【本編01】プロローグ1
今思えば、その夢がすべての始まりだったと純は思う。
それがなければ、彼は自宅からほど近い地元の高校に通い、普通の高校生活を送っていたはずだ。
渡来の夢。
思念を操る者たちの間では、そのように呼ばれ広く認知されている一種の超常現象。
純は思う。
水に油を落としたような、蠢く虹色の井戸の最深部。そこに横たわる女性に、
「どうか、落ち着いて、私の話を聞いてはくれぬか?」
そう、声をかけられたところから、この一連の騒動は始まっていたのだと。
純は、寝つきも目覚めもともによく、夢というものをあまり見ない。
ゆえに、夢の中で「ああ、これって夢だよね」と気づく経験も稀有なもので、「なるほどこれが」と、純が感じ入るほどに、それは夢であった。
「100の試みのうち80と7は失敗し、4は無視され、9は拒絶された。もはや私にはあなただけ」
虹色の井戸の底の女性は、目を覆わんばかりの腐乱死体だった。
肌は黒ずみ、ところどころに骨が覗き、髪はでたらめに抜け落ち、そして、落ち窪んだ眼下の瞳だけが、こうこうと輝いている。また距離は遠く、鮮明に見えていないのが救いだが、白く蠢くのは蛆であるのかもしれない。
「ゾンビか?」
間違いなく悪夢の部類であったが、夢を夢と気づいて、その夢の中で思考するという体験が新鮮で純は己の覚醒を拒む。
「誰がゾンビか」
「うわ、ツッコミもらった。夢なのに」
この間も、純は虹色の井戸をゆっくりと落下し、腐乱死体との距離を詰めている。
「おぬし、幼く見えるが随分と肝が座っておるなぁ」
井戸の底から、淡い笑みの気配が伝わる。
苦笑いを浮かべながら落ちてくる、中学生2年生の頃の純に、井戸の女性は感心しているようだった。
感情表現。それはもともと自分に欠けているスキルだと純は認識している。おそらく外界からの情報は、感情に辿り着く前に思考に変換されるのだろうと、高校2年になろうとしている最近では考えている。
だから、当時の自分も驚きや嫌悪が現れる前に思考していた。
「そういえば、テレビから女の人が出てくる古いホラー映画見たっけ、あれも井戸だった」
こんな夢を見るハメ目になった原因はなんだろうかと。
なので、
「私はビデオに呪いをかけたりはせんぞ。面倒くさい」
即座に帰ってきた反応に思わずふきだす。
「おば…、ええと、お姉さん、何者?」
「今、言い直さなんだか、おぬし」
「お姉さん、何者?」
もう、随分と降りてきてる。着地まであと数秒。ただれた表皮も。体表にうごめくウジも、もうすでに鮮明に見えている。
「ふふ。我が夫も」
女性はゆっくりと体を起こし、純の着地する場所を開けてくれる。
「そなたのようであればよかった。いや、そなたのように描かれていればよかったというべきか」
そして純と女性は、七色蠢く井戸の底で対峙した。
「まずは感謝を。逃げずに来てくれたのはそなただけだ。ありがとう」
彼女は小さく頭を垂れる。いく房かの髪がそこにたかった蛆とともに抜け落ちる。しかし不思議と恐怖は感じられない。夢特有の、どこか第三者的な感覚と、彼女の動きから、純に触れるまいとする気遣いが感じられたからだ。
「私はイザナミ。正確に言うと、イザナミという形を与えられた存在だ。それ故、形ばかりだが、イザナミの持つ権能を、私も持っている」
虹色の井戸の底は、ゴムのようにぶよぶよしている。純は膝に力を入れて立ち、壁に背を預ける。そこも同じく柔らかく、ソファーに座っているかのような錯覚を覚える。
「イザナミ?」
純は首を傾げる。少し、その音が記憶を揺さぶる。
「知らぬか? それなりに有名人のはずだが」
ファミレスで対面の距離感。しかしながら腐乱死体の彼女から腐敗臭は感じられず、嫌悪感を押しのける神々しさが感じられる。
「しかしながら私は、その軛から逃れたいと考えている。1000年を超え、私を構成する思念はゆるやかに散じ始めた。それができるのは、私の制御系が失われつつある今しかないのだ」
「??」
すでに首を傾げていた純は、次は眉間にシワを寄せ意味不明を表現する。が、彼女が何かに囚われている、ということだけは、この井戸の底のような空間からも、なんとなく理解できる。
「さて」
と、彼女が静かに言った。
「え?」
と、さすがの純も肝を冷やした。
彼女はその黒く腐った節くれだった指を、迷うことなく己の眼下につきたて瞳を抉り出したのだ。ぐちゅりという生々しい音が耳朶を打つ。
「そなたはいつでも目覚めることができる」
「な、なにを?」
「つまり、この状況からいつでも逃れることができる」
「どういう…」
「けれども、どうか」
その声。込められた幾万の思い。一瞬ざわついた純の心が急激に静かになる。
「どうか逃げずに、居てほしい」
それは、懇願。
イザナミ…。イザナミは――純は唐突に思い出す。
彼女は、死後の世界で愛する人に裏切られてしまったんだ、と。生前の姿を失い、腐り果てた姿を見た夫は、彼女をおいて逃げ出したんだ。神話からではなく、デフォルメされた学習まんがからの知識ではあったが、その悲しみは、絶望は、相当に痛いものだろうと純は思った。
だったら僕は、それにどうせ夢だし。いや、夢だからこそ。
「大丈夫。僕は逃げないよ」
純は笑って言ってやった。
その言葉は何かの魔術であったのだろうか。
イザナミは微動だにせず、やがて、残された瞳から静かに涙があふれる。
「え、ちょ、あれ?」
「先にも言ったとおり、私はイザナミの形を与えられたものであって、厳密にはイザナミではない。しかし、誰かが、相当多くの者達が、あの物語のアナザーエンドを夢想したのだろうな。これは、私にとっても嬉しい誤算だ」
流れ出た涙。
その伝った先から命が溢れ出る。肉が盛り上がり、筋肉が生まれそして肌が張りを取り戻す。つややかな髪が溢れ、頬に血色が宿り、最終的に彼女は生き返った。いや、黄泉へと降る前の姿に戻った、というべきか。
「うわ…ぁ」
実際は一瞬だったが。
随分と長い間純は彼女に見とれていたように思う。神話の時代だ。平均寿命も短かったのだろう。夫のある人でありながら、彼女は高校生くらいに見える。地母神たるに相応しい慈愛に満ちたほほ笑みを、清らかな涙が濡らしていた。そして、ふくよかな肢体と豊かな乳房。
乳房?
