解説のようなもの
『星女郎』は、明治四十一年(1908年)の作。
青空文庫
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題名の「女郎」は、「少女」や「若い女」を漢文ふうに言ったことばで、遊女やおいらんとは関係がない。
『星女郎』は同年、先に発表された『草迷宮』と素材が重なる部分もあり、姉妹篇といってもいい関係にある。
化け物屋敷の肝試しといった趣向が共通するのは、『稲生物怪録』からの発想だろう。『星女郎』で村相撲の関取が登場するあたりは、『稲生物怪録』に出てくる相撲取り、三ツ井権八の名残がうかがわれる。
もうひとつ共通点を挙げれば、両者ともに人気や話題性の強い題材に挑んでいることだろう。『草迷宮』では江戸中期からの人気が持続していた『稲生物怪録』だったが、『星女郎』ではそれに加えて若い女性のヒステリー症状といえるものを扱っている。
ヒステリーなどという病的状態を表すことばを話題のトピック扱いするとは、おかしなことを言うと思われるかもしれない。だが、当時は、明治十年代あたりから輸入されはじめた「神経」という目新しい概念に注目が集まって、狐憑きや幽霊を神経の作用だと解釈し直すことが流行していた。たとえば三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』は、「怪談累ヶ淵」の「怪談」を、「真景」=「神経」と言い換えたタイトルだったりもする。といっても、中身はほぼ怪談のままなのだから、大衆の間では怪談も神経も同じように、考えてもわからないものとして、ことばを入れかえただけのことだった。
文芸作品にも神経病的な解釈が導入されて、テクストに多大な影響を与えていたらしい。こうした状況はフロイド心理学が大衆化した50、60年代のアメリカで、ニューロティック・サスペンスが流行した事情によく似ている。
女性の身体に発生する怪異を呪いや憑きもののせいだと片づけずに、その心因を少女のセクシャルな妄想に結びつける『星女郎』という小説も、やはり「神経」のはたらきによる怪談の新解釈だといえる。ただし鏡花の場合は疑似科学的な解説を加えるなどという愚は犯さず、かといって心理的な分析を尽くすわけでもなく、いつものようにエピソードを並列的に分岐させることによって、怪異を理由づけていく。
じっさいのところ鏡花が示した説明は、女性の性的妄想や鬱屈がヒステリーの原因になるという、ルネサンス期のパラケルススが示したものとそんなに大差はない。しかし鏡花の主眼は怪談の革新にあったわけではなく、新しい解釈によってどれだけファンタジーの領域を拡張できるかにあったのだと思う。
どこまでが新しい試みだったのかは私にはわからないけれど、結果として『星女郎』の終盤に出現するファンタジックな妄想シーンは、昨今のジャンル特化された小説に迫るほどの、ぶっ飛んだものになっている。絵心のある蒔絵師の娘、お綾の錯乱が、彫金師の息子として絵の修行をしながら、残酷な責め絵ばかり好んで描いていたという鏡花自身の思春期妄想を一気に解放させた感がある。
さらにモデル探し的な話をすれば、ヒロインたちの肉体破壊的な妄想には、執筆当時入院中だった鏡花夫人すずに手術のメスが入る恐怖が反映されているという話もあって、これも血なまぐさい妄想を助長したのだろう。
神経病概念の導入によって、日本の近代文学がさらに人間の内面へと向かったのに対して、同じそれをファンタジーの起爆剤として使った鏡花の発想は、南北の奇想を明治時代に移植したような新機軸だったのではないか。
『星女郎』のような、少女の思春期妄想が世界に溢れだすといった創作は、その後の世の中でどんどん作られていくことになるわけで、ちくま文庫集成の解説の種村季弘はポランスキーの『反撥』を挙げている。その後の名作としてはピーター・ジャクソンの『乙女の祈り』があるし、『キャリー』や『エコール』『パンズ・ラビリンス』を挙げたい人もいるだろう。『少女革命ウテナ』はそのジャンルの傑作だし、最近では『夢喰いメリー』『アリスと蔵六』『青野くんに触りたいから死にたい』なんかも面白い。
女体の肌の下を男たちの妄執が移動する描写は、まるでオカルト映画『エンティティー 霊体』の特撮シーンみたいだし、ノートに似顔絵を描いた男が死ぬという、『DEATH NOTE』を100年先取りしたかのような設定にも、驚かされてしまう。
