6 論理の綱渡り
「えっ」
僕はぽかんと口をあけた。
「だって、あの落ちた人は、大けがをしてそこで死んでるんじゃ」
「ついさっき落ちて死んだ人が、担架に乗せても手足がぐったり垂れず、ピーンとしてるくらい、死後硬直が進んでるわけないじゃん。シランさん、推理ドラマとか見ないの?」
まみちゃんは呆れたように口角を下げた。
「そもそも、出血した痕跡だってない。あっちのビルからここまで落ちて、手足が骨折した挙げ句打ち所が悪くて死ぬような変な着地をしたなら、血痕の一つや二つあってもおかしくないでしょ。でも、そんなものは見当たらなかった。となれば、あそこに今寝っ転がっている死体は、ついさっき屋上から落ちたものではない。じゃあ、屋上から飛び降りた人物はどうなったのか?」
「十メートル近くあるよ」
「でも、彼は逃げる気満々で、死ぬつもりはなかったの。だから、飛び降りたんだよ」
「待って、落ちたんじゃないの?」
「違う。助かる公算があった」
「どういうこと?」
「スラックラインって、知ってる?」
だしぬけに聞かれて、一瞬考えた。その名前に聞き覚えがあった。動画サイトで見たことがある。割と新しいスポーツのはずだ。
「綱渡りみたいなもの? 荷造りひもみたいな、ぴんと張った平べったいテープの上で、歩いたりジャンプしたり」
「そう。ここに紐があるでしょ、ほら、これ。これがその道具」
まみちゃんは、足元に転がっていた、工場や物流センターで、リフトを使って荷物を釣り上げるときに使うような、丈夫そうな平紐を拾い上げた。幅7センチくらいだろうか。そういえば、隣のビルから見下ろしたときにも、この紐はここに転がっていた。
「おそらく、このビルに勤めている人が普段から遊んでいたんじゃないかな。スラックラインは、専用の器具でピンと張ると、細いけれどかなりしなやかで強い足場になる。トランポリンみたいにたわんで、衝撃を受け止めてくれるから、上級者なら、しなりの反動を利用して、高いジャンプからの宙がえり技を決めることだってできる」
僕はうなずいた。確かに、そんな動画を見たことがあった。
「たぶん、隣のビルから落下した人物は、張ってあったスラックライン用の紐、これをラインって言うんだけど、それを使って落下の衝撃を殺して、安全に床に降り立った。その上で、急いで張ってあったラインを外して床に投げ出したってわけ。知らない人が見ればただの荷造りひもだからね」
「そんな簡単に外せるものなのか? その人間が落ちてから、まみとシランくんが上がってくるまで、五分もかかってないだろう」
親父さんが首をかしげると、まみちゃんは屋上のすみを指さした。
「専用のクリップが、その段ボールのかげに落ちてたよ。あれを使えば、外す方はレバーをがこんと外すだけだから、クリップをラインから取り外して物陰に押し込んだって、急げば二分くらいでできるでしょ。あっちとこっちの柵の上に、紐がこすれたような跡もあるよ」
まみちゃんは、屋上をぐるっと囲む頑丈な鉄柵を指さした。手近な方に近寄って、僕と警部と親父さんが確認すると、確かに、身長より少し高いくらいの柵の上部に真新しいこすれたような傷があった。
「普通は、上級者が練習するときは150センチメートルくらいの高さに張って、下にマットを置くんだって。ジャンプ技とかは、低すぎると下についちゃってかえって危ないからね。だけど、ここではマットもないし、普段はひざくらいの高さで上を軽く歩いて遊ぶ程度だったんだと思う。ほら、この下のところと向こうに、柱が傷つかないようにプロテクタがしてあるでしょ」
確かに、柱にクッション材のようなものが巻きつけてある。
「ラインを一旦はずして柵の上を通してから、もう一度この位置でクリップを使ってラインを固定した。ラインの上で宙返りや着地みたいな華やかな技を決めるつもりじゃなければ、上から落ちてくる時だって、そんなに精度は必要ないからね。この、床から二メートルの位置で上手くラインを使って勢いを殺して、怪我せず着地することができたんでしょう。空っぽの段ボールを組み立てて幾つも置いてあったのは、もしも失敗したときのためのクッションがわりってわけ」
「そうやって着地したとして、その後は?」
渋面で、警部が先を促した。まみちゃんは、警部の不機嫌そうな様子には無頓着に、小首をかしげて続けた。
