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第3話

 五月は春ではないと思う。

 春というには暑すぎる。日中は二十五度を超える日もあり、庭仕事をするのは大変だった。

 

 祖父は八十歳だが暑さの中で元気に動いていた。僕の体のほうが弱いほどだった。

 春のやわらかな緑は様相を変え、力強く濃い緑の光を葉の一枚一枚から放っていた。ここまで力強い緑は人生の中で見たことがなかった。ただ僕が自然に興味を持たず今日まで過ごしていただけだろうと思われるが、それにしても目に痛いほどの緑だった。この勢いで八月にもなれば、葉は直視できないほどの光を放つのではないかと思われた。庭木に圧倒されているうちに昼時になった。作業はまったくといっていいほど進んでいなかった。


 食卓は、しんとしていた。祖父も祖母も、僕について何も言わない。

 田舎なので車も外を通らない。静かな場所で暮らしたい人にとっては理想の村なのだろう。まさしく祖父母のように老後の人生を味わうためにはいいのかもしれない。


 祖父はともかく、祖母はいろいろと言いたいことがあるのだと僕は知っている。僕のいないところで、祖父や父に愚痴をこぼしているのを知っている。しかし僕に直接言うことはあまりない。それがまた無言の圧力になっている。今も目の前の焼きそばを食べながら、その箸の立てる音、その咀嚼音、どれもが僕にたいする苦言のように聞こえてきた。焼きそばの味は何もわからない。焼きそばの上ではかつおぶしが気味悪く揺れていた。


「おかわりは? いらない?」と祖母が言った。

「いや、いい。ごちそうさまでした」と言いながら僕は早々に食卓から退散した。


 一日の中で食事の時間が一番つらかった。もともと小食なのと、引きこもりによる運動不足と、この食卓の不快さがもたらす胃のひきつりによって、ここ最近空腹を感じたことがない。


 昼食後、煙草を吸うため、二階のベランダに出た。部屋の中で吸って臭いがつくのを避けるために、いつも外で吸うことにしていた。


 ベランダは洗濯物を干せる程度のスペースと室外機がある。数枚の新聞紙を下にしいてその上に座りこんだ。インスタントコーヒーを注いだコップと煙草と灰皿を新聞紙の上に置いて、空を見る。どこへでも行けそうな快晴だった。


 一本目の煙草を吸い終わるころ、ふと左側を見ると、ベランダにクマバチがいた。床に転がっている。横向きに寝ている。

 死んでいた。首回りの黄色い毛に触れると、ふわふわと心地よかった。


 魂の重さは二十一グラムだという迷信がある。

 クマバチの魂も人間と同様に二十一グラムなのだろうか。クマバチ自体の重さが二十一グラムあるかわからないが。仮に体重が二十一グラム以下だとすれば、死んだ時点でその存在ごと消えてしまうことになるのではないか。人間も死んだ時点で存在ごと消えれば楽だなと思う。それに、そのほうが死後の世界の存在を信じられそうな気がした。


 もし肉体ごと消えて、死後の世界もあるのなら、今すぐここで死にたかった。


 クマバチの死体はベランダの外に投げ捨てた。まるで重さなどないかのように、風に流されていった。


 二本目の煙草に火をつけたところで、カラスがやってきた。ベランダの手すりにカチリととまって、こちらをちらりと見た後、向きを変えた。僕に尻を向けている。人間が怖くないようだ。五月晴れの光が羽に反射して、一瞬白いカラスに見えた。


 僕が煙を吐き出すたびに少しこちらを気にするカラス。その瞬間以外、彼はずっと僕以外の何かを見ていた。庭にいる祖父を見ているのかもしれなかった。結局、僕が一本吸い終わるまで彼はそこにいた。一度も鳴かず、去っていった。


 立ち上がり手すりにもたれかかりながら庭を見下ろすと、祖父がいた。

 昼食を食べたかりだというのにまたせっせと庭仕事に従事していた。上は白い半袖シャツ――下着に見える――下はグレーのスラックスだった。

 赤いバラの枝を切っている。素人が適切な手入れもせずに咲かせたものだから、色も鈍く数もまばらではあったが、確かに咲いていた。葉の色も悪く、灰でも被ったかのようにくすんでいた。しかし全体が調和していてそれはそれで美しかった。寒い国の古城の片隅にでも咲いていればよかった。あいにくここは兵庫の片隅にある一般家庭の庭であった。


 祖父は何を思ってバラを植え、育てているのか。聞いたことがなかった。僕に物心がついた時点でこの庭はだいたい今の状態だったように思う。今、何もせずじっと実家に閉じこもって、ときどき庭の手伝いをするからこそ改めて木や花が目に入ってきた。そうでもなければ一生ただの風景として見ていたように思う。何の価値も見出さなかったであろう。僕が小学生のころは友人宅へ転がりこんで遊んだことも多々あったが、その時に見たどの家の庭にもこれほどまで多種多様な植物はなかった。この立派な庭に囲まれた家で育った人間が、この僕なのかと考えると、祖父が哀れに思えた。

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