表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私、アイドル、大切なことは猫に学びました

作者: 別所 セラ

【アイドル】

1.偶像。あこがれの対象。

2.歌やダンスなどで人気を博す芸能人。

3.賞味期限付きの、未熟な演者。


   *


 コンシーラーのチップを肌に押し当てる。高価なファンデーションでも隠しきれないクマを、無かったことにするために。

 楽屋の無機質なLED照明は残酷だ。二十四歳になった私の肌のアラを、まるで顕微鏡のように暴き立ててくる。

 鏡の中の女が、完璧な角度で微笑んだ。


「……よし」


 声に出して確認する。大丈夫、今日も私は「可愛い」。

 けれど、鏡から目を逸らした瞬間、その自信は魔法が解けたように消え失せる。指先が震え、私はまた無意識にスマホの検索窓に自分の名前を打ち込んでいた。


「今日は、大丈夫か」


 ぽつりと漏れた独り言は、乾燥した楽屋に響く加湿器の駆動音に吸い込まれて消えた。

 国民的アイドルグループの一員。肩書きは立派だ。けれど、私は人気メンバーというほどのものではない。選抜と呼ばれる一軍に入ることもあれば、落ちることもある。

 代えの利くパーツ。

 特にここ最近は、勢いのある後輩たちに押し出されるようにして、照明の当たらない場所へと追いやられている。


 歌声はユニゾンの厚みを増すための素材。ダンスは振付師の劣化コピー。

 私のお仕事は、「推し」であること。

 顔は、まあ、可愛いほうだと思う。小さい頃から「お人形さんみたい」と親戚中にチヤホヤされてきたし、そこそこの倍率のオーディションだって勝ち抜いた。

 でも、芸能界という魔境に足を踏み入れて、思い知らされたのだ。

 上には上がいる、という残酷な真実を。


 近くにいるだけで肌が粟立つような、圧倒的な「美」。

 息をするように人を惹きつける、暴力的なまでの「才能」。

 そんな怪物が、同じ楽屋で平然とプロテインを飲んでいる。


 じゃあ、私は?

 ファンのみんなは、私の何に金を払っている?

 歌やダンスじゃない。求められているのは「存在」そのものだ。

 私の笑顔、成長の物語、人格、メンバーとの関係性。そういった「物語」に、彼らはおカネを投じている。


 二十四歳。

 アイドルとしては、決して若くない年齢だ。

 十八歳でこの世界に飛び込んだときは、受験に奔走する同級生たちを横目に、少しだけ優越感に浸っていた。「私は特別だ」と。

 実際には、来る日も来る日もレッスンスタジオに籠もっていただけで、仕事なんてほとんどなかったくせに。ひと足先に「業界」に入ったというだけで、自分が何者かになれたような気がしていた。


 それが、どうだ。

 先日、久しぶりに会った友人たちは、まるで異国の言葉を話していた。

 話題の中心は、もっぱら仕事のこと。

 初めて後輩ができたことへの戸惑い、任される業務が増えたことへの愚痴、あるいは同期との昇進の差。

 口では「大変だ」「辞めたい」とこぼしながらも、その表情には社会の歯車として噛み合い始めた人間特有の、確かな自信が滲んでいた。

 彼女たちが着実に職能を磨き、社会人としての地盤を固めつつあった六年間、私は何を積み上げたのだろう?

 

 バラエティで角の立たないコメントを残す瞬発力? お金にはならない程度の歌唱力やダンス?

 

 私には何もない。

 賞味期限の迫った「ルックス」と、人生を切り売りして得たファンのみんな以外、なにも。


 収録を終え、六本木の交差点を歩く。

 ビル風がコートの隙間から入り込み、冷え切った胃の腑を撫でる。


 仕事が嫌いなわけじゃない。ブログを書けば温かいメッセージが届くし、熱気に包まれたステージ、田舎の星空すらも上回るサイリウムたち、何物にも代えがたい極上の快感だ。

 でも、この仕事が永遠じゃないことも分かっている。


 私に残された武器は、この顔と、若さだけ。

 正直に言えば、この「ルックス」という資産価値が暴落する前に、ハイスペックな男性と結婚して人生を上がりにしてしまいたい、なんて黒い本音もある。

 けれど、そんな生き方も私には選べない。

 グループに迷惑をかけられないから、卒業まで恋愛もご法度だ。そんなクソ真面目な足枷が、私をこの場所に縛り付けている。


「卒業したら、どうなるんだろう……」


 白い吐息が、夜の闇に溶けていく。

 アイドルという肩書きがなくなった私に、興味を持ってくれる人間なんてこの世にいるのだろうか。

 ファンが多いんだから選び放題でしょ、なんて言う人もいるかもしれない。

 だが、それは大いなる勘違いだ。加工アプリで盛った自撮りと、寝起きのすっぴん他撮りくらい違う。

 

