第27話 色褪せていく君、僕は色帯びる
──10年前、熊本。
あれは、時間さえも熱に融かされるような夏だった。
「あっ、こら! 理久、走ると危ないわよ」
空気は澄み、山の緑は鮮やかで、蝉の声が一斉に降り注いでいる。祖母と進んだ先にあったのは、透き通るように冷たい川だった。
水面は日差しを反射してきらきらと輝き、子どもたちの笑い声があちこちから響いていた。裸足で川に入ると、ひんやりした水が足首を撫で、僕は「冷たい!」と声をあげてはしゃいだ。
僕は夢中になって石の上を飛び移っていた。
そのとき、足を滑らせて膝を強く打った。
「っ……痛っ!」
膝から血がにじみ、思わず座り込む。泣きそうになったその瞬間――。
「大丈夫?」
小さな声がした。振り返ると、川辺に立つ女の子がいた。白いワンピースに麦わら帽子、年は僕と同じくらい。真剣な瞳で僕を見つめている。
女の子は駆け寄って、ポケットからハンカチを取り出した。柔らかい布をぎこちなく僕の膝に押し当てる。
「ちょっとしみるかもしれないけど……押さえてたら血、止まるよ」
僕は驚いて少女を見上げた。自分より小さな体なのに、不思議と頼もしく思えた。
「……ありがとう」
「ううん。泣かないで。男の子でしょ?」
微笑んだ顔が、陽射しに透けるように輝いて見えた。
少女は落ちていた自分の麦わら帽子を拾い、僕の頭にそっと乗せた。
「これかぶってたら、痛いのも飛んでっちゃうかも」
僕は頬を赤らめてうつむき、それでも小さな声で聞いた。
「また……会える?」
「うん。きっと」
それが、僕らの約束になった。
あの川で膝を怪我してから数日後。
僕はまた、祖母の家の縁側に座って蝉の声を聞いていた。
けれど、どうしても気になっていた。――あの女の子のこと。
名前も知らない。けれど、あの笑顔と声が忘れられなかった。
小学生の僕にとって、知らない地での人探しは十分な冒険となった。
炎天下の道を歩いて探しているうちに、僕は汗だくになり、喉もからからになった。蝉の声が頭の中でじんじん響き、目の前の景色が揺らめいて見える。
「ちょっと休もう……」
そうつぶやきながら、偶然目に入った建物に足を向けた。
町の小さな図書館。ひんやりとした空気が流れていて、外の暑さが嘘みたいに感じられる。
静まり返った館内を歩いていると、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。
本棚の前で膝を抱えて座り込み、一冊の本を夢中で読んでいる少女。
「……!」
僕の心臓が一気に跳ね上がる。
あの川で会った子だ。
思わず近づいて声をかけようとしたが、胸がどきどきして言葉が喉につかえる。
けれど、少女の方が先に気づいた。
「――あっ!」
少女がぱっと顔を上げ、目を丸くして笑った。
「この前の子! やっぱりまた会えた!」
その言葉に、僕は全身が熱くなるのを感じながら、ぎこちなく笑った。
「う、うん……探してたんだ」
「探してた?」
少女は首をかしげて、でもすぐに嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私も探してたことにしよっか」
そう言って、少女は読んでいた本をぱたんと閉じ、僕の隣に立った。
「ここ、涼しいでしょ。夏休みはね、川もいいけど、図書館も隠れ家なんだよ」
「隠れ家……?」
「そう。秘密基地みたいで楽しいの」
少女の無邪気な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
「名前は?」
「理久。筧理久」
「私はね、一夏。寺薗一夏」
「⋯⋯理久くん」
彼女は、その名を繰り返すように呟いた。まるで、それを覚えておくためのように。
僕らは並んで椅子に座り、同じ絵本を開いて読んだ。ときどき顔を見合わせて、声を押し殺して笑う。
外は相変わらず蝉が鳴きしきっていたけれど、図書館の中には穏やかな時間が流れていた。
その日、僕の心には強く確信が芽生えた。
――この夏、少女と過ごす時間が、ずっと忘れられないものになる。
