7 タヌキ親父の探偵事務所
数日後、僕は郊外の小さな私鉄の駅に降り立った。改札を抜けると、ごちゃごちゃと低い建物がひしめき合う間を、がっちりコンクリートで護岸された細い川が流れているのが見えた。
スマホの地図アプリで確認すると、目的地は川に沿って延びる商店街の中にあるようだった。
そのビルはほどなく見つかった。吹き付け塗装が年月で黒ずみ、あちこちにひび割れが入った、年代物の小さなビルの二階が指定された場所だ。営業しているのかどうかもよくわからない一階の文具店の隣から、薄暗い階段を上がる。
『正条探偵事務所』と、手書きで書かれたプレートが、ドアの枠にはめ込まれていた。
「あの、栗田です。まみちゃんに呼ばれて来たんですけど」
インターホンを押して名乗ると、スピーカー越しに「どうぞ、開いてるから」とぶっきらぼうな声が応じる。
ドアを開けると、廊下の薄暗さに慣れた目にはまぶしいほど明るい小部屋だった。商店街の通りの側に面した壁が、一面、腰高窓になっていて、晩秋の午後のはちみつ色の光がたっぷり差し込んでいる。会議室にあるような無表情で簡素な椅子がいくつか、壁に沿って並べられているだけの、殺風景なインテリアだ。
「ああ、こっち、入って」
左手の壁にあったドアを開けてひょいと顔を出し、手招きしたのは、あの夜出会った『親父さん』だった。入ってすぐの小部屋は待合室、親父さんが顔を出した部屋が面談室、兼、執務室ということらしい。
通された先は待合室よりやや広い部屋だった。古びたファイルキャビネットや、すりきれかったびろうど張りのソファとガラス天板のテーブルが組み合わせられた、どこか懐かしいデザインの応接セット、ネズミ色のスチールデスクが効率よく配置されている。
端的に言うと、昔ながらの小学校にありがちな校長室のような部屋である。
「ええと」
呼びかけようとして、親父さんの名前を知らないことに気がついた。
「正条さん、というのは、あなたの苗字なんですか?」
少し改まって尋ねた僕に、親父さんはばつが悪そうにデスクの引き出しをひっかきまわすと、角がすこしヨレた名刺をさしだした。
「こういう名前でやってるんだ」
『正条探偵事務所
所長 正条 至』
「しょうじょういたる……。え? タヌキ親父が名乗る名前が『しょうじょうじ』ってダジャレですか」
僕が名刺と親父さんの顔を見比べると、親父さんはひょろりとやせた肩を縮めるようにして僕を見返した。
「まみが言うこと、本当に信じたのか? 私の正体も気づいているってことだね?」
「ええと、信じたって、まみちゃんがタヌキ一族の美少女魔法戦士だってことを?」
まみちゃんの秘密。吉祥寺のライブハウスの事件を解決した時、悪いやつらと戦う、正義の戦士なのだ、と自分で言っていた。それから、ほっとしたらしい瞬間にぴょこんとツインテールの陰から出てきたもふもふの耳と、ふわふわのスカートを揺らしていたふさふさのしっぽ。あの日のことは夢だったのかな、と思うこともあったけれど、昨夜も尋常ならざる運動能力を見せたり、ホウキで空を飛んだりと色々と不思議なことをしていたまみちゃんを見れば、信じるしかない。
「ポン介くんが言ってました。あなたがまみちゃんとポン介くんの養い親なんですよね? まみちゃんの名前の由来はカレンダーガールのキャラクターの『まみ』かなって最初は思いましたけど、『狸』でもあるんでしょう。ポン介くんなんか、もうそのまんま絵本の狸みたいな名前だし。だから、正条さんも、一族の方なのかと」
「ご明察。ここに拠点を構えるときに人間社会で使う偽名を決めたんだ。苗字を『証城寺』か『田貫』にしようと思ったんだけど、娘のアタシもその苗字を名乗るんだから! って、まみに全力で嫌がられてね」
「あー、わかります」
『正条まみ』だったらギリギリ普通だ。可愛い名前ですね、で通る。けれど、さすがに『証城寺まみ』ではタヌキの気配がぷんぷんする。『田貫』は論外だろう。
「今日は、まみちゃんとポン介くんは?」
「ああ、もうすぐ着くころだ。あの子たちは若いから、パワーはあるんだけどコントロールが下手な分、消耗が早い。あの日はだいぶエネルギーを使ってしまったから、すこし山で回復させないと変身が維持できないんで、一度妻のところに帰らせて療養させていたんだ」
親父さんが言い終わるか言い終わらないかのうちに、入り口の方からどやどやとにぎやかな声が聞こえてきた。
「もう、信じらんない。せっかくみんなで食べようと思って、『ル・カッコウ』のアップルスイートポテトパイ、一番大きいのを買ったのに、ポン介ったら、持ったまま転ぶ?」
「うう、すみません……」
「砂川刑事もなんか言ってやってよ。期間限定の紫芋バージョンだったのに! 来週からクリスマスバージョンになるから、買えなくなるんだよ!」
「興味ないんで。摂取できるカロリーは変わりませんよ」
「うっそ。うら若い女子の前でカロリーとか言っちゃう? アタシが太ったって言いたいの? 確かに山のお母さんのごはんおいしいけど! きいー!」