 ファンのみんなが恋しているのは「アイドルである私」であって、実像の私じゃない。

 誰一人として、本当の私を知らないのだ。


 以前、偉大な先輩が言っていた言葉を思い出す。

『付き合うなら、私のことを知らない人がいいわ』

 当時は「なりたい顔ランキング一位の人が何を言ってるんだ」と呆れたものだが、今なら痛いほど分かる。

 アイドルじゃない、ただの私を見てくれる人。そんな存在が、何よりもかけがえがないことを。


 視線の先を、上品なマダムがペットカートを押しながら歩いていた。中にはふわふわの毛玉のような小型犬が鎮座している。

 あれは散歩になっているのだろうか。


 あの犬は、自分の「犬生」に不安を覚えたりするのだろうか。

 しないだろうな。

 だって、一生金持ちのマダムに飼われ、不自由なく暮らすことが約束されているのだから。


「ペットはいいな。悩みがなさそうで」


 声に出した瞬間、心臓の奥がちくりと痛んだ。

 私は気を取り直し、街のイルミネーションを背景に自撮りをした。SNSにアップするための、「充実した私」の証拠写真。

 家に帰り、風呂に入り、ブログを更新する。ファンへの感謝と、明日の告知。嘘ではないけれど、本音でもない言葉たち。

 ベッドに潜り込むと、またあの黒い感情が胸を押しつぶしに来る。


 誰かに無条件で愛されて、ただそこにいるだけで許される。

 そんな存在になれたら、どれほど楽だろうか。

 あぁ、この不安がなくなればいいのに、なんて願いながら、私は深い眠りに落ちていった。


   *


ねこ

1.食肉目ネコ科の哺乳類。

2.古くから愛玩動物として飼育される。

3.人間に媚びずとも愛される、生まれながらのスター。


   *


 違和感は、視線の低さから始まった。

 目覚めた瞬間、世界が、やけに大きい。

 起き上がろうとして、腕に力が入らない。重心がおかしい。

 視界の端に映る白い塊。動かそうとすると、その「クリームパン」みたいな前足も連動して動いた。


「にゃ?」


 声を出そうとして、喉の奥から間の抜けた音が漏れた。

 鏡を見るまでもない。全身を覆う毛皮の熱気。鼻先をくすぐるカーペットの埃の匂い。

 隣の部屋の目覚まし時計の音が、鼓膜を直接叩くように響いてくる。


 待って、なにこれ。どういうこと!?

