第13話 火の国① 出発の朝、カルデラの彼方
※草千里に実際に行く場合は、放牧中の馬に近づいたり、触ったりすることは危険なので、絶対にやめましょう。
朝の駅前は、夏の空気に包まれていた。白く輝く入道雲が遠くに浮かび、蝉の声が途切れなく響く。
僕は待ち合わせの時間より少し早く着き、改札口の横で落ち着かない気持ちを抱えていた。
旅行という響きは、僕にとって少し非日常すぎて、そわそわする。
だが、それ以上に──彼女と一緒に遠出すること自体が、胸を高鳴らせていた。
それは、数日前。一夏から電話がかかってきた。
「ねえ、今度、ちょっと遠くに出かけない?」
「え、急に⋯⋯どこに?」
「阿蘇。自然がきれいで、景色も最高なの」
電話越しの声は少しはしゃいでいて、でも、普段の彼女の優しいトーンが混ざる。僕は考え込むふりをした。外出は億劫だけど、彼女と二人きりで過ごせる時間は、そうそうない。
「⋯⋯わかった、行こうか」
「ほんと!? やったー!」
そうして今日、僕たちは駅前に立っている。
一夏は、麦わら帽子をかぶり、薄手のブラウスにロングスカート。肩から小さなリュックを提げ、手にはキャリーケースを引いていた。
駅に差し込む朝日を浴びて、まるで一枚の絵のように見えた。
「待った?」
「ううん、今来たとこ」
自分でも驚くほど、すんなりと嘘が出た。彼女はにっと笑って、チケットを掲げる。
「阿蘇、楽しみだね。火山とか草原とか、いっぱい見たい」
それだけで僕の胸のざわつきは、期待に変わっていった。
ホームに上がり、二人で新幹線に乗り込む。窓際の席に並んで腰を下ろすと、車内はすでに家族連れや観光客でにぎわっていた。リュックから小さなお菓子を取り出した彼女が、僕の手にひとつ差し出す。
「長いからね。ほら、非常食」
「おおげさだな」
そう言いながら受け取ると、彼女は楽しそうに笑った。新幹線が動き出し、景色が流れ始める。田んぼが続き、やがて山が近づいてきた。
彼女は窓に顔を近づけ、山並みを見ては「すごいね」と声をあげる。僕はその横顔を盗み見ていた。視線が合うと、「なに?」と笑われ、慌ててそっぽを向いた。
やがてバスに乗り換え、道はゆるやかな坂を登っていく。遠くに見える山並みは、うっすらと青に霞んでいる。
駅前には古い路面電車が停まっていて、からん、とベルの音を響かせていた。彼女は目を輝かせ、すぐにカメラを向ける。
市内をぬけて二時間程経つと両側には牧草地が広がり、遠くに牛の姿も見える。窓を開けると、草の匂いと涼しい風が流れ込んできた。さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、空気は澄んでいる。
「わあ⋯⋯広い!」
丘の上に出た瞬間、彼女が歓声をあげた。目の前に広がっていたのは、果てしない草原。どこまでも続く緑の波が、夏の光に揺れていた。
バスを降り、二人で草千里ヶ浜へ向かう。舗道を歩く足取りは自然と軽くなっていた。
小さな売店の前を通り過ぎると、牛乳ソフトクリームの看板が揺れている。彼女は一瞬立ち止まり、振り返って僕を見る。
「⋯⋯食べたい」
その小さな一言に、僕は笑って財布を取り出した。受け取ったソフトクリームを両手で大事そうに持ち、ひと口食べて「冷たい!」と目を細める。
その無邪気な仕草に、僕は胸が温かくなった。
広場に出ると、空はどこまでも高く、風が草を揺らしていた。馬が数頭、のんびりと歩いていて、観光客の子どもたちが歓声を上げる。彼女はしばらくその光景に見入ってから、僕の方を向いて言った。
「ねえ、あそこまで歩こう」
指さした先には、草原の中に続く遊歩道があった。僕は頷き、二人で並んで歩き出す。靴の裏に感じる土の感触、風に乗ってくる草の匂い。すべてが新鮮で、すべてが彼女と一緒にいるからこそ特別に思えた。
草千里ヶ浜の遊歩道を歩くうち、足元の草が風に揺れる音が心地よく耳に届いた。彼女は時折立ち止まり、手のひらで草を撫でたり、空を仰いだりする。
「ねえ、見て。あの馬、近くで見たいな」
「ほんとだ。行ってみようか」
二人で歩みを進めると、馬は警戒するでもなく、草を食みながらゆったりとこちらに近づいてきた。彼女は手を差し伸べ、僕も少し離れたところから見守る。馬の鼻先が指に触れると、彼女は思わず息を吐き、目を細めた。
「かわいい⋯⋯」
「本当に柔らかいな、毛」
「触ってみる?」
「うん」
少しぎこちなく馬に触れる彼女の手つきは、どこか子どもっぽく、でも純粋で、その横顔を見ているだけで胸が熱くなった。
散策を続けると、遠くに火口の荒々しい地形が見えてきた。山肌は黒や赤褐色に染まり、噴煙が淡く立ち上る。自然の雄大さと荒々しさが混ざり合った景色に、僕は息を飲んだ。
「⋯⋯迫力あるね」
「うん。写真じゃ絶対に伝わらない」
昼食の時間になり、近くの郷土料理の店に入った。山の幸や川魚、季節の野菜を使った定食が並ぶ。彼女は嬉しそうに箸を取り、僕に分けながら「これも食べて」と笑顔を見せる。
ところが、ここで小さなハプニングがあった。僕が味噌汁をすすろうとした瞬間、彼女が笑いながら腕を伸ばしてきて、箸先が僕の手に当たり、汁が少し飛び散った。慌ててテーブルを拭きながら、二人で笑い転げる。その無邪気な笑顔に、僕の胸も弾んだ。
「もう⋯⋯油断できないな」
「ごめんね、でも楽しいでしょ?」
「楽しいけど⋯⋯汁は気をつけろ」
こうして昼食を終える頃には、二人の間の空気がさらに柔らかく、近く感じられた。
雄大な景色と小さなハプニング、そして共に過ごす時間が、ひとつの宝物のように胸に刻まれたのだった。
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