設定解説03《隠り世》―入り口にて
そこは機械室とでも言うのだろうか。
「こんな所に」
『わかりやすい所にあったら普通の生徒が入り込むにゃ』
「気持ち悪いよぉ」
電気ケーブルや送風ダクトが壁に並ぶ、打放しコンクリートの部屋。正面玄関右奥の、保健室隣の鉄扉から入る設備関係者用のスペースだ。
その、壁の片面が配線でうめつくされた正方形の部屋の隅っこに、場違いな鳥居が鎮座していた。
『設備系のB級《物化思念》・《門》にゃ。ここから協会が管理する《葦原学園の隠り世》に入ることができるにゃ』
「鳥居ですよね」
「だから、気持ち悪いってばぁ」
空調のいらない季節だからだろうか。室内は静かなもので、配電盤から出る僅かなノイズ以外、音はない。音はないのだが、音を発しそうな、とでも形容しようか、そんな異様で濃密な気配が室内を満たしている。
「僕はあんまり感じないかな」
『マリーは生まれつきの《鬼見》体質だから、創よりずっと敏感なのにゃ。そういえば、創はどうしてこっちの世界に来たにゃ?』
創は自身のことを「どこにでも居る誰か」であると認識していた。
黒縁メガネと奔放に跳ねる髪。気だるげで眠そうな瞳。インドア派の印象だが、すらりとした体躯とそつのない着こなしによって、知的なイメージが勝る。
一人っ子である創は、両親祖父母の愛を一身に受けて育ち、彼らによって敷かれたレールの上をひた走ってきた。よって、おおよそ親に反抗したこともない、主体性という言葉をどこかに置き忘れてきた子どもだった。
オンラインゲームというものに出会うまでは。
「確証はないな。だけど、あの時かな、って思うことは、ありますね」
創はナオにそう回答する。
個性。アイデンティティー。オリジナリティー。MMORPGのキャラクター作成・育成の過程で創はそれらを学んでいったという自覚がある。
加えて、ギルドに入ったことで、上は40代からの異年齢集団に、協調性や社交性というものを楽しく叩きこまれた。
『あの時とは、どのときにゃ?』
残念ながらそのギルドは解散し、オンラインゲームを転々とする生活を送っていた創は、ある時、よくあるセミナーの勧誘に遭遇した。
「セミナーというよりは、宗教系か」
いわく、あなたのために祈らせてください系だ。
「目醒ましたら、ぜひこちらをお尋ねくださいって、名刺を渡されましたね」
気持ちが悪かったので近くのコンビニのゴミ箱に捨ててきたが。
それ以来、創が見る風景は少しずつ変わっていった。はじめは視界の隅から。やがてそれらは認識に滑りこんできて、ほどなく世界の概念が書き換わった。
「幸運だったのは、その時はすでにここの生徒だったってことだな。いや、まてよ。その発想は逆で、葦原学園のブレザーだったから勧誘されたのか?」
創は葦原学園中等部の出身だ。高校受験は経験せず、エスカレーターで上がってきた。もちろん、親が勧めるままに。家から近く、私立の中では学費もそれなり。有名私立までは行かないが、中堅国立大学への合格者も多く「手堅い」イメージのある学園だ。
『興味深い話にゃ。名刺は捨てるべきではなかったにゃあ』
ナオが言うには、《目醒の会》なる、まっとうな感覚で判断すれば胡散臭いセミナーが、少しずつ会員数を増やしているという。
「気持ち悪いよぉ」
『マリーはそれしか言ってないにゃ』
「まぁ、その話はあとにして、とりあえず行こうか?」
すでに《目醒の会》が気持ち悪いのか、この機械室が気持ち悪いのか、よくわからないことになっている麻里衣を長く待たすのも良くない。
『いいにゃ。じゃぁ、気合を入れてナオ様のあとについてくるにゃ』
かくして2人と1匹は朱く、そして濃厚な気配を放つ鳥居をくぐるのだった
「これが《隠り世》」
鳥居をくぐった瞬間、耳がキーンとなるような、三半規管が狂うような、そして、方向感覚が失われるような、違和感が創を覆う。
「学校の屋上、だよねぇ。でも、寂しいっていうか、心細いっていうか」
辺りを見回しながら麻里衣が感想を述べる。無意識なのか戦略なのか、しっかりと創のブレザーの裾を掴んでいる。
「夕暮れのような光だな。光源もないのに」
鳥居をくぐった先は、生徒たちの昼食スポットとして人気の屋上だった。空はオレンジに染まっているが、空気自体が発光しているかのように、太陽が見当たらない。ただ、その光はどこか郷愁を沸き立たせる。心細いような、家に帰りたくなるような気分になるのだ。
『全7階層のダンジョンにゃ。下へ下へと潜っていって、玄関から外にでることができればクリアにゃ』
ナオの台詞に、創は思わず後ろを振り返る。
