表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

【本編01】プロローグ1

今思えば、その夢がすべての始まりだったと純は思う。

それがなければ、彼は自宅からほど近い地元の高校に通い、普通の高校生活を送っていたはずだ。


渡来とらいゆめ


思念を操る者たちの間では、そのように呼ばれ広く認知されている一種の超常現象。

純は思う。

水に油を落としたような、蠢く虹色の井戸の最深部。そこに横たわる女性に、

「どうか、落ち着いて、私の話を聞いてはくれぬか?」

そう、声をかけられたところから、この一連の騒動は始まっていたのだと。


純は、寝つきも目覚めもともによく、夢というものをあまり見ない。

ゆえに、夢の中で「ああ、これって夢だよね」と気づく経験も稀有なもので、「なるほどこれが」と、純が感じ入るほどに、それは夢であった。


「100の試みのうち80と7は失敗し、4は無視され、9は拒絶された。もはや私にはあなただけ」

虹色の井戸の底の女性は、目を覆わんばかりの腐乱死体だった。

肌は黒ずみ、ところどころに骨が覗き、髪はでたらめに抜け落ち、そして、落ち窪んだ眼下の瞳だけが、こうこうと輝いている。また距離は遠く、鮮明に見えていないのが救いだが、白く蠢くのは蛆であるのかもしれない。


「ゾンビか?」

間違いなく悪夢の部類であったが、夢を夢と気づいて、その夢の中で思考するという体験が新鮮で純は己の覚醒を拒む。


「誰がゾンビか」

「うわ、ツッコミもらった。夢なのに」

この間も、純は虹色の井戸をゆっくりと落下し、腐乱死体との距離を詰めている。

「おぬし、幼く見えるが随分と肝が座っておるなぁ」

井戸の底から、淡い笑みの気配が伝わる。

苦笑いを浮かべながら落ちてくる、中学生2年生の頃の純に、井戸の女性は感心しているようだった。


感情表現。それはもともと自分に欠けているスキルだと純は認識している。おそらく外界からの情報は、感情に辿り着く前に思考に変換されるのだろうと、高校2年になろうとしている最近では考えている。

だから、当時の自分も驚きや嫌悪が現れる前に思考していた。

「そういえば、テレビから女の人が出てくる古いホラー映画見たっけ、あれも井戸だった」

こんな夢を見るハメ目になった原因はなんだろうかと。


なので、

「私はビデオに呪いをかけたりはせんぞ。面倒くさい」

即座に帰ってきた反応に思わずふきだす。


「おば…、ええと、お姉さん、何者?」

「今、言い直さなんだか、おぬし」

「お姉さん、何者?」


もう、随分と降りてきてる。着地まであと数秒。ただれた表皮も。体表にうごめくウジも、もうすでに鮮明に見えている。

「ふふ。我が夫も」

女性はゆっくりと体を起こし、純の着地する場所を開けてくれる。

「そなたのようであればよかった。いや、そなたのように描かれていればよかったというべきか」

そして純と女性は、七色蠢く井戸の底で対峙した。


「まずは感謝を。逃げずに来てくれたのはそなただけだ。ありがとう」

彼女は小さく頭を垂れる。いく房かの髪がそこにたかった蛆とともに抜け落ちる。しかし不思議と恐怖は感じられない。夢特有の、どこか第三者的な感覚と、彼女の動きから、純に触れるまいとする気遣いが感じられたからだ。


「私はイザナミ。正確に言うと、イザナミという形を与えられた存在だ。それ故、形ばかりだが、イザナミの持つ権能を、私も持っている」

虹色の井戸の底は、ゴムのようにぶよぶよしている。純は膝に力を入れて立ち、壁に背を預ける。そこも同じく柔らかく、ソファーに座っているかのような錯覚を覚える。


「イザナミ?」

純は首を傾げる。少し、その音が記憶を揺さぶる。

「知らぬか? それなりに有名人のはずだが」

ファミレスで対面の距離感。しかしながら腐乱死体の彼女から腐敗臭は感じられず、嫌悪感を押しのける神々しさが感じられる。


「しかしながら私は、その軛から逃れたいと考えている。1000年を超え、私を構成する思念はゆるやかに散じ始めた。それができるのは、私の制御系が失われつつある今しかないのだ」

「??」

すでに首を傾げていた純は、次は眉間にシワを寄せ意味不明を表現する。が、彼女が何かに囚われている、ということだけは、この井戸の底のような空間からも、なんとなく理解できる。


「さて」

と、彼女が静かに言った。

「え?」

と、さすがの純も肝を冷やした。


彼女はその黒く腐った節くれだった指を、迷うことなく己の眼下につきたて瞳を抉り出したのだ。ぐちゅりという生々しい音が耳朶を打つ。

「そなたはいつでも目覚めることができる」

「な、なにを?」

「つまり、この状況からいつでも逃れることができる」

「どういう…」

「けれども、どうか」

その声。込められた幾万の思い。一瞬ざわついた純の心が急激に静かになる。

「どうか逃げずに、居てほしい」

それは、懇願。


イザナミ…。イザナミは――純は唐突に思い出す。

彼女は、死後の世界で愛する人に裏切られてしまったんだ、と。生前の姿を失い、腐り果てた姿を見た夫は、彼女をおいて逃げ出したんだ。神話からではなく、デフォルメされた学習まんがからの知識ではあったが、その悲しみは、絶望は、相当に痛いものだろうと純は思った。


