8 ジョブチェンジ?
砂川刑事は、感情の読めない声で僕の感慨に応じた。
「守衛の役をしていた人間は、もともとスポーツジムで働いていたことがあって、多少トランポリンやスラックラインの心得があったようです。ちなみに、囚人服は、店のスタッフの仮装用として同じものが何枚も用意されていた。当初から、薬物取引に関わった人間たちは、囚人服の下に別の服を着こんで、追われて逃げることになっても、どこかで囚人服を脱ぎ捨てることで目くらましになるように計画されていたらしいです」
「そういういくつかの偶然も、幸運として作用していたというわけだな」
応接セットに座っていた僕たちからは少し離れて、デスクの向こうの所長席で話を聞いていた正条さんは、げんなりした調子で言うと、マグカップをデスクに置いて、椅子の背に寄り掛かった。
「薬物取引のほうは、関係者と証拠を押さえられたの」
こっくり甘いミルクティと大ぶりのパイでようやく気をとりなおしたらしいまみちゃんが、首をかしげて尋ねた。
「ほぼ取りこぼしはないと思います。売り手、買い手、ブツと揃えましたから」
「ブツ?」
僕がおうむ返しに問うと、砂川刑事は、ファイルに挟んでいた写真を一枚見せてくれた。僕も前の事件でまみちゃんから見せられたことのある、カラフルなラムネ菓子のような錠剤だった。
「正条さんの情報通り、こいつが絡んだ売買でした。遺体の囚人服の中に縫いこまれたポケットに入れられていましたよ。売買が成立して買い手が持っていた分もありましたが、派手な芝居に紛れ込ませて、売り切れなかった在庫もどうにか持ち出すつもりだったというわけですね」
値千金の遺体だったということになる。そりゃ、置いて行けないわけだ。
僕が複雑な顔をして黙っているのに気がついたのか、ポン介がそっと覗き込んできた。
「シランさんには、お付き合いの長い方ですよね。何か、義理のあるご関係でしたか」
「いいや」
僕としては彼の死に正直あまり感慨はもてなかった。上司としても、親切ごかしたところに最初は騙されていたけれど、働き始めてほどなく、給料の遅れが重なっても悪びれもしない様子や、店の在庫管理やフロアのトラブル対応が無責任なところがわかってきて、尊敬の「そ」の字すら感じられない相手だった。いい死に方はしなさそうだと思っていたけれど、予想以上だったな、というところだ。
それでもあの瞬間、誰だか知らない相手に心底助かってほしいと思っていたはずの自分が、顔見知りの人間の死を悼めないという皮肉な事実には、どこか、心底の深い層で傷つくものがあった。
僕がそんな説明をぼそぼそとすると、ポン介は口をきゅっと結んで首を横に振った。
「シランさんは、あの薬で人生を狂わされて、死ぬまで踊らされたかもしれない何人もの人と、その人が道を踏み外したら胸が破れるほど悲しい思いをする何十人もの人を助けたんです。人命救助です。あの店長はこの薬が何なのか知っていた。そしてそれを売って、たくさんの金を手にして笑っていた。それだけでもう、僕は、あれは人間を辞めたのだと判断しました。僕たちが守るべき相手じゃない。戦うべき相手です。僕はあれが死んだって、自業自得だとしか思わない」
砂川刑事は、無表情な口元をほんの少しだけ歪めて、ポンとひとつ彼の肩を叩いた。それから、淡々とした口調で先を続けた。
「ただ、やはり、上にはつながりませんでした。このラムネを卸して、売り上げの大半を上納させていた元締めがいるはずなんです。そういう連中は、末端の取引の場面には簡単には近づかない。地道に手がかりを追っていくしかありません」
また何か、情報があればよろしく、と言いおいて、砂川刑事は帰っていった。
「あー、砂川さん、お茶だけ飲んで、パイには手をつけなかった。もう、嫌味なんだから」
まみちゃんは、湯呑を片付けながらふくれっ面になった。四人だけになった部屋で気が緩んだのか、そのツインテールの横にはもふもふの耳がぴょこんと立っている。
「いや、公務員として、ましてや捜査官として、饗応は受けない主義らしいぞ。礼儀として、信用のできる場所では水や茶までは飲むことにしていると言っていた」
応接セットのソファに移動して、だらしなく背もたれに寝そべるように寄り掛かった親父さんが、頬のあたりをぽりぽりと掻きながらフォローした。
「パイには裏心も罪もないのに、失礼しちゃう。もったいないから食べちゃおうっと」
皿に手を伸ばしたまみちゃんを見て、僕とポン介はこっそり目を見合わせた。ここで何かを言うほど、二人とも野暮ではない。ポン介の少し癖のある長めの髪の陰、こめかみの横辺りにも、控えめに伏せられた茶色の耳がちらっと見えていた。こちらは気がゆるんだというより、もともと化けるのがまみちゃんよりちょっと下手なのかもしれない。