『大丈夫にゃ。ここは学園に管理されている《隠り世》。各階に出口があるにゃ』
そこにはくぐってきた鳥居がちゃんとあった。いつでも戻ることができる。その事実にほっと安心すると、自分のブレザーの裾をしっかりと掴んでいる麻里衣と目が合う。
「えっと…。ごめんねぇ。うちのナオが無茶を言って」
「いや、こっちの世界に関わる以上、いずれ来なきゃいけないところだからな。それより…」
動きにくいから離してくれないか。そう伝えようと思った創だが、背中のあたりに彼女のかすかな震えが伝わってきて、軽くため息を付いてオレンジ色の空を見上げる。
リアル、なんだよなぁ。という感想。
ナオが言うように、麻里衣と比べれば感度が低いせいかもしれないが、創にしてみればここはテーマパークの延長のような印象しかない。「テーマ」はRPGのダンジョン。PCやスマホの画面越しでさんざんお世話になった空間だ。
よって「今は」という条件付きだが、あまり恐怖は感じていない。
視線を空から、再び麻里衣に戻す。
「ん?」
と彼女が首を傾げた。
オレンジの光源のせいかもしれないが、顔色もあまり良くないように見える。細く、しかしはっきりと弧を描いた眉と、ややたれ気味の、優しい目尻が印象的な少女。
「あの、な」
脳内で言葉はできているのだが、ここまで口に出すのが恥ずかしいとは思わなかった。あーだのうーだの口の中でモゴモゴ言っていると、
『にゃあ?』
ナオがするりと足元にやってくる。
創を見上げたその顔は、猫であるにもかかわらず、明らかにニヤニヤしている。
「手、貸すよ。裾よりはいいだろう?」
それを見た瞬間、創はため息をひとつついてから、吹っ切れた。
「普通」が良かった。
最初は「特別」が心地よかった。でも「見える」私は少しずつ「変な子」扱いされて、居場所を失い、いつの間にか一人でいるのが当たり前になってしまった。
ひねくれなかったのは、ナオが居てくれたからかな。
オレンジ色に染まる異世界をぼぅっと眺めながら麻里衣はゆるゆると漏れだす、うっすらと苦しい自問自答に身を任せる。
葦原学園への入学はナオの勧めだ。
親元を離れる事になったが、まかない付きの学生寮が完備されているため、両親もしぶしぶ同意してくれた。《就職クラス》は寮も特別扱いで、建物は古かったが一人部屋をあてがってもらえた。
『全7階層のダンジョンにゃ。下へ下へと潜っていって、玄関から外にでることができればクリアにゃ』
それから今日まで。
ずっと自分の親友で居てくれたナオの声がする。
そして、焦点を合わせれば、少し困ったような顔で自分を見つめる創がいた。
「えっと…。ごめんねぇ。うちのナオが無茶を言って」
「いや、こっちの世界に関わる以上、いずれ来なきゃいけないところだからな。それより…」
「ん?」
ずっと思索に沈んでいたため、今、ものすごく無防備に首を傾げてしまった。その思考に、すこしばかりの羞恥心があとから浮き上がってくる。
「あの、な」
気難しそうだけど、根っこは優しそう。
このくせっ毛の少年に麻里衣が抱いた第一印象。気難しそうな印象は、くしゃくしゃした濃い髪の毛と黒縁メガネから。優しそうな印象は、その眠そうな瞳からだ。
その少年が、珍しくなにか言いにくそうにもごもごしている。
この人には「特別」扱いされたくないな。
そんなことを考えていたら足元でナオが『にゃあ?』と鳴いた。それは比較的よく見る表情。
いわく《悪巧みスマイル》だ。
こら、と注意をするより先に。
「手、貸すよ。裾よりはいいだろう?」
「え?」
手を貸すって、何を手伝ってくれるんだろう?
麻里衣は一瞬そう考え、自分がしっかりと創のブレザーの裾を握っていることに気づき、たっぷりと3秒ほど固まった。
あわあわと、言葉は出ないが口元がわななくのが分かる。
そうっとブレザーの裾から手を離すと、それなりにシワになっている。よほどしっかりと握っていたという事実に麻里衣は赤面し、そして自分に向かって差し出されている創の左手を見てさらに紅の度合いを深めた。
「し、し、失礼しまくりましたぁ!」
慌てて創のブレザーのシワを、あっちを引っ張り、こっちを引っ張りと、自分でもよくわからない手つきで伸ばし始める。
「いや、それはいいから。要るの? 要らないの?」
どことなく沈痛な面持ちで麻里衣を見ていた創は、再度ため息を付いて差し出した左手をひらひらと振る。
「いっ、要るっ、要りますっ!」
麻里衣はその時の様を、末永く創にからかわれることになる。
彼は決まってこう言うのだ。
「あの時はまるで猫じゃらしに飛びつく子猫のようだったよ」と。