 私はパニックになり、助けを求めて叫んだ。


「にゃー! にゃー! にゃーーー!!(えー! ちょっと、どうなってんのーー!?)」


 戸惑いのあまり大声を出して騒いでいると、ベッドの上から気だるげな声が降ってきた。


「んん……なあに、ミイちゃん。そんな可愛い声出しちゃってぇ……ご飯? んもう、可愛いねぇ」


 視界を覆う巨大な顔。見知らぬ女性が、だらしない笑顔で私を見下ろしている。

 二十代後半。すっぴんの、生活感に溢れた顔だが、私を見る目だけは溶けそうに甘い。


 彼女が私の飼い主らしい。私の必死の叫びは、ただの空腹の訴えとして処理されてしまったようだ。

 パニックになるべき場面。でも、不思議と心は凪いでいた。思考よりも、本能が勝っている。

 言われてみれば、猛烈にお腹が減っているような気がする。


 どうやら私は、猫になってしまったらしい。


 彼女がキッチンへ向かう。その後ろ姿を、私は自然と追いかけていた。しなやかな四足歩行。悪くない。

 皿に出されたのは、カリカリのドライフード。

 え、これ? ちょっと嫌だな。


 私が鼻を背けると、彼女は苦笑して、棚から細長い袋を取り出した。

 封を切った瞬間、強烈に食欲をそそる匂いが漂う。とろりとしたペースト状の何か。

 いや、待って。私はアイドルよ? そんな、猫用のエサを――。


 気がつくと、私は夢中で袋の切り口に舌を這わせていた。

 美味い。なんだこれ。舌が触れた瞬間、理性が弾け飛んだ。マグロとカツオの旨味が、脳髄を直接揺さぶる。

 人間のプライド? 知ったことか。私は猫だ。

 この誘惑に抗える猫がいるなら教えてほしい。


 お腹が満たされると、急激に冷静さが戻ってきた。

 鏡に映る自分の姿をまじまじと見る。

 どこからどう見ても猫だ。

 戻る方法は……皆目検討もつかない。


 どうしよう?

 まぁ、なんとかにゃるか。

 飼い主は悪い人じゃなさそうだし。



 猫の生活。

 どうなることかと思ったが、これが存外、悪くなかった。

 いや、訂正しよう。めちゃくちゃ良かった。


 仕事に行かなくていい。愛想笑いをしなくていい。

 机の上のペンを見れば、「これを落としたらどうなるんだろう?」という純粋な好奇心だけで突き落とす。分かっているのにやってしまう。

 高いところに登っては降り、喉が乾けば水を飲み、お腹が減れば鳴いて人間を動かす。


 時たま、飼い主の女性(彼女はOLをしているようだ)がお腹に顔を埋めてくるのがちょっぴり嫌だが、まあ、衣食住を提供してくれているスポンサーだ。我慢して受け入れてやる。


 そういえば、猫もアイドルみたいなものだな、と思う。

 ビジュアルだけで選ばれて、性格なんて一緒に暮らすまで分からない。

 可愛がられて、野生の自由はないが、見方を変えれば奴隷が全てやってくれるみたいなものだ。


 ただ、一つだけ決定的に違う点がある。

 猫は媚びない。自分を偽らない。

 やりたいことをやり、寝たい時に寝る。それでいて、自分は愛されて当然だという根拠のない自信に満ち溢れている。

 ファンの期待という型に、必死になって自分を押し込めようとしている私とは大違いだ。


 なるほど。猫はアイドルなんかじゃない。

 自分の周りに世界を回らせる、生粋のスターだ。


 ある夜。

 彼女が帰宅すると、部屋の空気が重かった。

 コンビニの袋を雑にテーブルに置き、彼女はソファに沈み込む。


 テレビをつけると、歌番組が流れていた。

 画面の中で、キラキラした衣装を着て歌って踊る女の子たち。


 あ、私だ。


 正確には、猫になる前の私を含むグループだ。収録済みの映像だろう。

 画面の中の私は、完璧な笑顔を振りまいている。不安なんて微塵も感じさせない、プロのアイドルスマイル。

 その笑顔が、今はひどく遠いものに見えた。


「……いいなぁ」


 缶ビールのプルタブを開けながら、彼女がぽつりと漏らした。

「あーあ、アイドルは輝いてるなぁ」

 彼女の目から、光るものが落ちた。

「私なんて……もう、おばさんだよ。仕事もできないし、結婚できるかも分かんないし……あんたたちみたいに、笑ってられないんだよ……」


 どうやら仕事でミスをしたらしい。さらに、さっきの電話の内容から察するに、付き合っている彼氏ともうまくいっていないようだ。

 『結婚したら、仕事はセーブするよ』

 そう言って電話を切った彼女の声は、どこか投げやりだった。

 彼氏に依存して、守ってもらう人生。それは楽かもしれない。

 でも、もし何かあったら? その時、彼女には何が残る?


