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年下相手に易々と見下されることのないよう、念に念を押した背伸びをして生きてきたつもりだった。常に余裕の象徴とも言える腕組みを意識したり、口元に非の打ち所のない三日月の形を浮かべる練習を試みたり。それらを他人に弱みを見せないことが世間の上手い渡り方であるという結論も、学生であった元カノに対してほんの一瞬下手に出たがためにトントン拍子で尻に轢かれ、挙句財産を掻っ攫われた淡く苦い春の反省から来ているものだ。
だからこそ今ブルーイレイザーは、不満を表いっぱいに貼りつけてチェルシーの様子を伺っていた。
「なんです、こっちじろじろ見ちゃって。さてはあたしに惚れましたね丁重にお断りします」
「はぁ?」
「それよりノット様探してるんですか。こうなったのは、あなたのせいなんですからねっ」
年下であるチェルシーの馬鹿にしたような態度に腹を立てずにはいられなかったのだ。
黄金の目を光らせて怒りを放出する女豹に、不覚にもたじろいだのが彼の運の尽きだったのだろう。早く来いと尾をちらつかされては従うしかなかった。その上、諸悪の根源という、悪の組織にとっては大層誉高いレッテルを貼られた消しゴムは危険だからと留守番を食らっている最中だ。威圧され武器まで取り上げられたブルーイレイザーは、この瞬間ただ青い全身スーツを身につけたひょろ長い青年でしかない。
(このままじゃ、全面的に俺が劣勢じゃん)
認めない。認めるものか。こんなちびっ子の下に追いやられているだなんて。
「あの人ならそのうち帰ってくるだろう。頭良いんだからすぐに状況を把握してさ」
「そうでしょうね。でも不測の事態に備えて、ちゃんと探してくださいな」
チェルシーの推測は第一に、その何らかの不測の事態を優先したものだった。危機と言える状況下にこそ、冷静沈着エリート・ブラックシューターの真骨頂が発揮されるであろうことは、誰もが信じて揺るがない印象であり、またそれが真実であることを知る者も少なくない。
君ところが、気を緩めていると得体の知れない巨大プラスチック消しゴムに躊躇なく触れてしまうくらいに抜けた面もあることを、チェルシーはよく知っていた。
エリートという名のコートを悪どい風に攫われないように見張るのもまた、相棒たる者の務めなんだとチェルシーは気を張っていた。
「もしものときは体、張ってくださいね」
「丸腰に無茶言うなよ」
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蚊の羽音ほどの音もしない内に、異常は完了していた。その異常の匂いをノットも敏感に感じ取っているのだろう。一瞬だが確かに手に消しゴムの感触があったというのに、その後に感覚は空振りにすり替わっている。それどころか当の消しゴムすら視界から消えている。持ち主であるブルーイレイザーも、チェルシーさえも。
まるで全てが気のせいであると思えるような潔い消失に、ノットは呆気に取られていた。
しかしすぐに冷静になる。
……分析をしよう。ノットは周囲を把握するべく慎重に瞳だけを動かし様子を伺った。まず一つに、このときの景色に覚えがない。暁帝国の自室の色まで綺麗になくなってしまっている。
(これは、つまり──)
──ここは、暁帝国ではない。そう悟った瞬間だった。
「緊急事態、緊急事態!」
マイクスピーカーを通して空間に渡る声。
「ブラックシューター出現、ブラックシューター出現! 場所は、本社ロビー……!」
状況は思ったより悪いらしいという二つ目の分析結果を吟味する前に、赤い色が煮えたぎりノット自身の全身を巡る。そして切迫したアナウンスは繰り返される。
「ブラックシューター出現! "ブレイブスピリット所属ヒーロー"は、直ちにロビーに急行せよ!」
エルはフレイムキッドのヒーローマスクを片手に、複雑な面持ちで他のヒーローたちと一緒に廊下を駆け抜けていた。
(ブラックシューターが? 直に乗り込んで来た?)
