鬼の子
それは怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もないもので出来ていた。それ故にそれは、怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかならざるものに彼を導いた。
「かかってこいや、オラァっ!」
幼い頃は簡単だった。ガキ大将になればいい。子どもの喧嘩だ。大人も笑って諌めるだけだった。
「お前、死にたいのか?」
しかし、体も大きくなり力も付いてくると、穏やかならざるものに囲まれて生きることは様々な危険を伴い始めた。
相手を傷つけることは己の社会的存在の危機に直結することをそれは学ばざるをえなかった。
だから、それは飢えていた。常日頃から怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかならざるものを欲してやまなかった。
やがて、その思いは彼を少しずつ蝕んでいった。
「お前が鬼の子か。なるほど憑かれているな」
ちょうどそんなとき、1日も空かずしてそこかしこで喧嘩に明け暮れていた時、彼は彼女に出会った。一部の隙もなく、漆黒のスーツをまとった彼女に。
「んだ、てめーは、撮ってんじゃねーぞっ!」
女はスマートフォンのカメラを彼に向け艶やかに微笑んだ。1対多の乱闘で、ちょうど最後の一人を伸した時だった。怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかならざるもので出来ていたそれは、己の中に初めての感覚が浮かび上がるのを感じた。
見られた。
知覚された。
つまり、私は確かにここに在るのだ。
「っつあぁ!? な、なんだこりゃぁっ!!」
彼は狼狽えた。己の体から固まりかけた血のような、赤黒い靄が立ち上がっている。
「何だ、と問うか? それはずっとお前とともに居たものだろうに」
女はその異常な光景にも眉ひとつ動かさず彼に告げる。
「う、ぐぅぅ、何だこれは、に、ニクい、コワしたい、コロしたい。いや、違う。俺はそんなことをしたいわけじゃねぇ。でも何なんだ、壊してぇ。何もかも、ぶっ壊してぇっ、ぐぅぅ、ああああああっっ!!!」
びじゃっっ!!
濡れた雑巾を叩きつけたような音とともに、赤黒い靄は彼を取り込むように凝縮していく。
「ぐぅぅああああああっっっ!!!」
そしてそれは煮えたぎる溶岩のように蠢き、彼の腕を、足を、肉体すべてを、一回りもふた回りも大きく鎧いはじめた。
「これは憑人か」
スーツの女はその怪異を前に、まるで宝石を見つけたがのごとく目を輝かせる。
『うぉぉぉおお俺は酒呑童子が四天王の星熊童子なりぃいっ!!』
その赤の鎧は半透明の鬼を形成し、彼はその鬼の鎧の中で、彼ならぬ声で吠える。
「しかも民話級の固有名詞持ち。主役ではないが十分に逸材だな。額の1本角はサファイアでできた剣のようだ。美しい」
もともと大柄だった彼は、赤鬼の鎧をまとって女のゆうに2倍の体積となっている。それが放つ怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もない威圧感を前にしても、女は悠然と腕を組み彼を値踏みしているようだった。
「気に入ったぞ」
『女ぁっ、おまぇ、何を言っているうぅっ!!』
彼の、彼ならざる部分が叫ぶ。
その大音声は、周囲の空気を震わせ、聞くものの腹の底から恐怖を呼び起こす。大半のものは足がすくんで動かなくなることだろう。そして、殴り殺される。鬼をまとった彼は、叫び声の余韻を切り裂くように右のこぶしを振り上げ、女に殴りかかる。
「気に入ったと言っているんだ」
だが、そのこぶしはあっさりと空を切る。巻き起こった風が女の美しい黒髪を揺らす。
「お前は美しい」
女がよけたのではない。彼女は最初の立ち位置から一歩も動かず微笑んでいる。
『ぐぅぅあああぁ?』
怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もない存在が、迷いを見せる。怒りや破壊衝動、殺意などの隙間に「迷い」がねじ込まれる。
「私はお前が欲しい」
その言葉に呼応するように、鬼の鎧がドクンと揺らぐ。
怒り「迷い」破壊衝動「迷い」殺意「迷い」。
「お前は美しい」
『がぁ、あぁあぁぁ?』
それは寿ぎ。裏返しの呪い。
怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もない存在は、そんな己を他者にぶつけたとき、怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もないものしか返されたことがない。それが故に、暴れれば暴れるほど、怒りや破壊衝動、殺意など、穏やかさの欠片もないものが増えていき、それがそのまま力となっていた。
「私とともに来ないか? その力を、おまえがおまえのままで、お前の信ずるところに使えるよう、私が導いてやる」
それが故に、己を恐れず、憎まず、殺意を抱かない相手を。
「もう一度言おうか? 私はお前が欲しいんだ」
穏やかさしか持っていない相手を、それは理解することができない。認識できないのだ。
それの世界の法則において、認識できないということは居ないも同じ。居ないものに、力を及ぼすことはできない。
「ほ、本当・・・か?」
よって、それではなく。彼が、恐る恐るといった声音で尋ねる。
それは、この世界に在りながら、この世界にアクセスする術を失った。だから彼は、鬼の鎧をまとったまま、今は彼でいることができる。
「もちろんだ」
女は無防備に右手を差し伸べる。
鬼の鎧を、あたかもそれはないものであるかのようにすり抜け、その手は彼の右手を取った。