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第22話 夏の終わり、五日の軌跡

 ──月曜日──


 夏休み最後の週。蝉の声が次第に弱まり、夜には鈴虫の音が混じるようになった。季節が少しずつ移ろうのを感じるたびに、一夏と過ごす時間がいっそう大切に思えた。


 僕は図書館の自動ドアを抜けた瞬間、外とは別世界のような涼やかさに胸をなで下ろした。待ち合わせの時間より少し早く着いたので、冷たい飲み物を買って机に置き、ぼんやりとノートを開いた。


 数分後、小さな影が視界に差し込む。


「待った?」


 声に顔を上げると、一夏が笑顔で立っていた。肩までの髪が、外の光を受けて少し明るく見える。


「いや、今来たとこ」

 

 僕は思わず定番の返事をしていた。


 二人並んで机に座り、宿題を広げる。鉛筆が走る音だけが、静かな空間に溶け込む。


 しばらくして、一夏がノートから顔を上げた。


「理久、宿題終わらないよ~」


「俺もこの夏を楽しみすぎた⋯⋯」


「この問題教えてよ」


 僕は自分の赤ペンを取り、一夏のノートにすらすらと書き込む。


「分かった、理久! なら、ここをこうして」


 その指先の細かい動きや、真剣に眉を寄せる横顔に、僕の心臓は宿題どころではなく高鳴った。


「⋯⋯理久、聞いてる?」


「あ、え? ああ、ありがとう」


 慌てて返すと、一夏はくすっと笑い、声を落として言った。


「ちゃんと教えてよ」


 その言葉は、図書館の静けさの中で、秘密めいた響きを帯びた。

 僕は赤くなった耳を隠すように俯き、必死に鉛筆を動かした。だが、ページの余白には思わず一夏の名前を書きかけてしまい、慌ててぐしゃぐしゃに消す。


「⋯⋯何してるの?」


 一夏の視線がノートに落ちてきて、僕は慌てて閉じた。


「い、いや、なんでもない!」


「ふふっ、怪しいなあ」


 彼女のいたずらっぽい笑顔を前に、僕はただ頬を赤くしながら視線を逸らすことしかできなかった。


 外では、夏の終わりを告げるように夕立の雨が屋根を叩き始めていた。



 ─火曜日─


 朝、窓を開けるとまだ湿った風が吹き込んできた。昨日の夕立の名残だろうか、地面には小さな水たまりが残っていて、そこに空が反射していた。

 僕は寝ぼけ眼をこすりながら、机の上に置きっぱなしにしていた浴衣姿の一夏の写真──といっても、彼女が「ほら、せっかくだから」とスマホで自撮りしたものを見せてもらっただけのもの──を思い出し、胸の奥がくすぐったくなるような感覚を抱いた。


「⋯⋯夢じゃないよな」


 思わず声に出すと、少し照れくさくなって枕を被った。


 夕方、図書館で待ち合わせをした。宿題をやる口実ではあったが、互いにただ会いたいだけだということは分かっていた。


 窓際の席に宿題を広げながら、一夏がぽつりと呟いた。


「⋯⋯夏休み、もうすぐ終わっちゃうね」


 僕は鉛筆を止め、一夏の横顔を見た。少し寂しそうに伏せた目が、窓から差し込む夕日で淡く照らされていた。


「でも、終わるからこそ忘れられないんだと思う」


 自分でも驚くくらい自然に出た言葉だった。


 一夏は小さく笑い、肩をすくめた。


「またそうやって、かっこいいこと言う」


「いや、本当だって」


 言葉を交わすだけで、胸の奥に温かいものが積もっていく。



 ─水曜日─


 僕は昼前、一夏からのメッセージを見て胸を高鳴らせていた。

 

「今日は外で会わない? ちょっと歩きたい気分なの」

 

