第9話 青い冒険①
体を起こし、身支度を整えようとクローゼットを開けたが、そこには色あせたシャツと、よれたジーンズばかりが並んでいた。一夏と並んで歩くことを考えると、どれも頼りなく思えてしまう。
結局、白い半袖シャツに淡いグレーのズボンを選んだ。鏡の前で髪を何度か撫でつけ、普段なら気にも留めない自分の姿を、珍しく気にしていた。
集合時間は午前十時。駅前のロータリーで待ち合わせることになっていた。家を出る前に母に声をかけると、思いがけず驚いた顔をされた。
「珍しいわね。そんな格好つけちゃて。誰と遊びに、行くのかしら?」
「⋯⋯友達と約束してるだけ」
「ふぅん。友達、ね」
母は意味ありげに笑い、僕の背中を押すように玄関までついてきた。その笑顔が妙にくすぐったくて、僕は急いで靴を履き、外に出た。
駅までの道は、普段と同じはずなのに少し違って見えた。アスファルトが白く光り、街路樹の緑は鮮やかすぎるほど鮮やかだった。
ロータリーに着くと、一夏はすでにベンチに腰掛けて待っていた。
薄い水色のワンピースに、カーディガン。夏そのものを纏ったような姿で、彼女は笑顔を浮かべて僕を迎えた。夏の光を透かすようなその姿は、まるで水面に映る光の粒のようで、思わず目を奪われた。
「お待たせ」
「ううん、私も今来たとこ」
よくあるやり取り。それでも、一夏が少し照れくさそうに笑うと、それだけで胸の奥が温かくなる。
電車に揺られて三十分。
「ねえ」
「ん?」
「水族館ってね、昔から一度行ってみたかったんだ。小さい頃は体調崩してばっかりで、行けなかったから」
一夏の声は、いつもより少し柔らかかった。
「だから、今日はすごく楽しみにしてるの」
「⋯⋯そっか」
彼女の言葉の重みを、僕は胸の奥で繰り返した。余命一年という現実を思えば、その「行けなかった過去」と「今日」が特別に結びついているのだと分かる。
だからこそ、今日一日を絶対に台無しにはしたくないと思った。
やがて電車は目的地に到着した。白い壁の大きな建物、入り口の上には青い波模様のロゴ。子ども連れの家族や、若いカップルたちが次々と中へ吸い込まれていく。
「着いたね!」
一夏は、まっすぐと建物を見上げた。その笑顔は、まるで夢が現実になった瞬間を映しているようで、僕の胸は強く締め付けられた。
水族館の入り口には、夏休み中の親子連れやカップルがたくさん並んでいる。人の波に少し気後れした僕を、一夏は笑顔で手招きした。
自動ドアを抜けると、ひんやりとした空気が肌を包み込んだ。外の強烈な日差しの余韻が、たちまち水の匂いと静謐さに溶けていく。
館内は薄暗く、青を基調とした照明が壁や床を照らしている。その一歩一歩が、現実から切り離された別世界への移動のように思えた。
「わぁ⋯⋯」
一夏が小さく感嘆の声を漏らした。目の前には、天井まで届くほどの大きな円筒形の水槽。中では銀色の小魚の群れが、ひらひらと渦を巻きながら泳いでいる。
ライトに反射するたび、幾千もの光の粒子となって舞い上がり、まるで星の海のようだった。
「すごい⋯⋯こんなに綺麗なんだ」
「本物の星空みたいだな」
「ふふ、昨日も星を見たのにね。今日は水の中の星空だ」
無数のイワシが群れを成し、光を反射して、一斉に方向を変える。
「イワシが流れ星みたい」
彼女が笑顔でシャッターを切る。スマートフォンの画面に、青い光が揺れる群れが映る。
その横顔を見ているだけで、時間が止まればいいのに、と胸の奥で思った。
次の展示はクラゲだった。
暗闇の中に浮かぶ幾十もの水槽。中で漂うクラゲは、淡い光を放ちながら、ゆっくりとしたリズムで脈動していた。白やピンク、青に染められた光の中で、その姿は儚くも美しい。
「ねえ、理久くん。見て⋯⋯生き物なのに、まるで夢みたい」
「⋯⋯そうだな。時間が止まってるみたいだ」
彼女は目を輝かせ、水槽ごとにしゃがみ込んだり背伸びをしたりして眺めていた。その姿は、子どものように無邪気で、同時にどこか神秘的だった。
僕はクラゲよりも、彼女の横顔に目を奪われていた。
「クラゲって、ずっと漂ってるんだって。自分から進む力が弱いから、流れに身を任せるしかないんだって」
彼女が言った。
昨日もそうだったが、やけに詳しい。
(勉強して来たのだろうか?)
ふと、一夏が振り返る。
「クラゲみたいに、ふわふわ漂って生きられたら楽なのかな」
「でも、波に流されるだけだぞ」
「それでもいいよ。だって、どこへ行くか分からないでしょ。ちょっと冒険みたいで」
彼女の言葉に、僕は返事をしそびれた。余命を知る彼女が言うと、その軽やかさの裏に隠れた切実さを感じてしまうからだ。それでも一夏は笑みを絶やさず、クラゲを見上げていた。
クラゲのゾーンを抜けると、一転して賑やかな空間に出た。
そこにはペンギンたちの水槽があり、観覧スペースには子どもたちの歓声が響いていた。水の中を縦横無尽に泳ぎ、勢いよく飛び出すペンギン。よちよち歩きで陸を行き来する姿。
「かわいい!」
一夏が思わず声を上げる。彼女はガラスに近寄り、身を乗り出すようにして見ていた。
ところが次の瞬間──
バシャッ!
勢いよく水槽から水しぶきが飛び、ガラスの隙間を抜けて観客に降りかかった。一夏も思わず顔を覆ったが、頬やワンピースに水滴が散っていた。
「あははっ、冷たっ!」
普通なら嫌がるところだが、一夏はむしろ楽しそうに笑った。僕は慌ててハンカチを差し出し、彼女の肩や髪を軽く拭った。
「ごめん、俺のせいじゃないけど⋯⋯」
「いいのいいの。こんなハプニングも思い出になるんだよ」
笑顔のままそう言う彼女に、僕は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
その後も二人であちこちを巡った。色鮮やかな熱帯魚の水槽。岩陰からひょっこり顔を出すウツボ。ガラス越しに目が合った瞬間、一夏が小さく悲鳴を上げ、僕の腕をつかむ。
その仕草に僕は思わず笑い、彼女も照れたように笑い返した。
やがて、館内放送で昼時を告げるアナウンスが流れた。僕らは軽食コーナーへ向かうことにした。
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