なんだその頭の悪そうな突撃作戦は、と眉をひそめた。
ヒーローや悪の組織に属する人間は、個性を重んじる。本意不本意に関わらず、時間をかけて確立した己のスタイルを握りしめて戦っている(エルは名を上げ始めたルーキーである手前、まだ手探りをしている段階だ)。各々のスタイルは無論、大声に出して他人に事細かに説明するほど安くはない。故に確信を得ることは不可能。しかしエルは、戦闘準備に入りながらもどこかに居座る疑問と違和感に問いかける。
(俺の知ってるブラックシューターじゃないんだけど)
冷徹な双眼で的を確実に捉え、最低限の、しかし最高の俊敏性を併せ持つ動作でしなやかに敵を撃ち落とす。ありていに言えば"スマート"という言葉が似つかわしいだろうかとエルは思った。そのブラックシューターが、敵本社に突然乗り込んで来るなんて粗い力技を披露したのだから、気持ち悪くて仕方ない。
あるいはやはりこれも計算を尽くされた策で、たった一人でブレイブスピリットのヒーロー多勢を相手に渡り合えるということなのだろうか。いやそうだとしても、"らしくない"。
一戦を交えたヒーローなら知っている。ブラックシューターは決して、相手を見くびらない。自信家であっても豪腕を無意味に見せびらかすことはしない。不意打ちとはいえ│ヒーロー会社まるひとつ《ブレイブスピリット》を相手に取れるだなんて考えはしない。それが外から見た限りのブラックシューターのスタイルだ。
「いたぞ!」
エルの前を行っていたヒーローが前方をさした。ブラックシューターだ。
何があろうと銃をとるわけにはいかない。敵意がないことを、全身全霊をもってわからせなければならない。
「攻撃を停止しろ、戦う気はない!」
「ではなぜ、ここにいる!」
不用意だったのだ。能力不明の消しゴムに触れるだなんて、自分にしてはひどく不用意だった。消しゴムだからと油断した。
今、ヒーローたちの猛攻を受けるに至った原因がそれしか考えられない以上、何らかの能力で飛ばされたなどと脆い説明で片付けるには都合の良すぎる偶然だ。通用しないであろうことは明々白々。
全身全霊をもって……だが、暁帝国のみならずあらゆる悪の組織から称賛を受けるノットの頭脳をフルに活用させたところで、打開策は──ヒーローたちの闘士を鎮めるきっかけは浮かんでこない。
そもそもがシンプルなのだ。ヒーローと悪が対峙したあとに残るものは、勝者と敗者。その最も大きな摂理を覆すことは、いくらブラックシューターと言えども容易なことではなかった。しかし幸いなことに、ヒーローたちは誰一人ノットのスピードを捉えられていない。考える時間はたっぷりある。
短く息を吐いてノットが何度目かの打撃をかわし、距離をとった瞬間だ。
ノットは自分でも思考が追いつかないうちに、斜め上に左腕を突き出していた。それは恐らく、条件反射、あるいは本能と呼ぶべき行動だったのかも知れない。腕が頭部を護るように高く上がるのと同時に、影が降り注いだ。
「はぁっ!!」
無意識の行動が予測した通りに影の拳が腕にぶつかり、衝撃の波が全身を伝う。ビリビリと痺れるような感覚が腕から駆け抜けていくが、単に強打によるものだけではないらしい。
「……っ電撃か」
ノットの言葉にハッとしたのか、相手が後ろに飛び退いた。真っ青なマフラーと碧の髪がふわりと揺れて、目の周りを覆う黒いマスクから光が覗いた。
「たった一人で奇襲とは、いい度胸だ! 魔王に意志を捧げた非道の闇は俺がこの手で照らしてやる。俺の名はブライトマン……お前を倒す男だ!」
威勢をぶちまけると、ブライトマンと名乗るヒーローは再び腕を後方にグッと引いて固く拳を作り、電流を纏う。ノットは目を鋭くブライトマンの動作を見張る。
まだだ。
相手の攻撃をかわしきるためには、勢いをそのまま何もない場所へ突き進ませるのにギリギリまで引きつけねばならない。攻撃を食らう寸前ほんの一瞬を狙い、ノットはブライトマンの背後に飛んだ。タイミングは悪くない、避けられる。
だがそう安堵したと同時に、ブライトマンが体勢を捻った。まるでノットの動きのコンマ数秒うしろを追ってくるかのように、拳が的を見失わない。
「おおおおおおおおおお!!」
雄叫びにも似た叫びを発しながら鋭くほとばしる電流を纏った一撃にノットが気づいたときには既に、再び回避する猶予は残されていなかった。まともに食らうよりは、と片手で受け止めるのがやっとだったが、その圧を相殺する準備までは間に合わずに押し負ける。
(二度目だ)
壁目がけて体勢を立て直しながら、ノットは目を泳がせた。
(この男、二度も私の動きを捉えた)
壁面に足をつけた途端に次の攻撃が向かってくる。今度はもう回避体勢には入らなかった。真正面を僅かに外して、手でするりと攻撃を受け流す。
想像以上に容易いことだった。
一目でわかる、理屈という理屈を全て跳ね退けんとする驚異的な戦闘センス。全人類の中でたった一人にだけ付与されたもうひとつの本能と呼ぶにふさわしい、圧倒的な才能。だがブライトマンはまだ、未熟だった。
馬鹿の一つ覚えのように、単調なパンチを全力で繰り出してくるのであれば、躱そうとするより受け流して空中にパワーを分散させてしまう方が得策であるとノットは踏んだのだ。案の定、何度も繰り返すうちにブライトマンは疲労の色を見せ始めた。
(私としたことが、あの程度で焦燥に駆られるとは)
驚異的なセンス、しかしまだ粗削りで光沢も薄く、限りなく原石に近い。まだ驚異と呼ぶべき段階ではない。彼の体力を消耗しきるまで闘牛士の真似事を続けても良いだろう。ノットは両手を胸の前で構えた。
「はぁい、ご注目! ブラックシューター様のピンチに馳せ参じましたワタクシッ──」
そのとき窓を破った乱入者の快活で、朗々とした高い声が響いた。ガラス片が散るのをものともしないで、小さな影の亜麻色の髪が陽を浴びてきらめく。その正体を認識した瞬間に、ノットは再び冷や汗を伴う焦燥に囚われることとなる。
「──チェルシーといいます、よろしくどうぞ」