 問いかけられた言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。

 画面の中の笑顔の裏で、私も毎晩同じ問いを繰り返しているからだ。

 若さと愛嬌を切り売りして、消費されて、その先に何が残るんだろう。

 ねえ、お姉さん。私たちは似た者同士だよ。

 あなたが見ているキラキラしたアイドルも、本当はあなたと同じ、将来に怯えるただの女の子なんだよ。


 伝えたい言葉はたくさんあった。でも、口から出るのは「にゃーん」という、間の抜けた鳴き声だけ。

 彼女が、顔を覆って泣き出した。

 肩が小さく震えている。

 私は、そろりと彼女の膝に乗った。

 普段なら鬱陶しがって逃げ出すところだ。でも、今はそうすべきだと、猫の本能が告げていた。

 彼女の冷たい手に、温かいお腹を押し付ける。


「……ミイちゃん?」


 彼女が鼻をすすりながら、私の背中を撫でる。その手は震えていて、でも温かかった。

 ゴロゴロ、と喉が勝手に鳴る。

 大丈夫だよ。ここにいるよ。生きてるだけで、温かいよ。

 そんなメッセージが伝わったのか、彼女は私を強く抱きしめて、声を上げて泣いた。


 彼女の涙が、毛並みを濡らす。

 その熱を感じながら、不思議な充足感に包まれていた。

 アイドルとしてステージに立っていた時は、こんな風に誰かの体温を直接感じることはなかった。

 「見られる」ことではなく、ただ「傍にいる」ことで、誰かを救えるなんて。

 皮肉な話だ。猫になって、言葉を失って、ようやく私は本当の意味で「誰かのために」なれた気がした。


   *


わたし

1.一人称。自分自身を指す言葉。

2.個人。公に対する私的な領域。

3.誰かのための虚像ではなく、今を生きる一人の人間。


   *


 それから、数年が経った。

 彼女は会社を辞め、結婚した。

 幸せそうな時期もあった。けれど、それは長くは続かなかった。

 旦那の浮気が発覚し、あっけなく離婚することになったのだ。


 数年のブランクを抱えた、三十過ぎの独り身。

 普通なら絶望するところだろう。けれど、彼女は強かった。


「大丈夫。私にはミイちゃんがいるし」


 泣き腫らした目でそう笑うと、彼女はすぐに就職活動を始めた。

 最初は苦戦していたが、決して諦めなかった。資格を取り、面接に通い、やがて小さな会社だが正社員の座を勝ち取ったのだ。


 生活は質素になった。高い化粧品も、ブランドの服もなくなった。

 私のチュールも、特売の安いおやつに変わった。


 けれど、彼女の顔つきは以前よりもずっと晴れやかだった。

 誰かに依存するのではなく、自分の足で立ち、自分の人生をコントロールしている。

 その姿は、どんな着飾ったアイドルよりも輝いて見えた。


「なんとかなるもんだね」

 彼女が笑って、私を撫でる。

 今に集中して、やるべきことをやる。そうすれば、道は拓ける。

 勇気をもらったのは、私のほうだった。


 じゃあ、私は?

 このまま猫として、安全な場所から彼女を見守り続けるのか?

 画面の中の虚像ではない、本当の「私」の人生はどうするんだ?


 猫になってからは、不思議と恐怖がなかった。


 何が変わったのだろうか?

 いや、ただ眠り、餌をねだり、気まぐれに喉を鳴らしただけだ。

 それなのに、彼女は勝手に私に癒やされ、涙を流して感謝した。


 ずっと、将来が怖かった。

 「若さ」という価値が失われたら、私には何も残らないと思っていた。

 だから必死に取り繕って、未来のために「今」をすり減らしていた。


 でも、猫を、猫様を見てみろ。

 私は、私たちは明日のご飯の心配なんてしていない。

 ただ陽だまりの中でまどろみ、今この瞬間の温かさを全身で味わっている。

 その曇りのない「生」の輝きが、人の心を惹きつけるのだ。


 未来なんて、誰にも分からない。

 大事なのは、今、私がここで息をして、生きていること。

 媚びる必要も、偽る必要もない。

 私はただ、私として、今を精一杯生きればいい。


 そう腹落ちした瞬間、憑き物が落ちたように心が軽くなった。


 まぁ、難しいことは明日考えればいいか。

 今はただ、この温もりの中で眠ろう。

 明日は、チュールが食べられるといいな。

 そんなことを考えながら、私は深い眠りに落ちていった。


   *


「にゃーん(お腹すいたー)」

 いつものように、甘えた声で鳴いてみる。

 そろそろご飯の時間だ。飼い主が、美味しい缶詰を持って飛んでくるはず。


 ……あれ?

