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第12話

 ここ数週間の食卓はある意味で平和だった。僕に関する話題が出てこなくなった。誰も「仕事は見つかったか?」と聞かない。出るのは、近所の人の話や、ニュースの話、親戚の話などで、僕以外についての話題はかわりばえしない内容であった。


 最初は僕も安心して、気楽なものだった。しかし、それがあまりに続いていると何か不自然で、今となっては逆にそれがかなりの圧力に感じられる。言わないからこそ、その輪郭が浮かび上がり、僕が何もしない日々を過ごしながらこの場所にいる異常さが際立っていく。

 咀嚼音と食器の音が饒舌に語っていた。


「お前は一体何をしている?」「何を考えているんだ?」「何がしたいんだ?」「なぜここにいる?」「お前は誰だ?」


 それらの音が雨のように僕に降り注ぐ。それは、あの曇天の荒野にも降り注ぐ。僕を囲む池は幾多の波紋を描き、さざめいていた。慟哭のようだった。

 地平線まで続く荒野はいつしか泥沼に変わっていた。池の真ん中にある岩はやはりいつもと変わらずそこにあった。岩は雨に濡れているものの、何も変わっていなかった。溶けず、壊れず、動かず、沈まず。一人ぶんの大きさを保ったまま、ただそこにあった。空を見ると、幾千の雨粒がスローモーションで落下していた。濃い灰色の雲は高く、ひたすらに高く、遠かった。


「あっ、しまったな」と祖父が声をあげた。

 湯飲みが倒れていた。こぼれたお茶が机に広がっていく。母が素早く布巾でお茶をぬぐい、無言のまま処理していた。祖母は「気をつけなさいよ」というような文句を、ぶちぶちと口元で唱えていた。二、三分ほどの中断を経て、食事が再開された。

 何ごともなかったかのように食卓は静かだった。咀嚼音と食器の音だけが響いていた。


 幻のような八月がすぎていった。寝ても起きても、うだる暑さの中で頭がぼうっとしていて、毎日毎日、気づかないうちに一日が終わっていた。起きている時間は一日のうち体感で一時間くらいだった。実際には当然そんなことはない。しかし何も認識できず何も覚えていないまま時間がぐずぐずに崩れ去っていった。


 もういいか?


 暑さと湿気が重くのしかかる深夜三時。家族は全員眠っている。僕はキッチンにいた。三本ある包丁のなかで人を刺すのに一番向いていそうな出刃包丁を選び、包丁差しから抜き取った。


 もういいだろう、と誰に聞かせるでもなく呟いた。今日、死ぬことにした。


 この頃は、すべての情報が僕を避けて通るような感覚があった。何か膜のようなものが僕のまわりにあって、その表面を上滑りしているような気がした。膜の中は静かだった。一つ気になるのは、胸のあたりが耐えがたいほどに重いことだった。そこだけ重力が何倍にも増しているような感じで、胸の底が抜けそうだった。底が抜ける前に死ぬことにした。


 包丁を逆手に持ち、柄尻に左手を添えた。刃先は心臓を狙っていた。あとは勢いよく刺せば終わる。案外冷静で、手に震えはなかった。心臓もリズムを変えず、目の前にある事態を受け入れているようだった。


 ここで死ぬ。

 死ねるのか? 本当にこれで終わる? 許されるのか?


 なんて簡単なのだろうか!

 あとはこの腕を動かせばすべてを終わらせて眠ることができる。

頭から血が引いていった。頭だけでなく、体全体から力が抜けていった。いつでも簡単に死ねるという事実が僕を癒していった。


 僕は死んだ。この後はすべて余生だと考えることにした。余生なのだから、後は好きなように生きればいいと理解した。適当に生きようと思った。もうまともな人間のふりをする必要はないのだ。どうとでもなる。


 僕はパジャマのまま家の外に出た。自転車に乗り、わけもわからないまま夜の田舎道を走った。走りに走った。街灯すらない田舎道はまっくらで、自転車のヘッドライトの範囲外は何も見えなかった。月も星もない夜だった。それでも無茶苦茶にスピードをあげた。恐ろしい風切り音を立てながら、濃厚な草の匂いが僕を飲み込んでいった。


 前方に橋が見えた。橋の欄干は赤く錆びきっていた。虫達は気が狂ったように鳴いていた。その虫達よりさらに大きな声で僕は笑っていた。顔は上手く笑顔にならずひきつっていた。僕はさらにスピードをあげた。


これにて完結です。

お読みいただき、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 緻密に描写される主人公の日常に、異様なリアリティと押し潰されるような圧迫感を感じました。 読んでいると心の其処彼処に痛みが走り、でもそれが妙に心地良く、貪るように読み進めました。 物語の中で…
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