第六話
骨の軋む音が脳の奥に響いた。視界が揺れ、現実と夢の境目は溶けて流れ消えていた。
人工的な光の温もりは穏やかで、子ども達の無垢な笑い声が飽和する。
僅かなカビ臭さを帯びた紙とセピア色の写真は机の上で散らかった。
中村はそれらを片付けないまま、ふらついた足取りで向かっていく。僅かな段差に躓いたが、止まることはなかった。
鼓膜を震わせる蜂の羽音がする場所へと手招きされて。
「あれ、中村先輩は?」
柳瀬はゴチャついた机にいつもの住人がいないことに気づいた。
オカルトにかけては誰よりも熱心な中村が、今日は姿を見せない。休みだと聞いていなかった分、妙な違和感が残った。
「ああ、資料室から出たあと、外に出たまま戻ってないな」
冴えない編集長は気づいたとばかりに呟けば、また作業に戻る。周りも気にした様子なく、各自のやるべきことをこなす。
柳瀬の中に、じわりとシミのように違和感が広がる。思い出すのは、中村がこぼした“最近の夢”の話。
独り言を呟いたり、甘い香りに顔をしかめて青ざめる姿も見た。
あの夢以降中村は寝れていないことを、薄々柳瀬は気づいていた。
柳瀬が足を向けたのは、異様な空気が漂う薄暗い資料室。
埃っぽさに軽く咳払いをしながら進んでいく。
すると書類が積まれ、何冊かの資料が開きっぱなしになった机が目に入る。
「片付けてから出て行きなよ……」
内心で悪態をつきつつ資料を手に取った。しかし、文字の羅列を見て柳瀬は背筋が凍る。
《鬼塚村について》
中村が言っていた村の名前。冷や汗が頬を伝う。よく見れば、全て鬼塚村についてのことばかり。
【昭和26年7月15日、鬼塚村にて男性のバラバラ遺体が発見された。遺体の一部は村外で発見され、地元警察は事件性を疑い調査中である。目撃証言や関係者の話は一切得られておらず、真相は闇に包まれている】
【『蜂の神様』は古くから鬼塚村に伝わる禁忌の神である。その信仰は村の繁栄と引き換えに、生贄の供物を要求したという。選ばれし者の元には、必ずや一通の文が届くと古老は語った】
【蜂の神は、年に一度女王蜂を選ぶ。選ばれるのは村の女性。彼女達は神の言葉を伝える巫女として崇められていた】
柳瀬は資料を巡るのをやめなかった。そして、最後の一文で息を呑む。
【昭和26年夏、最後の巫女・赤野梅子による村人全員の惨殺事件が発覚】
【事件後、村は忽然と消えたと伝えられている】
セピア色の写真の中でも際立つ、赤い着物と口紅の女。大和撫子のような面立ちが、不気味なまでに整っている。
写真の女は笑ってなどいなかった。──なのに唇だけが笑っていた。
「……はっ?」
今にも消えそうで、漏れるような悲鳴が出る。中村の夢にしか出てこなかった村の名。それが現実に、確かにそこにあった。
柳瀬は夢でも見ている気分だった。
そして、最後に見たのは地図に描かれた罰印。罰印の上には、今もなお供物が置かれていたという……墨痕が滲むように書かれていた。
場所を示すは、馬鹿げてると思うほどに不吉な墓場だった。
中村を探さなきゃいけない。
そう思った時にはもう、足は動き出していた。
あり得ない。信じたくない。けれども、最近隈を作っていた中村のことを考えると何をしでかすか分からない。
柳瀬の足元で、死にかけた雄蜂が仄かに羽を震わせていた。救いを待つかのように。
しかし、死にかけの雄蜂に気づくことなく、駆け抜けていった。
その頃中村は、蜂の羽音に起こされる。
「うるさいな……」
先ほどまで何をしていたのかを思い出す前に、刺激したのは悪夢のような甘露な匂い。
「う、嘘だろ……!?」
二度と行きたくなかった鬼塚村にいることに気づくと声を荒げる。
以前のような爽やかさはなく空は黄昏れていた。
沢山の蜂に纏わる木彫りや乾いた腐肉の香りに混じった僅かな甘さ。
お祭りを連想させる華やかな村の真ん中に中村は立たされてた。
資料で読んだ蜂豊祭の光景だと分かると、中村は村から出る為に鳥居の外側へと走る。
「なんでだよ!出せよ!出させてくれよ!」
外に出ようとすると見えない何かに拒絶された。
歪んだガラスの中にいたのは、黒い蜜を纏う自分の顔をなぞった異形の蜂。
夢のはずなのに、叩きつけた壁は確かな痛みを返してきた。
資料通りならば、現実にはもう鬼塚村はない。
なら、自分が見ているこの世界はなんなんだ。
その瞬間、世界が中村に対して牙を剥く。
汗ばむ中村の身体から、纏わりつくような発酵した蜜の臭いと共に絶望が染み出す。
哀れな贄に誘われ、それらは静かに忍び寄る。
聞き慣れた音に心臓が跳ねた。悍ましい存在が背後にいる。確信めいた直感が、思わず中村を振り向かせた。
「うわぁぁぁ!?」
そこにいたのは、雀蜂に一部肉を食われていたり、蜂蜜のように溶けた体を引きずったりしている鍬や鎌を持った村人達。
全員視線が合っておらず、死人のようにふらついていた。
「雄蜂を女王蜂様へ……」
ゆっくりとした動きで迫る村人に、命の危機を感じた中村は走り出す。
がむしゃらに村人から逃げる中村は、初めは気づかなかったがある違和感を覚えた。
どれだけ走ろうと、どれだけ隠れようと赤い屋根の赤野家が視界にチラつく。
あり得ない。現実離れしている中村は恐怖から見えるモノを否定し続けた。
赤野の高笑いが現実を引き裂くように響いた。中村は緊張で喉が渇いていく。
だんだんと赤野の声が模したような音しか聞こえない。
中村は永遠に続く感情の螺旋に迷い込む感覚に陥る。
ゆっくりと後ろを振り向くと村人の皆、赤野の顔をしていた。
「やっと……熟れましたわね。貴方の香り、蜜の味、鼓動まで──全部、いただきます」
こびりついていく恐怖に、中村の精神は崩壊へと歩んでいく。
「ほ、祠!!!」
細く頼りげのない糸。以前と同じあの時、あの赤野家で見つけたもの。
絡みつく糸を頼りに、意識は導かれていく。中村の足が、勝手に祠へ向かう。
この悪夢が終わってほしい。
それだけが中村の心残された希望だった。
祠に近づくと、糸が絡みついたところから蜂が湧いて出て、鋭く刺されたような痛みが生じる。
痒みはじわじわと意識を侵食し、無意識のうちに爪が皮膚を裂いた。
だが溢れ出したのは血ではなく、黒い蜂蜜。
迫る村人達。おかしくなっていく身体。もしも全ての原因が祠ならば……。
「やるしかないだろっ!」
ホラー映画ならばよくある話。原因を壊せば目覚める。
一刻も争う時間。迷っている暇などない。
自分に残された道は祠を破壊することしかないのだと確信する。
中村は悪夢から覚めるのだと信じて、右手を思いっきり振り下ろす。
自分は物語の主人公ではないことに気づかずに。
「……えっ?」
祠が壊れる間際、自分に似た誰かの悲鳴が遠くで響いた気がする。
中村の心にもう2度会えない友人との別れのような悲しみが溢れだした。