたフィーリア様の笑顔が見れるなら、安いものである。もしかしたらお菓子の横領など可愛いものだと思うかもしれないが、そこのところは使用人一同の意識が高く、厳しいグランヒール家であった。流石公爵家と言ったところか。
お盆にクッキーの皿と、淹れたばかりの紅茶を乗せ、フィーリア様の部屋へ引き返す途中、
「おはよースカイ君」
「げっ」
うげ、引きこもり兄貴だ。残念なことに、フィヨルドと遭遇してしまったのである。かれこれこの人とも一年の付き合いになるのに、今だ底が見えないし、怖い。後腹立つ。
「げっ、て。最近俺に遠慮しなくなってきたね、スカイ君」
引きこもり兄貴は苦笑しながら、廊下を歩く俺の前にたち塞がった。
今回は何を企んでいるのか警戒しつつ、用件を問いながら急かす。
「何の御用でしょうか?紅茶が冷めてしまうのですが」
言ってしまえば邪魔なんで、この世から消えて下さい。
お盆を彼の目線に合わせるように少し持ち上げながら言うと、少しも申し訳ないと思っていない様子で謝罪を重ねながら、用件を述べたフィヨルド。
「ごめんごめん。明日からは君の顔もしばらく見れなくなるからね、寂しくって」
とほほー・・・・・・と、寂しげにうつむくフィヨルド。十中八九演技だ。それがわからないほど関係は浅くないし、深くもない。
「それで、本当のところは?」
指摘すれば、すぐにいつものニコニコ顔に早変わりだ。こいつの豹変する表情は、九割方演技で出来ている。
「はいはい、急かさないの。用って訳じゃあないけど、お望み通り手短に」
「お願いします」
「まず、指南役から伝言ね。『あちらでも、鍛練を怠らぬよう。僅かな怠惰が、肉体を衰えさせます』だって」
「・・・・・・地味に似てますね」
伝言を、律儀に指南役の声マネまでして行うフィヨルド。不覚にも吹き出しかけた。こいつ、才能あるな。
あの人にも随分お世話になったものだ。既に戦場で生き残れる程度には、俺も上達したらしい。あの山賊顔の誠実な化け物が、薄っぺらい嘘をつくわけがないので、事実なのだろう。ただの十二歳男児としてはにわかには信じがたいが。
「後、これは俺自身からの言葉ね」
「言い方がまどろっこしいですね」
「そんなのいつものことだろう?」
「違いないです」
こいつと打ち解けた、というのは認めたくないのでそうは言わないが、こいつの表の為人は、それなりに理解しているつもりだ。その笑顔の裏の顔はどうかは知らないが。
「じゃあ、言わせてもらうけど。フィーリアを悲しませたら許さないフィーリアを裏切ったら許さないフィーリアを支えないと許さないフィーリアを気遣うことをやめたら許さないフィーリアから離れたら許さないフィ」
「おいおいおいまてまてまて」
圧縮言語やめろ。
「? どうしたんだい、そんな焦って」
「どうしたもこうしたもないですよ!そんな早口で捲し立てられても覚えられませんから!」
「記憶力ないねぇ・・・・・・」
「無茶言わないで下さいよ!?」
こいつ妹大好き過ぎだろ、本人の前じゃそんな素振り見せない癖に。愛情を俺にぶつけるのはやめて頂きたい。
よく見れば、笑みがやや強ばっている。こいつもこいつで、フィーリア様のことを心配しているのだ。そんなたまに見せる人間らしさに、思わず顔がニヤけてしまう。
「心配は無用ですよ、フィヨルド様。私はフィーリア様から離れません」
「そうだね、うん。君は、そういう奴だ」
今まで何度も見てきた笑み。普段通りなら、底が見えない不気味なものであるはずなのに、
「妹のことは、任せた。ちゃんと、見守ってやってね」
何故こんなにも、温かな気持ちにされるのだろう。
「・・・・・・かしこまりました」
初めて、コイツに敬意のようなものを感じかけた。本当に不覚だ。
気持ちとは裏腹に、結局紅茶が冷めてしまったのは余談である。
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「早く寝て下さいよ・・・・・・明日もフィーリア様を起こすの俺なんですから。俺が起きれなきゃ一貫の終わりですよ」
