瑠璃と香澄の母子
我が家は違う。
まず、父がいない。それを母子家庭と呼ぶのだということを、白木香澄は小学校の時には理解していた。
そして、我が家は旧家で多くの資産を抱えていること。何より、家が町の歴史資料館として町民に解放されているということが、のちにゆっくりとした驚きをもって自分の中にしみこんできた。
「お嬢様」
我が家は違う。
「お嬢様?」
普通の家にはメイドはいない。いや、資料館職員兼お手伝いさんなのだが、大正モダンな我が家で「お嬢様」などと発言されると、その存在はもうメイドにしか見えない。
「ちゃんと起きてますか? 今日から東京でしょう? 東京は人でいっぱいですよ。ちゃんと朝ご飯食べないと、人の波に攫われてどこかに押し流されてしまいますよ」
石神媛花。出会った人は口々に『日本人形のような人だ』と彼女を評する。
資料館では制服を着て受付を務めている彼女も、香澄たちが寝起きする2階奥のプライベートゾーンでは割烹着で料理をするのでその「日本人形っぷり」にますますの磨きがかかる。
「媛花は一緒に行かないの?」
味噌汁をすすり、ほぅと一息ついて香澄は尋ねる。
媛花は香澄が物心ついた時からこの家で働いている。歳の離れた姉のような存在だ。
「こいつまで東京に行ったら誰が資料館の面倒を見るんだ」
「おはようございます、瑠璃様」
パリッとした黒のスーツ、手にはタブレット端末といういでたちで母が食卓にやってくる。
「おはよう、お母さん」
「香澄、おまえなぁ」
タブレットをテーブルに置くと、瑠璃は香澄の後ろに回り込む。
「東京から帰ってきたら純もこの家で生活することになる。パジャマで食卓に着く癖を改めないと恥をかくことになるぞ。それから寝癖も」
そして、その白く細い指でやさしく髪を梳いてくれる。
「うっ、きょ、今日で最後だって」
「そのセリフを聴くのは3回目だ。まぁ、女は多少隙があったほうがモテるからな。戦略的にやっているなら止めはしない」
「モテっ…って、違うって、違うってば」
「ふふふ」
わたわたと慌てる香澄の頭を、瑠璃がキュッと抱きしめる。隙のないスーツ越しに、母の体温と柔らかさを感じる。
「お母さん」
腕の中で身じろぎして、香澄は微笑む母を見上げる。
そして思う。
我が家は違う、と。
化粧っ気の薄い母の肌は、高校生の自分のそれと比べても遜色がないほど瑞々しい。
「旧家の一人娘だったから、若くして親の決めた縁談に従ったんだ」
いつか、母はそう説明してくれた。16で嫁ぎ、17で香澄をもうけ、20歳で夫と死に別れた、と。
我が家には、何かの理由がある。母が嫁いだという歳になった香澄は、さすがにそれは作り話ではないかと疑っている。
疑ってはいるが、女手一つで(正確には姫花もいるので二つだが)自分を育ててくれた事実と、普通の家庭と変わりない愛情を注いでもらったという感謝がある。
だから、
「お母さん、大好きだよ」
椅子に座ったまま、上半身だけ後ろに向けて、母の胸に顔をうずめ、その細い腰を抱く。
その時母は決まって、うれしそうに微笑んで、そして、一瞬申し訳なさそうに瞳を伏せるのだ。
それが、香澄が知る瑠璃の隙。
だから、香澄は母が好きなのだ。