書きとりをすることのわずらわしさについて(700文字)
五十路を目の前にして
書きとりの効用が乏しくなってきた
書きとりをして一週間後に
該当箇所を覗いてみると
こんなことを書いてたのかと
書いたことを忘れてしまっているのだ
もとより言葉の意味なんぞ
頭に残っているわけがない
書きとりをするのはわずらわしい
この先書きとりをし続けるべきか
多分に迷うところだ
私蔵の本なら傍線引きで
済ましておくこともできる
もっとも線を引いたことを
憶えているわけもないが
今日
中条省平の『小説家になる!』を読んでいて
「イッペルボール」の語に出くわし
思わずノートに書きとっていた
(注)
「イッペルボール」とはフランス語で誇張法のことであり、マラルメは「散文」という詩のなかで、「イッペルボール」こそが詩の最高の武器であると示唆している。
「イッペルボール」はメタローグ版『小説家になる!』の53頁に出てくるが、『小説家になる!』の正篇、続篇どちらにも出てくる。つまり、ちくま文庫版でいえば『小説の解剖学』の57頁、『小説家になる!』の65頁である。このあたりの改題事情はわずらわしく、文庫版『小説家になる!』の著者あとがきを参照されたい。じつは、このわずらわしさが何より詩的に思われ、ペンを執った次第である。
(さらに注の注)
「イッペルボール」の説明について、初めは鈴木信太郎訳の『マラルメ詩集』(岩波文庫)より当該箇所および訳者註を引っ張ってくるつもりだったが、全篇旧字体ゆえに見合わせ、中条省平の記述を借りた。自分が作業をするぶんにおいて、わずらわしいのはやはり苦手である。
(もうひとつ)
岩波文庫の『マラルメ詩集』は2014年秋に、渡辺守章の新訳が出た。興味ある本が不如意ゆえに買えなくなって久しい。