表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/28

第27話 色褪せていく君、僕は色帯びる

 ──10年前、熊本。


 あれは、時間さえも熱に融かされるような夏だった。


「あっ、こら! 理久、走ると危ないわよ」


 空気は澄み、山の緑は鮮やかで、蝉の声が一斉に降り注いでいる。祖母と進んだ先にあったのは、透き通るように冷たい川だった。


 水面は日差しを反射してきらきらと輝き、子どもたちの笑い声があちこちから響いていた。裸足で川に入ると、ひんやりした水が足首を撫で、僕は「冷たい!」と声をあげてはしゃいだ。


 僕は夢中になって石の上を飛び移っていた。

 そのとき、足を滑らせて膝を強く打った。


「っ……痛っ!」


 膝から血がにじみ、思わず座り込む。泣きそうになったその瞬間――。


「大丈夫?」


 小さな声がした。振り返ると、川辺に立つ女の子がいた。白いワンピースに麦わら帽子、年は僕と同じくらい。真剣な瞳で僕を見つめている。


 女の子は駆け寄って、ポケットからハンカチを取り出した。柔らかい布をぎこちなく僕の膝に押し当てる。


「ちょっとしみるかもしれないけど……押さえてたら血、止まるよ」


 僕は驚いて少女を見上げた。自分より小さな体なのに、不思議と頼もしく思えた。


「……ありがとう」


「ううん。泣かないで。男の子でしょ?」


 微笑んだ顔が、陽射しに透けるように輝いて見えた。


 少女は落ちていた自分の麦わら帽子を拾い、僕の頭にそっと乗せた。


「これかぶってたら、痛いのも飛んでっちゃうかも」


 僕は頬を赤らめてうつむき、それでも小さな声で聞いた。


「また……会える?」


「うん。きっと」


 それが、僕らの約束になった。


 

 あの川で膝を怪我してから数日後。

 僕はまた、祖母の家の縁側に座って蝉の声を聞いていた。

 けれど、どうしても気になっていた。――あの女の子のこと。

 名前も知らない。けれど、あの笑顔と声が忘れられなかった。



 小学生の僕にとって、知らない地での人探しは十分な冒険となった。


 炎天下の道を歩いて探しているうちに、僕は汗だくになり、喉もからからになった。蝉の声が頭の中でじんじん響き、目の前の景色が揺らめいて見える。


「ちょっと休もう……」


 そうつぶやきながら、偶然目に入った建物に足を向けた。

 町の小さな図書館。ひんやりとした空気が流れていて、外の暑さが嘘みたいに感じられる。


 静まり返った館内を歩いていると、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。

 本棚の前で膝を抱えて座り込み、一冊の本を夢中で読んでいる少女。


「……!」


 僕の心臓が一気に跳ね上がる。

 あの川で会った子だ。


 思わず近づいて声をかけようとしたが、胸がどきどきして言葉が喉につかえる。

 けれど、少女の方が先に気づいた。


「――あっ!」


 少女がぱっと顔を上げ、目を丸くして笑った。


「この前の子! やっぱりまた会えた!」


 その言葉に、僕は全身が熱くなるのを感じながら、ぎこちなく笑った。


「う、うん……探してたんだ」


「探してた?」


 少女は首をかしげて、でもすぐに嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私も探してたことにしよっか」


 そう言って、少女は読んでいた本をぱたんと閉じ、僕の隣に立った。


「ここ、涼しいでしょ。夏休みはね、川もいいけど、図書館も隠れ家なんだよ」


「隠れ家……?」


「そう。秘密基地みたいで楽しいの」


 少女の無邪気な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。

 

「名前は?」


「理久。筧理久」


「私はね、一夏。寺薗(てらぞの)一夏」


「⋯⋯理久くん」


 彼女は、その名を繰り返すように呟いた。まるで、それを覚えておくためのように。


 僕らは並んで椅子に座り、同じ絵本を開いて読んだ。ときどき顔を見合わせて、声を押し殺して笑う。

 外は相変わらず蝉が鳴きしきっていたけれど、図書館の中には穏やかな時間が流れていた。


 その日、僕の心には強く確信が芽生えた。

 