「色々分かって、すっきりしました。よかったです。僕もこれでお暇させていただきます」
立ち上がりかけた僕の手を、満面の笑顔の親父さんががっしり掴んだ。
「いやいやいや。シラン君、パイ食べたよね。ル・カッコウ、いいお店だよ」
首都圏の大きな駅に幾つも出店しているチェーンのサツマイモスイーツ専門店だ。手土産にできる格式はあるけれど、まあまあ庶民的な店である。
「まみ特製のミルクティも飲んだだろう。舶来のいい茶葉をつかっているんじゃなかったか」
「んー、印日商事の新発売、リパトンキャラメルアッサムティーだよ。テレビで最近、星川針哉がコマーシャルしてるの。ほら、執事服でティーポット持って、お嬢様、いかがですかって言うのあるじゃん。駅向こうの『スーパーカネミツ』で特売してたから買っちゃった。二パックで、星川君のイケメン執事姿のクリアファイルがもらえるんだもん」
まみちゃんは頬を人差し指で押さえながらにこにこして言った。印日商事のリパトンと言えば、国内トップシェアの庶民的なブランドだ。っていうか、親父さんは『舶来』なんてめかしこんだ言葉を使うけれど、紅茶なら、国産より輸入物のほうがリーズナブルなものを探せるに決まっている。
だが、親父さんはそんな発言のほとんどをまるっと無視して、自分に都合のいいところだけ拾って言った。
「ほら、舶来の茶葉だった。アッサムって、インドだったかな。そんなわけで、君は砂川刑事と違って、受けちゃっただろう、饗応。この探偵事務所に、一宿一飯ならぬ、一杯一皿の恩義があるよね。経理担当が見つからなくて困ってたんだ。あと、この子たちが抜けている人間界の常識をフォローしてくれるスタッフ。事情が分かってて、しっかりしてる君ならちょうどいいと思ってたんだよなあ」
「いやあの、今のバイトに朝から晩まで週六で入ってるんで。なんなら、今度、甘いものとリパトンの紅茶、差し入れしますよ」
恩義を振りかざして提案される仕事に、ろくな案件はない。僕は当たり障りのないことを言って逃げようとしたが、敵は一枚上手だった。
「そんなのいいからさ、住み込みでバイトしない? シランくんの今のバイトって、農協の集荷センターだろ。収穫された米を袋詰めにして、フォークリフト用のパレットに積み下ろししたりするやつ。あんなの、最後の片付けや機械のメンテナンスまで手伝ったって、もうそろそろ終わっちゃうよね。そしたら、今のウィークリーマンションに住んでる理由もなくなるじゃないか。もちろん、農協さんだって、このシーズン最後の最後で当てにしていたシラン君に抜けられたら困るだろうから、きりのいいところまでは待ってあげてもいいんだよ」
「ええと、その」
何でそんな細かい事情まで知っているんだろう。そんな僕の内心を見透かしたように、親父さんはにやっと笑った。
「こちらも探偵なんでね。うちのかわいい娘が関わり合いになった男は調べさせてもらってる。次のバイト、すぐに見つかるとは限らないよなあ。ああ、それに、吉祥寺の店の一件と、今回の渋谷の件で、君も向こうの組織に目をつけられてるかもしれない。危ない目に遭いそうなときも、この事務所にいれば、味方が多いよね」
「なんというか、徹底的に足元見てきますね」
そもそも、吉祥寺の件はともかく、今回巻き込まれたのはまみちゃんに呼ばれたからなのだ。当初は、物陰から顔の確認だけさせるつもりだったらしいのだが、結果的に大立ち回りの現場にばっちりお付き合いすることになってしまったのは、さすがに僕の責任ではない。
ただ、千葉の郊外にある農協は楽しい職場だったけれど、親父さんの言う通り、あと数日で契約期間は終わってしまう。出荷最盛期の短期雇用なのだ。次のバイトは決まっていなかった。
ライブハウスを辞めたとき、今度こそ、バイトは打算ではなく直観で選ぼうと思っていた。
僕は内心、腹をくくりつつ、おやじさんにはそれを気取られないように気のない振りを装って尋ねた。タヌキ相手に化かし合いを挑むなんて無謀かもしれないけれど、こちらにもなけなしのプライドはある。
「肝心の時給や勤務時間の話もなしに、簡単にはうなずけませんよ。僕としてはここでなくても仕事は探せるんです。今回の一件で危険な目にあったのはそちらのせいなんですから、多少色を付けた提案をしてくださる気はあるんでしょうか――」
◇
こうして、僕は図らずも、まみちゃんたちの仕事に、どっぷり首までおつきあいすることになったのである。