ただし『星女郎』の場合、こういった今に通じる興味をかきたてるのは、31節から37節の結末部分に限られている。それ以前の1から30節までは、特殊な舞台設定の提示や雰囲気作りに終始した感があって、物語的な面白さは停滞する。
作品構造がしばしば同心円の重なりにたとえられる『草迷宮』の場合は、なんらかの中心にむかっているというサスペンスが持続するのだが、『星女郎』はエピソードを並べ重ねているだけ、という印象が強い。倶利伽羅峠が源平合戦の古戦場であることや、鵲、蜻蛉、牛といった生き物が示すちょっとした異変、獅噛の面や本紅が見せる玉虫色の唇、蝦蟇と鼬の怪異などなど、求心力を欠いたできごとが、ひたすら羅列される。思わせぶりに引用される李賀の漢詩に至っては、(鏡花にしても笹川臨風から『李長吉歌詩』を贈られて李賀に傾倒しはじめたばかりだったのだから)わざと僻典に傾いてみせた感がある。しかも『春昼』での李賀の引用がテーマの暗示を担っていたのに対して、『星女郎』では李賀の詩の神秘的な雰囲気や詩中の巫女の少女が怪異を引きおこす部分がほのめかしに使われているだけである。
さて、本作を読むためには「通り庭」についての知識が欠かせない。
通り庭とは、家屋のなかにある土間の通路のことで、家屋脇の正面から裏の背戸(あるいは裏庭)までを、三和土(現在はコンクリート)を敷いた細長い庭が貫通している。鰻の寝床といわれる京都の町家の作りとして有名だが、金沢の商家にもよく見られる特徴なのだそうだ。
図面や写真で見ると、京阪の通り庭の先は裏庭で行き止まっているものが多いようなのだが、鏡花の小説に出てくる旧加賀藩領の通り庭は裏の背戸につながって、裏隣の家との往来もできるふうに書かれている。自分を含めてじっさいに見たことがない読者にわかるように描写されているとは思えないけれど、その不親切さもまた鏡花の特徴なのであきらめるしかない。
初期の『照葉狂言』では通り庭の中ほどに金魚の飼われた池があり、幼時の想い出の場所として描かれていた。『由縁の女』では裏隣と通じる悪事に利用されることになり、そして『星女郎』ではパニック・ホラー描写に適した舞台として使われている。
いや、それにとどまらず、本作では作品全体が、通り庭をぶらぶらと通り抜けるかのように仕組まれている。つまり倶利伽羅峠に至る主人公の旅程が、通り庭を歩きながら、土間に面して並列する部屋の様子を一つ一つ覗き見するような並列的構成になっている。語り手の移動とともに、鵲と牛の部屋、熊坂長範の部屋、蝦蟇と鼬の部屋、李賀の部屋などを見物して、それらのうちのなにかが、説話的な求心力を発揮するのではないかと期待させながら、じつはなんでもなかったというはぐらかしが、ゆるやかに全体と各エピソードを連結させている。
『星女郎』の1節から30節をあらすじで飛ばしたのは、終盤のこんなにも面白いパートにたどりつけるのが、ある程度鏡花に入れこんでいる人に限られるのは、あまりにももったいないと思ったからなのだけれど、省略した部分が面白くないというわけではけっしてない。
ただし、主人公が倶利伽羅峠の一つ屋にたどり着くまでの部分には、あまりにもはぐらかしが多すぎる。現代的な感覚でも受け入れやすい終盤の展開に対して、当時の感覚ではこれくらいの下準備が必要だったのかもしれない。省略した部分は、物語の地固めのための停滞を楽しむためにあるようなものなので、現代語に訳してもあまり意味がない。あらすじを知ったあとで原文に接して語り口の妙味を楽しむ、という順序でも悪くないのではないか。
逆に終盤で物語が核心に踏みこんでからはイメージとストーリーが優先されているので、現代のことばに置きかえながらスピード感をもって読むのに適している。「病気の開きが着いた」なんていう医学用語が定まっていない時代の当座な言い回しに頭をひねるより、「病状が寛解した」と現代語で理解したほうがずっといい。
と、以上が、『星女郎』を、部分現代語訳、というより、現代語リライトの見取狂言式にしてしまったことへの言い訳なのだが、あくまでも今の感覚で読んで面白いストーリーとしてみた場合の、『星女郎』という特殊例に対してだけ試してみたくなった処置であって、他にこんなふうに読んでみたい作品は、今のところ見あたらない。