「まみさん、砂川さんそこまで言ってません。自爆してますって」
「――――っ! 何よ、ポン介のくせに生意気だー!」
僕は開けたままにしていた待合室と執務室の間のドアから顔をのぞかせた。
「まみちゃん、ポン介くん、お邪魔してます」
「あ! シランさんもう来てたんだ! え、どこから聞いてた? どこから?」
まみちゃんが真っ赤になって大慌てしている図はちょっとめずらしい。今日は白黒の大胆な太いストライプのショート丈のジャケットに、同じ生地でできている、いつもどおり開いた傘みたいにふわっと広がったひざ丈のスカート、黒のタイツ。スカートを膨らませているフューシャピンクのチュールパニエは、あえてスカートの裾からちらっと見える丈を選んでいるらしい。
「ええと、期間限定の紫芋バージョンのアップルスイートポテトパイ、僕もお相伴にあずかれるの? 切るなら手伝おうか?」
「ほとんど全部じゃん! 信じらんない! サイテー!」
まみちゃんは平たい紙箱を抱えて、足音も荒々しく、キッチンらしい暖簾の向こうに駆けこんでいった。ざあざあと水を流す音、やかんをコンロに乱暴にかけたらしい、がつん、という音が聞こえる。
ポン介はだぶだぶのベージュのパーカーに顎をうずめるようにしてしょんぼりと意気消沈していたけれど、僕が覗き込むと、えへへ、とばつが悪そうに笑った。
「また、まみさんを怒らせちゃいました。後で謝らないと」
うん。僕が聞いている限り、ポン介がやらかしたのはお菓子を抱えたまま転んだことだけで、後は完全にまみちゃんの自爆だと思うけれど、そこで素直に謝れるこの子はすごくいい子だと思う。
「まみ、お茶淹れてくれるなら、私と砂川さんはいつもの緑茶にしてくれ」
無神経な陽気さで、正条さんはキッチンに声を掛けた。
「わかってるよ! ポン介とシランさんはアタシと一緒でいいよね!」
ふてくされたような声が返ってくる。
数分後、ふくれっつらのまみちゃんが僕とポン介の前に置いてくれたキャラメルミルクティは、スプーンを入れてかき混ぜると、溶け残った砂糖がざりざりと音を立てる、地獄のような代物だった。僕は何も加えていないのだが、まみちゃんによって、これでもか、という量の砂糖があらかじめ投入されていたのだ。けして嫌がらせではなく、まみちゃんの好みらしい。僕は、二度とまみちゃんにおまかせという手段はとるまい、と内心、強く誓った。
ポン介はデニムのひざをきちんと揃えてソファに座り、平然とした顔でカップを口に運んでいた。まみちゃんの向こうを張れるレベルの甘党なのか、頼んだものに不満を見せない武士の心得なのか。いずれにせよ、意外な器の大きさに、僕はまたちょっとだけポン介を見直した。
◇
「まみさんがあの場で説明してくれたことは、確保したミイラ男と守衛のふりをした男、偽救急車の運転手の証言で、ほぼ裏付けが取れました」
まみちゃんが淹れてくれたお茶で喉を潤してから、砂川刑事は捜査メモらしいルーズリーフのバインダーを片手に、無感動な調子で説明してくれた。ドラマみたいに、警察手帳にメモを取るわけじゃないらしい。
流警部の指示で、その後のいきさつを説明しに来てくれたのだという。山から帰ってきたまみちゃんとポン介には、ビルの下でばったり出くわしたらしい。
「本来、あのクラブの店長は、死んだ男が務めていたらしいです。前職のライブハウスの店長の経験を買われたんでしょうね。ところが、あの日の午後、パーティーが始まる少し前に、その日の段取りや報酬の受け取りの手順を話し合っているときに、もめごとがあったらしい」
「もめごと?」
僕が尋ねると、砂川刑事は軽く肩をすくめた。
「死んだ男が欲を出したのに、組織の先輩である守衛のふりをしていた男と、ミイラ男が諫めようとしてもみあいになったと。けれど、取引を土壇場でキャンセルするわけにもいかないので、店長の役割を、守衛姿の男が代行していたらしい。……まあ、生き残っている奴らはそう言っていますが、真相は藪の中です」
確かに、片方が死んでしまっている以上、実際にどんなやり取りがあったのかを知ることは難しい。
「店長は階段を踏み外して転落し、打ち所が悪く死んでしまったんだそうです。彼らが自供した現場から、血痕を拭き取った後も検出されています。予定外の死体に、ミイラ男と守衛は焦った。とにかく、捨てる前の梱包資材を一時的に置いておく屋上の一角、段ボールの陰に死体を隠したそうなんですが、そこで、普段からビルの従業員が休憩時間に遊んでいたスラックラインのロープを見て、まみさんの言っていたとおりの計画を思いついたんだそうです。下の群衆を証人に仕立て上げれば、転落した人物と担架で運ばれてきた人物のすり替えを気取らせずに救急車まで運ぶことができるだろう、と、とっさに考えたようですね」
「そんな発想ができるのも、すごいですね」
一歩間違えれば、大けがをするか、打ち所が悪ければ実際に死にかねない。僕だったら足がすくんでしまってできないと思う。