だったら僕は、それにどうせ夢だし。いや、夢だからこそ。

「大丈夫。僕は逃げないよ」

純は笑って言ってやった。


その言葉は何かの魔術であったのだろうか。

イザナミは微動だにせず、やがて、残された瞳から静かに涙があふれる。

「え、ちょ、あれ?」

「先にも言ったとおり、私はイザナミの形を与えられたものであって、厳密にはイザナミではない。しかし、誰かが、相当多くの者達が、あの物語のアナザーエンドを夢想したのだろうな。これは、私にとっても嬉しい誤算だ」


流れ出た涙。

その伝った先から命が溢れ出る。肉が盛り上がり、筋肉が生まれそして肌が張りを取り戻す。つややかな髪が溢れ、頬に血色が宿り、最終的に彼女は生き返った。いや、黄泉へと降る前の姿に戻った、というべきか。


「うわ…ぁ」

実際は一瞬だったが。

随分と長い間純は彼女に見とれていたように思う。神話の時代だ。平均寿命も短かったのだろう。夫のある人でありながら、彼女は高校生くらいに見える。地母神たるに相応しい慈愛に満ちたほほ笑みを、清らかな涙が濡らしていた。そして、ふくよかな肢体と豊かな乳房。


乳房?

「うひあぁ!?」

意味不明の叫びとともに慌てて純は顔を逸らす。腐乱死体だった頃は気づきようがなかったが彼女は全裸だった。


「我が、運命の君よ」

血肉を得たことで、彼女の声は今まで以上にクリアになる。その息遣いも明確に感じられる。

「ちょ、近い、お姉さん、近すぎっ」

純は慌てて後退するも、虹色の壁が少したわむにすぎない。


「おお、すまぬ。嬉しくてな、つい。それに、今までクールであったおぬしが取り乱すのを見るのは、何か、こう、ぐっとくるものがあるな」

お偉い神様、一体何を考えておいでで。

一瞬口から魂が抜け出そうになったが、彼女の次の言葉で引っ込んだ。


「瞳を交換して欲しいのだ」

「え?」

思わず彼女を見て、そしてまた慌てて視線をそらす。

「私はそなたの世界が見たい。半減しつつある私は近く再構成されるだろう。そうなれば、また自我も失われ、イザナミの権能を実行するだけの存在となってしまう。それは今の私の望む所ではない」


理解の追いつかない純に、

「大丈夫。痛くはないぞ」

と、彼女は付け加える。


「え、えっと」

夢なのだ。という前提がある。故に、逃げない、と答えた時から、純は彼女のいかなる願いも聞くつもりであった。

あったが、今、純を包み込む空間の、そのリアリティーが増しているように感じられてならない。


「うむ。そなたに姿をもらったことで、一時的に私の力が増しているからな」

純を柔らかく沈み込む虹色の壁の感触は、明らかに純の眠るベッドのそれとは違うし、何より、今は匂いがある。


「おぬし、耳まで真っ赤だぞ。見ておるとなんだか胸がきゅんとくるな。これがおぬしらの言う萌えというやつか?」

肌の匂い、とでも言うのだろうか。イザナミの優しい匂いが自分を包み込んでいるのだ。


「旦那さんに、苛めっ子とか言われてませんでしたか?」

「地母神に女神。原始の社会は、その多くが女性優位なのだよ」

純の精一杯の反撃は、よくわからない返答によって切って捨てられる。

「して、答えは?」

そして、彼女はさらに一歩、純へと歩を進めた。

「う」

いつまでも遊ばれていてたまるものか。

純もイザナミを正面から見据え、顔が火照るのは仕方ないが、腹をくくった。


「この空気でダメって言えるわけないじゃないですか。いいですよ」

「ありがとう」

「お姉…さん?」

ぎゅっと抱きしめられた。

そして、ずぶり、と左目が抜かれた。

「ああああの、おおお姉さん……」

「群青の光。おぬしの瞳は美しいな」

純に体を密着させながら、イザナミはほうとため息をつく。

色々柔らかかったり暖かかったりいい匂いであったりするものの、純は、痛みでそれどころではない。


「めっちゃ痛いんですけどっ! 箪笥の角に小指ぶつけた以上に痛いんですけどっ!!」

ずぐずぐと左目のあった場所が熱を持ったように呻いている。

「私は痛くしてないぞ。おぬしが、瞳を抜かれるのは痛いと信じておるのだ。今度は無心に、我が瞳を受け入れるといい。無心になれねば…」

「え? な、なれねば?」

純はゴクリとつばを飲み込む。


「もっと痛い」


彼女はニッコリと笑った。

「ス、ストップ、ストップ、ドクターストップ」

意味不明の純の拒絶に、イザナミは更に優しく、美しく笑って。

「大丈夫。私は痛くしないから」

私は、の部分を強調し、純の左眼下に己の赤く輝く瞳を押し込んだのだ。

「ちょ、ちょとまって、お姉さん、絶対Sだ! 苛めっ子だ! いやだから、まって、まってってば、ぎゃー」


「ぎゃーっ!」

と叫んで、純はベッドから飛び起きた。

「純っ、どうしたの、何事っ!?」

慌てて駆け上がってきた母親に発した第一声は、


「お姉さん、怖い」


であったそうだ。

「ったく、何寝ぼけてんの」

不満と、そして安心とを同時に吐き出して、母親は息子の顔を覗き込む。

「あら、あなた、左目、随分充血してるわね。寝てる間にこすったの? 顔洗ったら、目薬さしてらっしゃい」


それは2年と半年前の出来事。

純の14年間の「日常」が、終わりを告げた朝であった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