 「歩きたい気分」──その一文に、不思議と心が弾む。急いで準備を整え、彼女の待つ公園へ向かった。


 大きなケヤキの木が並ぶ公園は、子どもたちの声で賑やかだった。水鉄砲を構えて走り回る子どもたち、木陰で笑いながら見守る母親たち。そんな風景の中に、一夏はベンチに座っていた。白いブラウスに薄い青のスカート。その姿は公園のざわめきの中でひときわ柔らかく映え、僕は思わず足を止めた。


「⋯⋯来たね」


 手を振る一夏の笑顔に、胸がぎゅっと締めつけられる。


「ごめん、待たせた?」


「ううん、ちょうど」


 二人は並んで歩き出す。夏草の匂いと土の熱気が漂い、木陰に入るたびに風が頬を撫でた。


「なんかね、今日は急に人がいるところに行きたくなったの」


「昨日まで図書館ばっかりだったから?」


「それもあるけど⋯⋯子どもの声とか、人の笑い声とか、そういうのって安心するんだよね」


 一夏の言葉に、僕は頷いた。確かに、彼女はいつもより表情が明るく見える。まるで、夏そのものに溶け込むように笑っている。


 公園の自動販売機でアイスを買い、二人で木陰に腰かける。バニラの甘い匂いが広がり、氷が舌の上で溶けていく。

 

「こうやって外で食べるアイスって、なんでこんなに美味しいんだろうな」

 

「きっと、理久と一緒だからだよ」


 あまりに自然に言われて、僕は返事を詰まらせ、溶けかけたアイスを慌てて舐めた。


「⋯⋯俺、変な顔してる?」

 

「してる。かわいい顔」


 一夏は声を立てて笑い、僕は赤くなった顔を隠すように空を見上げた。


 午後になると、公園の噴水の周りに人が集まっていた。子どもたちが水しぶきを浴びながら駆け回り、その周りをカメラを持った親たちが微笑んで見守る。一夏はその光景を見ながら、ぽつりと言った。

 

「いいね、こういうの。みんな笑ってて、平和で」


 僕は横顔を見つめ、何も言えなかった。彼女の言葉はただの感想のようでいて、胸の奥を静かに揺さぶった。


 日が傾き始める頃、二人はゆっくり帰り道を歩いた。沈みゆく夕日が川面を金色に染め、風に混じる虫の声が秋を予感させる。

 

「ねえ、夏休み終わったら、また普通に学校始まるね」


「うん」


「ちゃんと、行かなきゃだめだよ」


「⋯⋯うん」


 空には一番星が輝き始めていた。二人は足を止め、その小さな光をしばらく黙って見上げていた。



 ──木曜日──


 朝、窓を開けると涼しい風が入ってきた。昨日までの蒸し暑さが嘘のようで、夏が一歩後ろに下がったように感じられた。僕はその風に誘われるように、早めに起き上がった。

 するとスマホにメッセージが届いていた。


「今日、家に来てほしいな。ご飯、作りたい」


 短い言葉に、僕の心臓は大きく跳ねた。慌てて身支度を整え、自転車を漕いで一夏の家へと向かった。


 玄関を開けると、すでに台所からトントンと包丁の音が聞こえてきた。僕が「おじゃまします」と声をかけると、一夏がエプロン姿で顔を出した。

 

「来た! ちょうど野菜切ってるとこ。手伝ってくれる?」

 

「⋯⋯いいけど、俺、そんな得意じゃないぞ」

 

「大丈夫。私もだから」


 二人で並んでまな板に向かう。玉ねぎを刻むと、すぐに目がしみて涙が滲む。


「いたた⋯⋯目がやばい」

 

「わかる! 私も!」


 二人で涙目になりながら笑い合う。その時間がやけに楽しくて、僕は「料理って案外いいな」と思った。


 鍋で野菜が炒められ、じゅうっと音を立てる。にんじんの甘い香り、じゃがいもの素朴な匂いが広がり、そこにルウが溶け込むと部屋は一気に食欲をそそる匂いに包まれた。


「カレーって、なんか幸せの匂いだよね」

 