最後にやっかいな謎が残ってしまった。
本文中に二度現れる、ふたりの老婆とはなんだったのか、という謎である。
これは絶対に魔界からの使者なんだろうと思わせる登場のしかたをするのだが、一人はいつの間にか貴婦人になり、もう一人はなんとなく消えてしまう。
以下、老婆たちの出現シーンをまとめてみると、
・3節……「対向かって二人」で登場した、「年紀も同じ程な六十左右の婆々(ばば)」として描かれる。
・13節……ここでも「二人並んだ姿」が目撃されて、「皺の想わるる手」をした「婆」だと明記されている。
・18節……境が「熟と目を睡ると(つぶると)」、そのうちの一人が「水の垂れそうな円髷」の「気高い女性」になってしまう。
・20節……「その円髷の、盛装した、貴婦人という姿」と、もはや老婆は消滅して、以後は一貫して貴婦人と呼ばれることになる。
この、意外な場所に現れたり、消滅したり、容姿や年齢まで変化させたりする老婆たちには、怪奇なムードを演出するためなだけではなくて、もっと意図的な仕掛けがこめられていることは、全37節の中央に位置する19節の大半が、もう一人の老婆の行方についての境と山伏の詮議に当てられていることからも推察できる。
そこでは、もう一人の老婆は貴婦人が荷物運びに雇った地元の人だったという、一応の合理的な解釈が示されるのだが、なぜ老婆の一人が若返って貴婦人になったのかという最も気になる部分はしらじらしくスルーされている。老婆の一人が若返って貴婦人になったのなら、もう一人の老婆は綾になったのではないかと、だれもが思うだろう。
小説内の現実としては、同じ高等女学校に通っていた綾と貴婦人は、四、五歳の差が考えられるにしても、口の利き方からして一、二歳の差に思えるし、学校を中退して倶利伽羅峠を越えたころは二十歳近い年齢だったはずで、主人公の境も同じころに二十歳で、それから十年が過ぎたのだから三人ともが三十年配のはずである。
しかし小説を読んだ感触では、綾は十代、境は二十代半ば、貴婦人は三十代といった印象があるし、キャラクターの年齢配分としても見ばえがいい。
なにかの典拠に倣ったにせよ、年齢容姿が変幻自在の老婆というものが不合理なことはたしかで、結局のところ、不可解でしかないものをわざと示していることになる。
これについては明治42年の鏡花の談話、「怪異と表現法」が参考になりそうだ。
https://web.archive.org/web/20211119181358/http://web-box.jp/schutz/pdf/kaii.pdf
「不思議を描くには不思議らしく書いては不可ません。」
「不思議をかいて讀者に只の不思議と思はせずに、何となく實らしく、凄く思はせる好い例は講釋師の村井一が本郷の振袖火事」で起こった怪異の「其話をする前に、前提として、」べつの不思議なできごとの話をしておいてから、さりげなく本題に入ることで、聴衆が自然に怪異を受け入れる流れを作ったことが参考になる。
「是は實に話を人にきかせる周到な用意で別に人を欺く手段ではないのです。」
……と、鏡花は言っている。
鏡花が怪異を語るにあたって、どれほど意識的にサブエピソードを配置したのかがわかるこの話からすると、老婆の不可解は、怪異を語る方法論を模索した結果としてそこに置かれたことは間違いない。「人を欺く手段ではないのです」といいながら、じっさいには読者は欺かれているのだから、奇術師が幻術を引き立てるための目くらましだといえばいいのか。ただしそれを語る鏡花の側からすれば「周到な用意」の一要素であって、怪異の本体以外は不可解であろうがなかろうがかまわない、ということになる。
考えてみれば『星女郎』は、31節以降のクライマックスに至るまでは、この「周到な用意」を、これでもかというくらいに積みかさねている小説であって、その意味では鏡花流小説作法の方法論的実験作といえるかもしれない。
『星女郎』が書かれて115年が経った今では、むしろ綾と貴婦人の世界のようなファンタジーの創作物が身近にあふれていて、私たちは、そちらから見下ろすような見かたしかできないから、鏡花の深慮遠謀そのものが不可解に感じられる気がしないでもないのだけれど。