もう夜も更けてきた。場所はいつもと変わらず俺の部屋。明日は荷物の最終確認とヴラド達との挨拶があるので、いつもより更に早く起きねばいけない。
「だって、ここでスカイと話すのもこれが最後だわ。名残惜しくなっちゃって」
寂しそうに、腰かけているベッドを撫でる。
「最後って訳じゃないですよ。時々帰ってくればいいじゃないですか。貴女の家なんですから」
夏と冬に長期の休暇だってある。なんなら、月に一回でも、休日に帰省すればいい。
「今は、スカイの家でもあるわ」
ハッとして。フィーリア様の顔を見る。その表情は、イタズラに成功した子供そのものの笑顔で。
してやられた、と思った。
意趣返しとばかりに、何でもないような顔で言ってやる。
「・・・・・・はい、そうですね」
残念ながら、声が強ばる。自分の居場所をもらえたような気がして、嬉しかったのだ。
「ふふっ照れてる照れてる」
「・・・・・・照れてないです」
あー・・・・・・顔が熱い。まだ春なのになぁ。
心なしか、フィーリア様の頬も赤い。また自爆してるよこの人。
「とりあえず、今日はもう寝ましょう。さぁ、部屋に戻って下さい、さぁ」
無理矢理押すようにして立ち上がらせる。異性の柔らかな体が一瞬気分をイヤらしいものにさせるが、毎晩この人を部屋に招いているのだ。今更、今更だと、自分に言い聞かせ、なんとか扉の前まで連行することに成功する。・・・・・・やっぱり女の子なんだよな、この人。
「ちょっ、ちょっと!」
前方から抗議の声が聞こえるが、無視して突き進む。
「はいはいお帰りください子供は寝る時間ですよーっと」
「・・・・・・もうっ、また子供扱いして。もういい。寝るわ、寝るから押さないでったら」
降参とばかりにフィーリア様が両手を挙げたので、とりあえず無理矢理押し出すのは止めてやる。
「はい。おやすみなさい、フィーリア様」
「・・・・・・おやすみなさい、スカイ。また明日、ね」
「はい。もうそれほど睡眠時間ないですけどね」
あんたのせいでな。
言外にそういう意味を含めて言い放てば、この人はまた笑うのだ。
俺はこの笑みが、何より大好きなのだった。
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翌朝。目覚めて最初に頭に浮かんだ言葉は、『眠い』だった。
「案の定寝不足だよクソぉ・・・・・・」
泣き言を言って、脳裏でしてやったりと微笑むご主人様を睨み付けてから、重たい頭を振る。
さて、ここで迎える朝もしばらくお預けである。ゆっくり噛み締めておきたいところだが、残念ながらそんな時間的余裕があるとは思えない。
そこで、一つ気づいてしまった。
「フィーリア様って、結婚するかもしれないんだよな」
王太子殿下の婚約者候補。フィーリア様がその一人であることは、だいぶ前にフィヨルドから説明されている。
彼女が正式な婚約者になれば、当然この家に帰ってくることも無くなるわけで、
「あれ。俺、無職になるな」
フィーリア様きっての希望で、俺はこの家に彼女の従者として雇われた。孤児であるというのにだ。
しかし、そのフィーリア様がいなくなれば、俺をこの家に置いておく必要は無くなる。お払い箱になるだろう。
「・・・・・・まぁ、それでもいいか」
フィーリア様のいない場所に用はない。幸い、指南役こと戦場の鬼に、剣の腕前は保証されているので、契約を切られれば切られたで、一般兵として生きていけばいい。・・・・・・本当に最悪の場合だが。毎日が命懸けなのは正直勘弁願いたい。
結局フィーリア様に仕えられたままでいられるのがベストではある。待遇的にも、心情的にも。
心情的には、あの人といつまでも共に在りたい、なんてこの頃考えるようになっている。その感情は、どこか忠誠心とは違うものであるように思えた。
「・・・・・・今そんなこと考えたってしかたない」
