一人の肝試し
あの日の夜、彼は「恐れ」によって傷を負った。
その「恐れ」は圧倒的だった。人が一人、この世界から永遠に失われたのだ。
心室細動による若者の突然死。世間的にはそれで決着がついた。だが「あれ」はそうではない。あれによって、あれの「恐れ」によって傷を負わされた謙二は、今はあれの正体を知る側の人間となってしまった。
世間的には、それをトラウマと呼んだ。PTSDだと称する者もいたが、それらで片付けられなかったことを、あれの正体を知る側に立てたことを、今、謙二は感謝している。
「ほらほら、俺ってば弱虫だからさ」
スティック型ミュージックプレイヤー。であるのにイヤフォンあるいはヘッドフォンにつながっていないそれを、彼は指の上で器用にくるくると回す。
「弱虫は弱虫なりに、すっげー準備して弱さを補うんだぜ。どう? 俺、かっくいぃ?」
髪を校則に触れない程度に茶色くし、ワックスで軽く癖をつける。首には赤いヘッドフォン。制服も適度に着崩し、あとはシルバーのアクセを少々。
彼の第一印象は少しばかりちゃらい。しかし、彼にはそれだけでは片づけられない雰囲気がある。
「でもまぁ、どれだけ準備したって、弱虫は弱虫だからさ」
あの日の夜、彼は己を知ったのだ。
爽やかに微笑んで、彼はミュージックプレイヤーのイヤフォンジャックを、あたかも銃口を向けるガンマンのように遠くから迫りくるそれに向けて突きつける。
「だから、ぜってぇ近づいてなんかやんねぇ」
あの日の夜、彼は己が矮小であることを知ったのだ。
トラック1 >> レッドライン。アルバム >> バーン・マイ・ドレッド。
ミュージックプレイヤーのイヤフォンジャックから、まるでそれがレーザーポインタであるかのように赤ラインが直進。闇夜を切り裂いた。
『うううぅぅううらああぁぁめええっぇぇぇしやぁああぁぁぁぁっっ!!』
「うっわ、めっちゃこえええっ!」
そう。あの日の夜のように、そこは闇夜の中。
「恐れ」により心に傷を負った少しばかりちゃらい若者は、その傷を負わせたモノそのものではないが、それの側に属する存在の前に立ち、膝を笑わせながらも、矮小な自分をさらけ出しながらも、それに対し真っ向から立ち向かっているのだ。
「つーわけで」
トラック1 >> レッドライン。リピート再生。
「さっさと散りやがれっ!!」
3射。その3条の火線は、廃ビル内を赤く照らす。
築雲町の南のはずれ。遠くバブル期に建てられ、そして潰れたラブホテルは、いつしか有名な心霊スポットとなっていた。
『ううぁぁああっ…』
ゆえに、痴情のもつれで自殺したという「設定」の、女幽霊が定期的に出没する。
びしゃびしゃと、架空の水音をしたたらせ、ごわごわとした黒髪が触手のように蠢き、ケロイド状の肌で、首と手足に巻き付いた電気コードを引きずりながら、「設定」通りに人を襲う。そんなイメージの「恐怖」の塊が火線に貫かれ、ふた呼吸ほどおいて燃え上がった。
「よっしゃぁっ! 立ち向かえるって。俺ってば、立ち向かっちゃってるってって、ぅ、うおぉぉっ!」
炎の中から、触手のような黒髪と、バチバチとスパークするコードが飛来する。
1本、2本とバックダッシュで避け、トラック2 >> レッドカーテン。アルバム >> バーン・マイ・ドレッド。スパークするコードは瞬間的に謙二の前に立ちはだかる炎の壁によって焼き尽くされる。
「や、やべぇ、ち、近かったかっ!?」
彼は「恐怖」を克服してここにいるわけではない。「恐怖」を抱いたまま、こちら側に立つことを選択したのだ。
それ故、彼が選択した「型」は発気師。「スタイル」は狙撃手。
「これでシメだってのっ!!」
バックダッシュの勢いのまま、ホテルのフロントだった場所まで駆け戻る。そこで片膝をつき、右腕をまっすぐにのばし、その延長線上にミュージックプレイヤーを乗せ、引き金ならぬ再生ボタンを押す。
トラック1 >> レッドライン。アルバム >> バーン・マイ・ドレッド。
その火線はあやまたず女幽霊の頭部に吸い込まれる。燃え尽きる前の蝋燭のように、一瞬大きく燃えあがって、あたりは再び闇に包まれた。
「いよっしゃぁっ!! 瑠璃さん、瑠璃さん、見ててくれたっすかっ! 俺、やったっすよ、一人でできたっすよっ!!」
闇の中、安堵から埃だらけの床に突っ伏して謙二は叫ぶ。
「馬鹿者が」
その闇に浮かび上がる電子機器のバックライト。切り裂くには弱いその光で、周囲の闇をそっと押しのけながら現れたのは、一部の隙もなく、漆黒のスーツをまとった女性。
「思念濃度は変わっていないぞ。回収までが我々の仕事だ」
彼女は携帯電話をカメラモードで掲げながら、教師のごとく、上司のごとく謙二を叱咤する。
「ああぁ、いけねっ!」
謙二は跳ね起きると、ややへっぴり腰で、女幽霊が燃え尽きた場所の少し手前まで歩を進める。そしてミュージックプレイヤーを操作した。
トラック1 >> おやすみママ。アルバム >> ラスト・レクイエム。
「恐れ」によって傷を負わされた謙二には、ぼんやりと自分のミュージックプレイヤーに青黒い靄が吸い込まれていくのが見える。
「214MB回収完了っす」
それを吸い取り切って、液晶に表示されるアルバム「ラスト・レクイエム」の容量を確認し、上司でもあり教師でもあり、そして庇護者でもあった瑠璃に告げる。
「上出来とは言わんが、及第点をくれてやる」
彼女はいつも通り冷淡に、しかし、彼女にしては温度のある声音でそう言った。
「ま、マジっすかっ!? ってことは!」
謙二がはじかれたように叫ぶ。
「ああ。今まで以上にこき使ってやるぞ」
この瞬間、高畑謙二は「恐れ」をその内に抱いたまま、恐れに打ち勝った。それは、思いを制す者に必要な資質を得たということ。
あの日の夜をやり直すことはできない。しかし、あの日の夜に「正しい方向から」アクセスする権利を得ることができたのだ。