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「月に一度、あるいは二度、貴婦人がお忍びで山に上ってくる。そのたびに、ああして綾を抱いて、もとは自分から起こったことだと、肌のあざにキスをする。
だが、雪の肌に燃え立つ赤い鬼百合の花は、吸っても消えず、しぼみもしない。そればかりか、これはと思う会心の男の絵が描けて、その胸に刃を描いてグサリと刺したとき、貴婦人が肌に触れると綾のあざからは露を絞るように、生き血の雫がしたたったといいます。
広間の壁には、竹べらで壁土を削って、等身大のキリストの像が浮き彫りにされていました。離れにあった本箱のなかにも、惨憺たる彩色画がぎっしり詰まっていて、それはどこのだれというのを避けた綾が、血を流して死んだ歴史上の人物を描いたものでした」
こう物語る、境の声は震えた。……
「お坊様。
そして貴婦人は、私に言いました。
『縁のあるあなた。ここに住んで、打ちもし、蹴りもし、縛りもして、綾の悪い癖を直してあげてください』
すると、いっぽうの若い女のほうは、
『おなつかしい方だけに、こんな魔所には引き留められません。身体のあざがあるうちはなおさらなこと』
と、しっかりとつかんだ私の袂にすがって泣きます。
私は、いっそ死んでしまおうかと思うほど迷った。
いつまでもためらっている私の様子を見て、おそらく若い女は、それまでに聞いた話から、あとで呪詛われるのを恐れて、ここを去る勇気が出ないんだと思ったらしい。
玄関の靴脱ぎを、真っ白い裸足でつかつかと歩いて背戸へ出ると、若い女は母屋の壁の羽目板から軒へかけて、まるで森のなかのようにからんだ烏瓜の蔓をたぐり寄せた。束ねたその蔓をずるずると引きながら、露のしたたる夏草に膝を埋めて、背中から両腕をぐるぐるとわが身に巻きつける。白い烏瓜の花が、雪のように降りかかった。
朝日が昇りました。
驚く私をキッと見つめて、
『約束は破りません! あなたが去って、次の生贄になる男がこの巣にかかるまで、このままここから動きはしない』
安心して山を下りなさい、というのです。
『さあ』
と言うと、一心にこちらを見ていた目をつぶって、黒髪をうつむけました。
その姿を見るに堪えず、放心して縁側に腰を落とした私の足に、貴婦人がわらじを結びました。
たまらなくなって飛びだした私は、蔓を解こうと手をかける。若い女はさせまいと胸を引き、頭を横に振っている。私は草を引きむしりながら、涙を流しました。
『私なんか、どうなってもいいから』
『いいえ、こうまでして誓いを立てないと、私はあなたを殺すことを、自分でも制しきれない。昨夜はあの世にお泊めしました。今朝からは新たな命をお生きなさいませ』
と、目を潤ませながらも凜々(りり)しく言った。
『たとえしばらくの辛抱が必要でも、男を呪詛う気がなくなったのは、綾さんにとっても幸福です。言うとおりになさってください』
と、貴婦人が荷物といっしょに、金剛杖も手渡してきた。
膝下にかかる荷を下げて、杖を抱いてしょんぼりと立つ私に……
『さようなら、ごきげんよう』
『はっ』
と、迷いを払って土間へ出たが、ふり返ると若い女は泣いていました。露がきらめく葉の間から見える彼女に、鬼百合がカッと紅く映って、明石絞りの夏着に透けたその素肌を焼くかのよう。
そのとき、遠い向こうの峰から火の矢のように、太陽の光がサッと射した。貴婦人が袖をかざして、若い女をかばいました。
さてお坊様、昨晩はあなたがあの鬼の面で若い女を脅したことを想いだして、私はつい、あなたを罵ってしまいました。そもそもはあなたが好意で貸してくださったものなのに、私は女を驚かせまいと思って、夢中で放り投げてしまった。ところがです。驚いたことにあの鬼の面は、猿ヶ馬場を出たところの峠の下り口、谷へ出た松の枝に、まるで一軒家の背戸にいるふたりを正面から睨むようにカッと眼を見開いて、紫の緒を引っかけてぶら下がっていたのです。
……お坊様、私はどうしたらいいんでしょう」
と、一気にため息をついた。
「ふう」
と同じくため息で返事をした山伏は、しばらく間を置いて、
「鬼神に横道無し。魔物こそ嘘はつかないものですな」
と目を瞬かせた。
しかし、今どきはだれも山道を通らない。そのまま若い女が誓いを守り通せば、半日、一日はまだしも、三日も経たないうちに飢えもしよう、渇きもしよう、炎天にさらされよう。とはいえ幸いにも旅人が通ったとしても、ただちに生贄にされてしまう。自分はよくても、他人を身代わりにするのは人の道に外れる。
そんな思いを山伏に伝えると、僧も拳を握りしめて、ふつつかながら命に賭けてその美女を説き伏せて、悪しき心を入れかえさせよう。いざ行かん、と清水を浴びた。境も嗽手水をして身を清めると、明王の前にぬかずいて祈った。やがて山伏と境は並んで、正面を見据えながら白くまばゆい峠道を突き進んでいった。
目路の先には、まるで雲から吐き出されたように、一人の旅人が坂道に突っ伏していた。
ああ、生贄は代わった。
ふたりが助け起こすと、その男は無謀にも早朝から禁制の峠を越したのだという。峠では何ごともなかったが、下り坂でつまずいて転んだはずみに、あっと叫んだ。膝から股にかけて、真っ白な通草の口のようにサクッと切れている。たまにある話で、俗に鎌鼬が走ったという。
けが人は、山伏が担いで引き返した。
石動にある医院へ向かうことを聞いて、境は何度も見返りながら、今は蔓草のいましめも解いたであろう、あの美女がいる峠へと、ふもとの道をたどったのである。
(了)