独り言が過ぎたな。あまりダラダラとしていては、ねぼすけな我がご主人様のことを言えなくなってしまう。
ベッドの上で上体を起こし、軽く伸びをして、名残惜しく思いながら、寝床から出る。
フィーリア様を起こして、学園へ向かうために。
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「行って参ります」
屋敷の正面の門の前に、馬車が止められている。流石に馬の扱いまでは学んでいないので、別に御者がいる。
旅立つ前に屋敷へ一礼。玄関前、その見送り集団の中で、遠目にフィヨルドだけがこちらへ手を振っているのが見える。それから、コルネはこちらを睨んでいるようだ。フィーリア様はと言えば、ヴラドと使用人達と、最後の挨拶を済ませている。おいヴラド、娘に泣きつくな。引かれてるぞ。
「お」
フィーリア様が背後に手を振りながら、こちらへ向かってくる。「そろそろ準備を」と御者に声をかけると、「ああ」と短く返される。
この集まりの主役たる我がご主人様が、目の前にまでやってくると、俺は念押しする。
「もうよろしいので?」
「ええ。なんだかんだ、兄様にも見送りされちゃったわ」
照れくさげにはにかむフィーリア様。その表情の中には、以前ほどの嫌悪感は感じない。無意識かもしれないが、この人は、確実に周囲に目を向けられるようになってきているのだ。
「あの人、ヴラド様に勝るとも劣らぬくらいフィーリア様のこと大好きですからね」
その従者を脅すくらいには、な。
「えー・・・・・・何の冗談かしら?」
俺の言葉を全く信じていない様子で、「悪い冗談だわ」なんて続ける。
兄様の思いは、当の本人にはまったく届いていないらしい。あいつ自身水面下で動く人間だし、それでいいと思っているのかもしれないが。
「はははっ。気づいてないならそれもいいと思います」
フィヨルドざまあ。
「それじゃあ、お乗りください。出発します」
主人の背に手をやり、乗車を促す。
フィーリア様が乗り込めば、俺もまたそれに続いて、乗車口を閉める。
「出してください」
「ああ」
御者の短い返答を最後に、馬が嘶き、景色が流れ始める。
「・・・・・・行って、きます」
小さな、誰かに伝えるでもなく、決意するような声音で呟くフィーリア様。不安げに俯き、握りしめたその手は、少し震えていた。
外の人間の悪意が怖いのだろうか。確かに、これから俺たちの向かう、国立ナダリアス学園は、貴族の血を引く子供が生徒の大多数を占めるエリート校だ。打算や欲望が入り乱れていても、なんらおかしなことはない。
この人は気丈に振舞っているようで、芯の部分が弱くて脆い。それは以前フィヨルドに指摘された点であり、俺自身実感していることだった。
「・・・・・・大丈夫。大丈夫ですよ」
俺のようなちっぽけな存在では、励みにならないかもしれないけれど。貴女の手を引くことはできないかもしれないけれど。
「・・・・・・スカイ」
フィーリア様が、顔を上げてこちらを見据える。瞳がその内心を映し出すように激しく揺れていた。
貴女を支えるくらいのことは、やってみせるから。どうか、不安を押し殺さないで。晒け出していいのだから。
「俺は、フィーリア様の従者ですから。貴女を支えますよ」
フィーリアは、笑う。いつだって、笑顔を見せてくれる。それでも、この笑顔は初めてみたものであると思う。
「・・・・・・うん」
フィーリア様は、泣いた。泣きながら、それでも笑っていたのだ。
思わず、彼女の手を握った。湧き出た不安を、少しでも払拭してやるために。
「・・・・・・ありがと」
躊躇いがちに、握り返される。
震えは、いくらか収まったみたいだった。
こうして始まる、フィーリア様の、学園生活。俺はあくまでその従者。その付き添いでしかないのだ。
一気に時間を飛ばしたのは、毎日がスカイの修行まみれになってしまい、フィーリア様成分が極端に減ってしまうことを恐れたからです。フィーリア様が出てない話とか、ルーがないカレーライスですよ。