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「三人の男の首がどろどろに溶けあってしまう『眉間尺』という話がありますが、取り憑いた男どもが、ちょうどそんなふうにからみあいながら、追い出されまいと抵抗して、乳房の下をくぐって転げていく。そいつを追いかけながら綾がさすっていると、腕のほうへそれて、また戻ってくる。みぞおちをピクリとさせながら下りていって、膝のあたりでうねうねしているころには、最初は鞠のような大きさだったのが、だんだんと小さくなり、豆粒ほどになって、足の甲でうごめいて、親指の爪からフッと抜ける。そのころにはもう、芥子粒ほどになっているのです。そして、綾の爪先につままれて消滅する。
すると貴婦人はハッと気を取り戻して、うっとりと目を開く。夢が覚めたように起きあがって、衣服の乱れもそのままの貴婦人は、綾の膝に乗りかかって、首に手をからめながら、息も絶えがちな切ない声で、
『済まないわね』
と言う。それがいつものことなのです。
綾が、どれほど病人と気を通じ合っていたかというと……。
ある日、貴婦人が痙攣をおこして人事不省なのを介抱していると、いつものように、
『来たよ』
とうめいている。
『でしょうね』と、綾が応じる。
親類のなかで従兄の関係にある、これも貴婦人に恋をしていた青年の名を綾が口にすると、
『ああ、青い幽霊』
と、貴婦人が夢中で言った。
そこへひょっこりと廊下から顔を出したのは、脱いだ帽子を手に提げて、青い夏服を着て、生白い顔をした、当のその青年だった。病室をのぞき込むなり上の会話を聞かされた彼は、真っ赤になって逃げだしたといいます。ちなみに綾はその青年とは、一度も会ったことがありませんでした。
こうなると、医者にかかるのはやめるにしても、綾は病人から手放せません。
いつまで入院をしていても、ちっとも快方に向かわないので、いったんは家に戻って静養をしようということになったとき、貴婦人の母親は、涙ながらに綾の両親に頼んだのです。
頼まれてはいやとは言えぬ職人気質で、両親は引き受けたのでしょう。綾は貴婦人の付き添いを続けることになりました。
富山に戻る道中、もしものときの用心のために男がふたり付き添って、母親と、女中と、貴婦人と綾とで、五台の人力車を連ねて倶利伽羅峠を越したのは、ちょうど十年前になる。
峠の休憩所にがらがらと車を引きこんで休んだのが、今も残っているこの一軒家だった。しかも車から出るやいなや痙攣をおこして、大勢に抱えこまれながら綾の膝に抱かれたその様子は、
『さきほどあなたが、怪しい姿で抱きあっているところを蚊帳ごしにごらんになった、母屋のあの座敷の光景と同じです』
と、貴婦人が言いましたっけ。
お坊様」
境は心を酔わせたように、話し相手に呼びかけた。
「そのとき、私は改めて、ふたりの女にこう言いました。
『まさにそのとき、その瞬間なんですよ。いままで言わずにいましたが、その日、広土間の縁先に一人腰かけて、力餅を食べていた、鳥打ち帽をかぶって、久留米絣の着物を着た学生がいました。お気づきはしなかったでしょうが……それが私です。
そして、そのときの絵のような美しさが忘れられなくって、今回のこの峠越えを思いついて、いまここにいるのです』
お坊様、そういうわけだったのです」
と、境は話を継いだ。
「これを聞いた若い女が、
『とすると、あなたが私をご覧になられたのは、そのときがはじめてですか?』
『いいえ』
と私はすぐに答えた。
『たしかな話ではありませんが、それ以前に二度あります。……一度は、金沢の籔の内というところにありますよね、城の大手前と向かいあった土塀の裏の、鍵の手形という場所。その名のとおり、竹藪のなかを石垣に沿って曲がる小路が。家もなにもないところで、狐がどうの狸がどうのとかうわさがあって、誰も通らない路です。なにかに誘われでもしたのか、私は一人で歩いていました。……そのとき、曲がり角であなたを見かけました。
春の真昼どき、暖かい霞が流れたような白い路が、藪の下をひと筋に貫いている、その二、三間先を、ひとりの娘が歩いています。衣服の様子はわかりませんでしたが、なんの織物だか緋色の帯を締めていたのを覚えている。それが結び目から長めに腰まで垂れていました。ふらふらと彼女についていきながら見送っているうちに曲がり角の先に消えて、そのままわからなくなったんです』
ふたりの女は顔を見合わせました」