 ――この夏、少女と過ごす時間が、ずっと忘れられないものになる。



 図書館を出た帰り道。西の空はオレンジ色に染まり、蝉の声に混じって遠くでひぐらしが鳴きはじめていた。


「ねえ、理久くんは、本好き?」

 

 一夏が歩きながら問いかける。


「うん。冒険の話とか好き」


「わたしも! でもね、いつも借りた本をそのまま手に持って帰るから、ちょっと大変なんだ」


 そう言って一夏が見せた両腕には、今日借りた数冊の本が抱えられていた。僕はそれを見て「たしかに重そうだね」と苦笑した。


 次の日、祖母と出かけた帰りに、小さな文房具屋が見えてきた。店先に吊るされた布製の袋に、僕の目が止まる。


(あ、あれ……いいかも)


 僕は、思い切って頼んでみた。


「本を入れる袋、欲しいな」


 そうして、店のおじさんが出してくれたのは、真っ白な無地のトートバッグ。まだ何も描かれていない、まっさらなキャンバスのようだった。


 その日の午後、僕らは図書館で会った。

 

「⋯⋯あのさ、昨日、本の入れ物欲しいって言ってたから。おばあちゃんに買って貰ったんだけど、よかったら使って」


「えー、いいの! 理久くんも持ってるからおそろいだね!」


 一夏の瞳がきらきら輝き、僕はちょっと照れながら頷いた。


 僕らは色とりどりの油性ペンを広げて、真新しいバッグに落書きをはじめた。


「ここに川を描いて……こっちは森」


 一夏は楽しそうにさらさらと線を描き込んでいく。


「じゃあ、ぼくはここに……」


 僕は少し迷ってから、自分の名前を小さく書き添えた。


「え、名前書いちゃうの?」


「うん……忘れられないように」


 その言葉に、一夏は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてにっこり笑った。


「じゃあ、私も!」

 

 一夏も自分の名前を書き加えた。

 

「私のにも書いて!」


「うん」

 

 僕は、少女のトートバッグに名前を書き、一夏も僕のトートバッグの片隅に苗字を書いた時だった。


「一夏」


 名前を呼んだ先を見ると、綺麗な女性が立っていた。


「あっ! お母さん!」


 僕は理解した。綺麗な理由は、一夏のお母さんだから。納得できる理由だ。


「そろそろ帰るわよ、一夏」


「うん!」


「一夏。隣の子は?」


 一夏の母親が僕を見つめて、一夏は言った。


「友達⋯⋯かな? いや、でも⋯⋯」


 一夏の母親は微笑んで口を開いた。


「そうなのね。ふふふ。いつも一夏と遊んでくれてありがとうね」


 僕は、不覚にも照れてしまった。


「またね! 理久くん!」


 一夏と母親は手を繋ぎながら、僕に別れを告げた──。


***

 

 窓際のベッドに横たわる一夏は、まだ目を閉じている。白いシーツに包まれた小さな肩が、ゆっくりと上下しているのを確かめ、僕は胸の奥で小さく息を吐いた。


 ベッド脇の棚の上に、古びた布のバッグが置かれていた。


 僕は思わず手を伸ばす。くたびれて色あせているが、その形ははっきり覚えている。十年前の夏、熊本の図書館で、一夏とふたりで無地の布バッグに絵を描いた。あのときの――。


 指先で布をなぞると、幼い字で書かれた名前がまだ残っていた。


 「理久」


 そしてその隣には、彼女の小さな字も寄り添っている。


 時間に削られ、色は薄れているのに、確かにそこには当時の思い出が刻まれていた。


「……気づいてたんだ」


 声に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


 十年前の夏。川で怪我をした自分を助けてくれた女の子。図書館で偶然再会して、一緒に絵を描いた子。あの子が――今、目の前にいる彼女だった。


 僕はバッグをそっと抱きしめる。


 僕は、今も昔も一夏に助けてもらってばっかりなんだと、つくづく思う。


「ずっと……覚えてたんだな」


 返事はない。それでも、眠りの中にいる一夏の手を、僕は握った。

 冷たくもなく、確かに生きている温もりがそこにあった。


 十年前に交わした小さな約束が、今も繋がっている。

 まるで、あのバッグが二人の時間を運んでくれたみたいに。

ご覧いただきありがとうございました。感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