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「どうにもこうにも、そこに立ってはいられません。地を這ったのか、摺ったのか、覚えていませんが、でこぼこの土間をよろよろしながら離れのほうへ引き返すと……。
まあ、なんということか。
雨戸がはずれて、月明かりが靄といっしょに差しこんでいる。長土間が折れ曲がったところで、縁側のあちらにも、こちらにも、がやがやと人影が浮かびあがって、まるで私が十年前に見たような、この休息所が繁盛していたころの、昼飯どきのありさまではありませんか。
人々はみな、入り乱れて腰を下ろしている。
私はかまわず、その前を通り抜けようとしました。
大胆だと思いますか。――なに、そんなんじゃない。度胸もへったくれもありません。ですが、こんなときはいつもやってる奥の手が私にはある。それは、あれと同じです。絶壁に丸太を並べた木曽のかけ橋を、剣術の先生は足が震えて立ちすくんだが、琵琶を背負った盲目の座頭は四つん這いになってすらすら渡りきったという、あれといっしょのこと。
おかしなことに、私はわざと胸に手を置いて寝て、怖ろしい夢を見るなんてことをやることがあります。どうせ夢だとわかっているから、ちょっとしたスリルを楽しんでみるんです。でも、夢にしたってもう耐えられないってなったら、えいっと叫んで跳ね起きる。全身冷や汗びっしょりで、波うつように動悸が激しくても、身体はちっとも別状ない。
これしかない。
いざとなったら跳ね起きればいいんだ。夢でなくって、こんなことがあるものかと、思考停止を決めこんでみたんですが。
いちばん手前に座ってた客は、くたびれた麦わら帽子が後ろ首にずり落ちそうになるくらい頭をのけぞらせて、天井をにらんで、握りこぶしをぬっと突き上げた。脚絆を巻いた旅商人ふうの男でしたが、大あくびをしているのかと見ると、ちがった! 喉からたらたらと血を流しながら、空をつかんで苦しんでいるのでした。
その隣には、百姓ふうのおやじが、仰向けにどたりと転がっています。抜き衣紋になった首もとからは、背中にザックリ穴があいているのが見える。
その痛みに、ウンウンとうなっている。
すこし離れたところに、青い洋服を着た学生ふうの、二十歳前後の青年がいて、しきりに紐のようなものを腰のまわりに巻きつけている。帯でも締めているのかと見てみたら、切り裂かれた下腹からはみだした自分のはらわたを押し戻そうとしています。だくだくと血を流しながら、ひと握りのはらわたを傷口に詰めこみましたが、ヒイッと悲鳴をあげて仰向けに土間に転がり落ちた。
落ちたところが、あごひげのある立派な紳士の上だった。ぐしゃりとひしゃげたようになった紳士は、片膝を高く上げながらうごめいていましたが、彼はもう片足を根もとから引きちぎられていました。まるで足のもげたキリギリスです。
もう、そこらじゅうが混沌で、下水からすくったヘドロを叩きつけたような血のなかに、伸びたり、縮んだり、転がりまわったりしているのが、何十人いるんだかわかりません。
いつの間にか障子がぜんぶ取りはらわれていて、茶屋全体が広間のようになっていました。そのなかで目についたのは、一面の壁のすみに朦朧と現れた、灰色の十字架です。そこにはブリッジ状に胸を突き反らせて、両腕を開いた男が吊り下げられている。そう、まるでキリストの磔刑です。
床柱があるらしい正面には、広い額の真ん中に五寸釘が突き刺さった男が、手足も顔も真っ青にして、黄色い眼をカッと見開いている。幽霊船の船長の話に出てくるやつにそっくり。
拷問の大まな板がある、白刃が光る、筏のように槍が組まれている。まるで地獄風景の展示場です。
とはいえ、抱きついてきたり、足にすがりついてきたりする奴がいるわけでもない。まだまだ、えいっと叫んで目を覚ますときじゃないと思いながら後ずさりしていくと、何かにドンと突きあたって、よろけて、投げだされたように表の草原へと出た。
『はああ』
と大きな息を吐く。全身から絞り出されたような、しかも冷たい脂汗が、手のひらをサッと濡らしました。
一軒家の前の草やぶには、清水が湧いていましたよね。
まるで日食のときのように、草のあちこちに影がさしたおぼろな月明かりのなかで、男がそこにしゃがんでいます。大柄模様の浴衣のもろ肌を脱いで、持ち上げた腕からもじゃもじゃした脇毛を見せながら、夕刻に貴婦人がそこに投げ捨てた絹のハンカチを引きのばしながら、ぐいぐいと背中を拭いている。
『君……』
と、私がかすれた声をかけると、驚いたようにぬっくりと立ち上がったが、壺のようなその身体に頭はついていなかった。
『首はないんだが、どうだい、仲良くやろうじゃないか』
野太い怒鳴り声で言われて、ハッと思ったそのとき、私は仰向けに倒れて気を失っていたのです。
やがて意識を取り戻すと、私は、あの若い女に膝枕をしていました。そして貴婦人が、私の胸をなでていました。




