第60話 名前呼び
「ぷんぷん! ぷんすかぷんぷんぷん!!!」
可愛らしい擬音が聞こえてきた。その方向にいる人を予想すると、まあ、大体この人なのではないかなぁ、と心当たりがあるくらいだった。隣にいる小鳥遊さん……綾ちゃんが頬を膨らませていたのだった。
「ご不満のようだねー、綾ー」
「ぷんぷんぷん! 曇くん……じゃなくて、オタクくんがボクの存在を蔑ろにしてるのが気に食わないんだよー。瑠璃奈ちゃんばっかりかまってて、イライラするー!」
「それは瑠璃奈が一人だけ、ウチらを置いて抜け駆けしようとしてるからだって! やり返さないとだよ!」
「賛成ー!」
色々と周りでは高度な頭脳戦が行われている様子だが、僕としてはそういうことに関わることのできない立場であるため、静かに彼女らの会話を聞き流すとしよう。ただ、本当に仲が悪くなって、喧嘩らしい喧嘩が始まりそうになったら、それはそれで参戦するが。
女の子たちによる策略に、僕は巻き込まれるのだった。
静かにしていようと思っていたが、それはそれで難しいことなのである。僕の隣の席の女の子や、僕に重点的に視線を送る女の子や、さりげなくドキッとさせてくる女の子が周りにいると、やはりそれは難しいと思う。
そもそも彼女たちは僕を巻き込んでいるわけだし、それを無視して一人で佇むというのもどうかとは思うし。関わるという点で見るなら、たしかに比較的積極性があるのだと思われるな。僕の見解だけど。
すると綾ちゃんと金城さんは、突然に僕の体をまさぐってきた。
「え、な、何……」
「オタクっちの体って硬いなぁー……。男の子ってみんなこういう感じなの? ウチ、オタクっちは細くて体が弱そうなイメージだった。意外」
「うっ……。そんなふうに思われてただなんて……。ダメージが大きいよ、金城さん……。鍛えてるつもりだったんだけど……」
「あーあ。傷ついちゃったね、音葉ちゃんー。かわいそー、かわいそー。ほら、ボクが慰めてあげるからね、曇くん……」
だからこれは一体何をしてるの? 早く説明してくれる? 早く答えてくれる?
無言で数秒触られる。だから、これは、一体、なんなのか、説明を、してくれないかな。
「チッ……」
「え」
後ろの方から舌打ちが聞こえた。振り向かなくてもわかる。この位置にいるのは、確実に蝶番さんだったのだ。
蝶番さんはイライラしているらしい。彼女、感情を表に出す時、少しだけ感動に出てるんだよなぁ。それが舌打ちなのだ。イライラしたり、不満なことがあると、彼女は舌打ちを多用する。分かりやすいからこちらとしても配慮しなければならないと分かるから、いいんだけどね。
「ハッ……」
あ、ため息。
この、普通の息抜きとかではなくて、自分の体内にあるイライラを外に出そうとする際に放つことのあるため息。蝶番さんはこちらも多用する。
綾ちゃんと金城さんは、その二つを確認して、二人ともニヤリと口角を上げた。
「あー……。瑠璃奈ちゃんがイライラしちゃってるねー……。音葉ちゃんー、ちょっとやりすぎたんじゃないのー……?」
「全然だって……! まだまだこれからよ……! 瑠璃奈本人が止めに入るまで、とことんやってやるんだから……!」
だから何をやるんだよ。とことん何をやるんだよ。
されるがままにされてしまう僕。そんなことをよそに、自分達だけで好き放題する二人。
「てか、オタクっちぃー。眼鏡外してよー。今日はまだイケメンなところ見てないー。はーやーくー……!」
「ダメー! 曇くんがカッコいいってクラスにバレちゃうからー! 絶対にダメー!」
「あー、まあ確かに。これ以上ライバル増やしたくないし、それは分かるかもね。……え、ていうかさ」
「どうしたのー?」
「綾の言った『曇くん』って何?」
「ッ!?」
あ、そういえば綾ちゃん、二人の前ではというか学校内では、名前呼びはしないとかなんとか言ってた気がする。さっきは完全に名前呼びだったけど。もしかして注意してなかったのかな。
そこで僕は、あの時に綾ちゃんが言っていたことを思い出す。一気に顔が赤くなった。
『曇くんの名前を知っているのは……ボクだけでいたいから……』
ヤバイ。体が熱くなってきた。それとなんだろう、僕の横に引っ付いてきている、この銀髪で超絶可愛い女の子は一体なんなんだ! くっ……! 可愛すぎる!
焦っている彼女は金城さんに親切に説明した。
「え、えっと……。オ、オタクくんの、名前……」
「オタクっちの? 名前?」
「そ、そうだよ……」
「ふーん……」
「あぁぁ……。やっちゃったぁ……」
「ん?」
不思議そうな顔をしていた金城さんだったが、全てを理解したのかすぐに実践してきた。
「ねぇねぇクモくん!」
「ちょっ!? 音葉ちゃん!?」
「何? ウチがオタクっちのことをどう呼ぼうといいでしょ? ウチの勝手でしょ?」
「むむむぅー!!!」
これでもかと頬を膨らませている綾ちゃん。これ以上はほっぺたが痛くなってしまう可能性があるため、あんまりやってほしくない。もうすでに痛いのかもしれないし。
「あっはは! 綾、めちゃくちゃ悔しがってんじゃん」
「金城さんのせいでしょ? 綾ちゃんが……」
「ねぇ、クモくん?」
「それ、僕のこと呼んでるの?」
「そうだけど? 逆にそれ以外に誰がいるの?」
「いや、いないけど……」
「でしょ? それより今!」
「は、はい……」
ものすごく真剣な顔をしていた。しかしそれは真剣さを待ち合わせながらも、どこか不満な要素が少なからず存在していた。金城さんは、それほどまでに何か気がかりなことがあったのだろう。なんだ?
彼女は綾ちゃんの方を小さく指差して、
「名前……呼び……」
と、これまた小さく伝えてきた。
そこで気がついた。僕もまた、無意識に綾ちゃんのことを名前で呼んでいたのだ。そこに対して金城さんが意見したということなのである。
「あ、あぁー……。えーっと……」
「ん……」
「金城さんも名前呼び、してほしいの……?」
コクリと頷いた。その動作がなんだか可愛かった。
「じゃあ、どういう感じで……」
「音葉」
「え……」
「音葉でいいよ、オタクっち。ウチのことは音葉って、呼び捨てでいいから。ちゃ、ちゃん付けでもいいけど、基本的には呼び捨てで……いいから……」
「うん。分かったよ、音葉……」
「うぅ……」
優しく抱きついて、嬉しさを表現した。耳まで赤くなっていて、それはもう分かりやすかった。僕まで赤くなってくる。すでに赤いけど。
隣には頬を膨らませている銀髪の女の子が。胸の中には顔を赤くしている金髪の女の子が。なんだこの状況。そして、なんだこの恥ずかしさは。
そこでついに、蝶番さんのストップ宣言が入った。