 いつまで経っても、誰も来ない。部屋が静かすぎる。

 目を開けると、そこは見慣れた天井だった。

 自分の部屋だ。手を見ると、人間の手だ。細くて白い、私の手。


 スマホの日付は、あの日から一日しか経っていなかった。

 随分リアルな夢だった。

 でも、身体の芯に残る、あの温かい充足感は幻じゃない。


 仕事へ向かう途中、路地裏で野良猫と目が合った。

「にゃー?(おはよう、調子はどう?)」

 ふざけて話しかけてみる。

 猫は「あ?」という顔で私を一瞥し、興味なさそうに欠伸をして去っていった。

 当然だ。今の私は、ただの人間なのだから。

 でも、その塩対応が、今の私には心地よかった。


 スタジオに入り、ひな壇に座る。

 今日の収録は、若手アイドルのプライベートに迫るというテーマだ。

 MCの芸人さんが、私に話を振ってきた。

「美弥ちゃんはなんか、最近ハマってることとか特技とかあるの?」


 来た。いつものテンプレートな質問。

 以前の私なら、台本通りに「最近はASMRにハマってて〜」とか、あるいは「料理教室に通い始めました!」なんて、家庭的な一面をアピールする嘘をついていただろう。

 ファンの期待に応える、正解の回答。

 

 一瞬、その「正解」が脳裏をよぎる。

 でも、次の瞬間、強烈な睡魔が襲ってきた。昨夜、久しぶりの人間のベッドが気持ちよすぎて、二度寝してしまったのだ。

 

 あー、眠い。

 照明が温かい。

 

「……日向ぼっこ、ですかね」


 口から出たのは、飾り気のない本音だった。

 スタジオが一瞬、静まり返る。

 マネージャーが青ざめるのが視界の端で見えた。「料理教室」という設定はどうした、と目で訴えている。


「ひ、日向ぼっこ? また随分と地味やなぁ。おばあちゃんか!」


 MCが慌ててツッコミを入れる。

 いつもならここで、「違いますよ〜!」と可愛く否定して、場を盛り上げるのがアイドルの仕事だ。

 でも、今の私は、否定する気力さえ湧かなかった。

 だって、本当に気持ちいいんだもん。


「ふふ、そうかも」


 私はカメラに向かって、力の抜けた、とろけるような笑顔を見せた。

 演技じゃない。

 「どう見られるか」なんて計算は一切ない、ただ今この瞬間、スタジオの照明を太陽みたいに心地いいと感じている、その喜びだけの笑顔。


 その瞬間、スタジオの空気がふわりと緩んだ。


「……なんか、ええ顔するなぁ」

 MCが、素で感心したように呟いた。


   * * *


 収録後、楽屋に戻った私は、スマホを手に取った。

 エゴサーチ。

 TLには、今日の収録の感想が溢れているはずだ。


『美弥ちゃん、今日なんか違くない?』

『やる気あんのかw』

『でも最後の笑顔、めっちゃ癒やされた』

『なんか憑き物落ちた感じ』

『放送事故スレスレだけど、俺は好き』


 賛否両論。

 「プロ失格」という辛辣な言葉もある。

 以前の私なら、この一つの悪口で、一週間は落ち込んでいただろう。


「にゃーん(知るかよ)」


 私はスマホをソファに放り投げた。

 全員に好かれるなんて無理だ。

 チュール(高評価)をくれる人もいれば、水をかけてくる人もいる。それが世界だ。

 いちいち気にしてたら、毛が抜ける。


「さてと」


 私は大きく伸びをして、つなげたパイプ椅子の上で丸くなった。

 次の出番まで、あと三十分。

 今の私には、将来の不安を数えるよりも、大切な仕事がある。


 おやすみなさい。

 私は目を閉じ、泥のような眠りへと落ちていった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

猫のように「今」を生きる。

言葉にするのは簡単ですが、私たち人間にはなかなか難しいことです。

でも、ふとした瞬間に肩の力を抜いて、「ま、いっか」と呟いてみる。

そんな「猫の時間」を持つことが、明日を生きる活力になるのかもしれません。


一ミリでも共感していただけたり、面白かったと思っていただけたのであれば

下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に評価していただけると嬉しいです。

 (チュールを貰った猫のように喜びます)


他にも現代ダンジョン系の作品も公開しておりますので、ぜひご覧ください(1章完結:約10万文字を予約投稿済みです)。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