「それから、飛び降りた男は囚人服を脱いで、守衛服姿になった。下に着こんでたんだよ。量販店で沢山売られてた囚人服だよね、あれ。脱いだ方の服は探せばその辺の段ボールの中にでも隠してあるかもしれないよ。それから隠してあった囚人服姿の死体を、さもたった今落ちてきた人みたいに見せかけてここに放り出して、それから目撃者、兼、運搬人になる人たちを下から連れてきた。あたしとシランさんが見たのは、その一連の動作の、最後の部分だったってわけ」
この辺はアタシの想像だけど、とまみちゃんは腕を組んだ。
「多分、そこに亡くなっている人は、手違いで亡くなったんじゃないかと思う。こんな日にわざわざ計画して殺すなんて、不便しかないもんね。それで、とっさに遺体をこの屋上に隠していたんだ。でも、がさ入れがわかって、急遽逃げなきゃいけなくなった。遺体をこのまま置いて行くのはまずい。自分たちも逃げなくちゃいけない。でも外は人混みで、遺体を運び出したら目立ちすぎる。そこで、とっさに身の回りで手に入るものを活かして、派手な一芝居をうったってわけ」
「一芝居?」
「飛び降りに見せかけて、隣のビルに飛び移る。それから、守衛のふりをして、けが人に見せかけた遺体を運び下ろす。実際に死んでいたって、虫の息かもしれない、助かるかもしれないからとにかく救急車に、と言えば、周りは協力するでしょ。救急車を呼んだと思わせておいて、やってくるのは、薬物シンジケートが用意した偽の救急車。そこで、遺体とそれを運んでいた一味の人間を回収して、どこかへ逃げるつもりだったってわけ。目立ちすぎる救急車は、ここを離れた後でゆっくり乗り換えればいい」
「あのミイラ男は?」
「サクラだよ。運搬に呼び集めた一般の人たちを、さりげなく思惑どおりに動いてくれるよう誘導するために、事情のわかってる犯人グループの人間が知らん顔してまぎれこんだってわけ。下で見張っていた、一味の連絡係だと思う。偽の救急車の手配ができたことを、屋上の人物に合図して知らせる役割。落下のタイミングで、野次馬が本物の救急車を呼んじゃう可能性もあったわけでしょ。それよりも確実に早く、偽の救急車が現場に到着する必要があった。その合図で、転落の芝居に最後のゴーサインがでたんだと思う」
「でも、合図って?」
「シランさん、本気で言ってるの。見てたでしょ、レーザーポインター。あれが合図だよ。あんなところで大芝居を打ってるのに、スマホを取り出すわけには行かないじゃん」
呆れた調子でまみちゃんが言う。
「悪意あるいたずらじゃなかったんだ」
「その可能性もなくはなかったけどね、多分、違うと思う。落ち方が芝居がかってたもん」
「あーはいはい。僕はセンス悪いから気がつかなかったよ」
僕は肩をすくめた。
「シランさん、本気で心配しちゃってたもんね。まあ、それがシランさんのいいとこだけど」
「それで、そもそも、なんで僕が呼ばれたの?」
「シランさんの前のバイト先。吉祥寺のライブハウスで、以前、薬物関連の騒ぎがあったでしょ」
「うん」
僕がまみちゃんと知り合った事件だ。事件のすぐあと、僕は店を辞めた。辞めてからも連絡を取り合いたいと思うほど親しい人間もいなかったし、興味もなかったので、その後どうなったかはさっぱり知らなかった。
「あの後すぐ経営者が売りに出して、居抜きで買い取った人が続けてたんだけど、やっぱりほどなく閉店してね。シランさんがいたときから勤め続けてた、雇われ店長の行方が分からなくなってたんだ。以前から売人と接触があったらしいこと、便宜をはかっていたことは突き止めてたから、どうやら、一味の人間だったんだろうって思ってたんだけど、今回の一件で、そいつがまた関わっている可能性が出てきたの。でも、顔をちゃんと知っている人間がいなかったんだよね。アタシも暗い店内で一、二度見ただけだから、およその体格くらいしかわかんなかったし。だから、シランさんに確かめてもらいたかったの。まさかこんな形になるとは思わなかったけど」
まみちゃんは、運んできた遺体を示した。
「守衛もミイラ男も違った。だから、この人なんじゃないかなって。どうかな」
言われてようやく、僕はまじまじとその顔を見て、息をのんだ。
ハロウィンパーティーに溶け込みつつ人相を分かりにくくするためか、目の回りには隈取りのような濃いメイクが施されていたけれど、それは、紛れもなく、かつての上司の顔だった。