図書館を出た帰り道。西の空はオレンジ色に染まり、蝉の声に混じって遠くでひぐらしが鳴きはじめていた。
「ねえ、理久くんは、本好き?」
一夏が歩きながら問いかける。
「うん。冒険の話とか好き」
「わたしも! でもね、いつも借りた本をそのまま手に持って帰るから、ちょっと大変なんだ」
そう言って一夏が見せた両腕には、今日借りた数冊の本が抱えられていた。僕はそれを見て「たしかに重そうだね」と苦笑した。
次の日、祖母と出かけた帰りに、小さな文房具屋が見えてきた。店先に吊るされた布製の袋に、僕の目が止まる。
(あ、あれ……いいかも)
僕は、思い切って頼んでみた。
「本を入れる袋、欲しいな」
そうして、店のおじさんが出してくれたのは、真っ白な無地のトートバッグ。まだ何も描かれていない、まっさらなキャンバスのようだった。
その日の午後、僕らは図書館で会った。
「⋯⋯あのさ、昨日、本の入れ物欲しいって言ってたから。おばあちゃんに買って貰ったんだけど、よかったら使って」
「えー、いいの! 理久くんも持ってるからおそろいだね!」
一夏の瞳がきらきら輝き、僕はちょっと照れながら頷いた。
僕らは色とりどりの油性ペンを広げて、真新しいバッグに落書きをはじめた。
「ここに川を描いて……こっちは森」
一夏は楽しそうにさらさらと線を描き込んでいく。
「じゃあ、ぼくはここに……」
僕は少し迷ってから、自分の名前を小さく書き添えた。
「え、名前書いちゃうの?」
「うん……忘れられないように」
その言葉に、一夏は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてにっこり笑った。
「じゃあ、私も!」
一夏も自分の名前を書き加えた。
「私のにも書いて!」
「うん」
僕は、少女のトートバッグに名前を書き、一夏も僕のトートバッグの片隅に苗字を書いた時だった。
「一夏」
名前を呼んだ先を見ると、綺麗な女性が立っていた。
「あっ! お母さん!」
僕は理解した。綺麗な理由は、一夏のお母さんだから。納得できる理由だ。
「そろそろ帰るわよ、一夏」
「うん!」
「一夏。隣の子は?」
一夏の母親が僕を見つめて、一夏は言った。
「友達⋯⋯かな? いや、でも⋯⋯」
一夏の母親は微笑んで口を開いた。
「そうなのね。ふふふ。いつも一夏と遊んでくれてありがとうね」
僕は、不覚にも照れてしまった。
「またね! 理久くん!」
一夏と母親は手を繋ぎながら、僕に別れを告げた──。
***
窓際のベッドに横たわる一夏は、まだ目を閉じている。白いシーツに包まれた小さな肩が、ゆっくりと上下しているのを確かめ、僕は胸の奥で小さく息を吐いた。
ベッド脇の棚の上に、古びた布のバッグが置かれていた。
僕は思わず手を伸ばす。くたびれて色あせているが、その形ははっきり覚えている。十年前の夏、熊本の図書館で、一夏とふたりで無地の布バッグに絵を描いた。あのときの――。
指先で布をなぞると、幼い字で書かれた名前がまだ残っていた。
「理久」
そしてその隣には、彼女の小さな字も寄り添っている。
時間に削られ、色は薄れているのに、確かにそこには当時の思い出が刻まれていた。
「……気づいてたんだ」
声に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
十年前の夏。川で怪我をした自分を助けてくれた女の子。図書館で偶然再会して、一緒に絵を描いた子。あの子が――今、目の前にいる彼女だった。
僕はバッグをそっと抱きしめる。
僕は、今も昔も一夏に助けてもらってばっかりなんだと、つくづく思う。
「ずっと……覚えてたんだな」
返事はない。それでも、眠りの中にいる一夏の手を、僕は握った。
冷たくもなく、確かに生きている温もりがそこにあった。
十年前に交わした小さな約束が、今も繋がっている。
まるで、あのバッグが二人の時間を運んでくれたみたいに。
ご覧いただきありがとうございました。感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。