「⋯⋯ああ。安心する匂い」


 出来上がったカレーを二人でテーブルに並べる。最初のひと口を口に運んだ一夏が、ぱっと笑顔になった。

 

「⋯⋯美味しい!」

 

「本当か? けっこう適当だったけど」

 

「理久と作ったから美味しいんだよ」


 そんな言葉に、僕はまた返事を詰まらせてしまった。スプーンを持つ手が微かに震えるのを隠すように、慌ててもうひと口食べる。確かに美味しかった。



 ──金曜日──


 朝、窓を開けると、曇り空が広がっていた。蝉の声は昨日よりも控えめで、風に混じる湿り気が午後の雨を予感させていた。夏の終わり特有の、少し寂しい空気。僕は制服のシャツを羽織りかけて、「いや違う」と脱ぎ、ラフな格好に着替え直した。今日は学校じゃなくて、一夏との約束の日だった。


「図書館で待ち合わせ、十時ね」


 昨日の夜、一夏がそう送ってきたメッセージを思い出す。彼女と過ごせる日々は、もう数えるほどしか残されていない。だから、一つひとつを大切に胸に刻もう──そんな気持ちで僕は自転車を走らせた。


 図書館の前で、一夏はすでに待っていた。白いブラウスに薄いカーディガンを羽織り、ノートを抱えている。

 

「おはよ。今日は少し早かったね」

 

「そっちこそ」


 二人で笑い合いながら館内へ入る。冷房の涼しさが肌を包み、静かな空気が漂っていた。


 席に着くと、一夏はノートを開き、何やら真剣な顔でペンを走らせ始めた。

 

「⋯⋯何書いてるんだ?」


「ふふ、内緒。でも、あとで見せてあげる」


 からかわれるように笑われ、僕は首をかしげながら参考書を開いた。勉強に集中するつもりだったのに、気づけば視線は一夏の横顔ばかりを追っていた。


 午後、図書館を出ると空はどんよりとしていた。

 

「降りそうだね」

 

「だな。帰るか?」

 

「ううん、ちょっと歩きたい」


 二人は並んで川沿いの道を歩いた。土手の草は濡れたように深い緑で、風が吹くたびに小さく揺れた。


 やがてぽつぽつと雨粒が落ちてきて、気づけば本降りに変わっていた。二人は慌てて駆け出し、近くの大きな木の下に逃げ込む。枝葉が傘のように広がり、ぽたぽたと水滴が落ちてくる。


 

「びしょびしょになっちゃったね」


 一夏は笑いながら濡れた髪をかき上げる。頬に流れる水滴が光って、僕にはそれが涙のように見えてしまった。

 

「⋯⋯でも、なんか楽しいな」

 

「雨なのに?」

 

「雨だから、かも」


 一夏の笑顔に、僕も自然と笑っていた。どんな状況でも彼女と一緒なら楽しい──その事実を、またひとつ確かめたような気がした。


 やがて雨は小降りになり、二人はまた歩き出した。靴は濡れて重く、服も少し冷たかったが、それすらも不思議と心地よかった。


 夕方、一夏の家まで送るとき、彼女が立ち止まって言った。

 

「ねえ、さっきのノート⋯⋯見せてあげる」


 差し出されたページには、ぎっしりと文字や小さなイラストが描かれていた。今日の出来事、昨日のこと、そして「夏休み最後の週を大切にしたい」という言葉。


「これ、日記みたいなもの。忘れないように、ちゃんと残したくて」

 

「⋯⋯すごいな」

 

「大切な人との時間だから」


 そう言って、一夏はそっと笑った。僕の胸の奥に、その言葉が深く刺さる。返す言葉を探すよりも早く、彼女の笑顔がすべてを語っているように思えた。


 家の前で別れ際、一夏は小さく手を振り、「また明日ね」と言った。

 僕は頷き、自転車を漕ぎ出した。夕焼けに照らされる帰り道、胸の奥がじんわりと温かく、そして少し切なかった。

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