「うひあぁ!?」
意味不明の叫びとともに慌てて純は顔を逸らす。腐乱死体だった頃は気づきようがなかったが彼女は全裸だった。
「我が、運命の君よ」
血肉を得たことで、彼女の声は今まで以上にクリアになる。その息遣いも明確に感じられる。
「ちょ、近い、お姉さん、近すぎっ」
純は慌てて後退するも、虹色の壁が少したわむにすぎない。
「おお、すまぬ。嬉しくてな、つい。それに、今までクールであったおぬしが取り乱すのを見るのは、何か、こう、ぐっとくるものがあるな」
お偉い神様、一体何を考えておいでで。
一瞬口から魂が抜け出そうになったが、彼女の次の言葉で引っ込んだ。
「瞳を交換して欲しいのだ」
「え?」
思わず彼女を見て、そしてまた慌てて視線をそらす。
「私はそなたの世界が見たい。半減しつつある私は近く再構成されるだろう。そうなれば、また自我も失われ、イザナミの権能を実行するだけの存在となってしまう。それは今の私の望む所ではない」
理解の追いつかない純に、
「大丈夫。痛くはないぞ」
と、彼女は付け加える。
「え、えっと」
夢なのだ。という前提がある。故に、逃げない、と答えた時から、純は彼女のいかなる願いも聞くつもりであった。
あったが、今、純を包み込む空間の、そのリアリティーが増しているように感じられてならない。
「うむ。そなたに姿をもらったことで、一時的に私の力が増しているからな」
純を柔らかく沈み込む虹色の壁の感触は、明らかに純の眠るベッドのそれとは違うし、何より、今は匂いがある。
「おぬし、耳まで真っ赤だぞ。見ておるとなんだか胸がきゅんとくるな。これがおぬしらの言う萌えというやつか?」
肌の匂い、とでも言うのだろうか。イザナミの優しい匂いが自分を包み込んでいるのだ。
「旦那さんに、苛めっ子とか言われてませんでしたか?」
「地母神に女神。原始の社会は、その多くが女性優位なのだよ」
純の精一杯の反撃は、よくわからない返答によって切って捨てられる。
「して、答えは?」
そして、彼女はさらに一歩、純へと歩を進めた。
「う」
いつまでも遊ばれていてたまるものか。
純もイザナミを正面から見据え、顔が火照るのは仕方ないが、腹をくくった。
「この空気でダメって言えるわけないじゃないですか。いいですよ」
「ありがとう」
「お姉…さん?」
ぎゅっと抱きしめられた。
そして、ずぶり、と左目が抜かれた。
「ああああの、おおお姉さん……」
「群青の光。おぬしの瞳は美しいな」
純に体を密着させながら、イザナミはほうとため息をつく。
色々柔らかかったり暖かかったりいい匂いであったりするものの、純は、痛みでそれどころではない。
「めっちゃ痛いんですけどっ! 箪笥の角に小指ぶつけた以上に痛いんですけどっ!!」
ずぐずぐと左目のあった場所が熱を持ったように呻いている。
「私は痛くしてないぞ。おぬしが、瞳を抜かれるのは痛いと信じておるのだ。今度は無心に、我が瞳を受け入れるといい。無心になれねば…」
「え? な、なれねば?」
純はゴクリとつばを飲み込む。
「もっと痛い」
彼女はニッコリと笑った。
「ス、ストップ、ストップ、ドクターストップ」
意味不明の純の拒絶に、イザナミは更に優しく、美しく笑って。
「大丈夫。私は痛くしないから」
私は、の部分を強調し、純の左眼下に己の赤く輝く瞳を押し込んだのだ。
「ちょ、ちょとまって、お姉さん、絶対Sだ! 苛めっ子だ! いやだから、まって、まってってば、ぎゃー」
「ぎゃーっ!」
と叫んで、純はベッドから飛び起きた。
「純っ、どうしたの、何事っ!?」
慌てて駆け上がってきた母親に発した第一声は、
「お姉さん、怖い」
であったそうだ。
「ったく、何寝ぼけてんの」
不満と、そして安心とを同時に吐き出して、母親は息子の顔を覗き込む。
「あら、あなた、左目、随分充血してるわね。寝てる間にこすったの? 顔洗ったら、目薬さしてらっしゃい」
それは2年と半年前の出来事。
純の14年間の「日常」が、終わりを告げた朝であった。