3 レビテーション
眼下の落下現場では、救出劇が始まっているようだった。階下から、担架のようなものを持って、先ほどの守衛が戻ってくる。数人の仮装の人物も一緒だった。
包帯で顔をぐるぐる巻きにした男。額の中央にお札のようなものを貼り付け、青黒くメイクした女は、キョンシーのつもりだろうか。小柄で細身の、ドラキュラ風のタキシードの少年は、高校生くらいに見える。
やや興奮気味に声を掛け合っている様子を見る限り、仮装の人間たちは、けが人を下に運び下ろすためにその場で協力を頼まれた、お互いに面識もないような、通りすがりの人々のようだった。
担架のうえに乗せられても、囚人服の人物は不自然に手足が曲がった姿勢のまま、ピクリともしなかった。状況はかなり深刻そうに見えた。
「やっぱり。まずいな」
まみちゃんもそう言うと顔をしかめた。
「まみちゃん、どういうこと? 人命救助って、あっちを手伝わなくてよかったのか」
僕は下を指さした。
「うん。その方が良かったかも――いや、やっぱり、あっちは一旦任せないとダメか」
まみちゃんは不可解なことを言って、柵にしがみついた。
よく通る大声をあげる。
「おーい! そこの人たち、ケガ人を運ぶんなら、周りの人に頼んで、警察に誘導してもらいなよ! 向こうの交差点で、制服警官が交通誘導してる。早く、他の人に声を掛けて伝えてもらって!」
ドラキュラ少年が、おどおどとこちらを見上げてうなずいた。ひどいけがを目の当たりにしたせいか、こわばった表情にもみえた。守衛は無愛想にちらっとこちらに視線をやって、かすかに会釈しただけだった。
ばん、と、背後で大きな音がした。
「どこから入ってきた!」
大声に僕は息を飲んだ。
振り返ると、チャコールグレーのくたびれた背広の中年男が、肩で息をしながら、屋上の一角に突き出た小屋のような場所のドア枠に身体を預けるようにしてこちらを見ていた。
音はこのひょろりとしたやせ形の男が乱暴にドアを開けたときのものだったらしい。その背後に階段がちらっと見えた。階段室の屋上出口というわけか。
『人命救助』なんて言い訳が通用しそうな状況ではなかったけれど、僕は一応釈明を試みた。
「そっちの非常階段から。下から見てたんだけど、ここから人が落ちたんだ。隣のビルの屋上に」
「何、逃がしたのか! まみ!」
え、知り合い?
男は僕のとなりで肩をすくめるまみちゃんに詰め寄ろうとしたけれど、彼女は飄々とその横をすり抜けて、階段の下を指さした。
「親父さん、こっちから逃げたのはアイツ一人だけ。ポン介を貼りつけたから、ひとまず見失う心配はないよ。それより他を押さえないと。誰か階下にいるの? まさかとは思うけど、身投げ騒ぎにつられて、警部、現場放棄してないでしょうね」
あまりに説明不足の言い草に、僕は呆気にとられた。何が起こっているんだ。まみちゃんはここで何をしていて、この中年男は誰で、僕は何に巻き込まれているんだろう。
「アイツが本命だったんだよ。警部はとりあえず、バックヤードから逃げ出そうとした接触相手を複数人押さえて、職務質問している。オレは追ってきたんだが、アイツがこのドアを外から封鎖したもんだから手間取って――」
「手間取って、結果、逃げられたわけ。アタシは下にいたんだよ。こっちの担当は親父さんと警部だったんだから、逃がしたのか、なんてアタシを怒鳴らないでほしいな」
ぷくっとふくれっ面をして、まみちゃんは続けた。
「とりあえず隣のビルはポン介に任せて、建物の隙間を利用するか、非常階段で逃げ出した可能性を検証するために下から上がってきたんだよ。ほめてもらってもいい判断だと思うけど」
「今はそんな話をしている場合じゃない、あいつを追わないと」
まみちゃんに『親父さん』と呼ばれた中年男は、柵をつかんで下を見た。
「飛び降りた人ですか? 息があるかも怪しいですよ。確実に骨折はしていたと思う。担架に乗せられても、手足が変な風に曲がったままだったし、痛がってうめくような様子すらなかったから、完全に意識もないと思う」
僕は気分が悪くなりながら説明したが、まみちゃんは首を振った。
「大丈夫。ここから見たらはっきりわかった。親父さん、警部に電話して。本命は外だ。砂川刑事が、交通整理しているふりで路地の入り口を押さえてたよね。警官のブルーの制服はカモフラージュなんでしょ。担架にけが人をのせて守衛がやってきたら、その守衛を捕まえてって、砂川刑事に伝えて。けが人なんかいない。担架の上の人間は、もうこれ以上ないくらいきっぱり死んでるから、とりあえず放っておいても文句は出ないはず。必要ならポン介が協力する。救急車は偽物だから、乗せちゃいけない。救急車の中に乗っている、偽救急隊員も押さえて」
「ポン介だけ? 大丈夫かよ」
毒づきながら、『親父さん』はスマホを取り出した。まみちゃんの発言には、知らない人の名前がポンポン登場して、僕にはもうさっぱりついていけなかったけれど、彼女が急いでいることだけはその早口でよくわかった。
「流警部? そこ、部下に任せられるか。ホンボシが逃げた。まみが言うには、担架にけが人を乗せて、救急車に向かって誘導している守衛を砂川さんが押さえろって。こっちからはポン介がついてる」
スマホの向こうから、噛みつくような怒鳴り声が聞こえたが、『親父さん』は無視して電話を切った。
「まみ、こっからどうする」
「とはいえ、ポン介と砂川刑事だけじゃ頼りないよね。状況が共有できたから、アタシとシランさんはもう外の集団の方を追う。できるだけ外に人を割いてって警部に伝えて」
まみちゃんは、ポケットからキーホルダーの金具がついたホウキのミニチュアを取り出した。
「おい、まみ。目立つようなことはするな」
『親父さん』はうろたえたようにまみちゃんに向かって手を伸ばしかけたが、まみちゃんのほうが一瞬早かった。
目を閉じ、呪文のようなものを詠唱し始める。
「月日は巡り、暦は廻る。地球は周り、銀河は回る。その流れにさおさす悪者は、お天道様とお月様が許しても、この、魔法戦士カレンダーガールが許さない! 浮遊っ!」
まみちゃんの呪文に呼応するように、その手のひらの中の小さなホウキが青白く光った。ぶわっとつむじ風のような気流を巻き起こしながら、ホウキはぐんぐんと大きくなり、目の高さに浮かんだ。その呪文には、妙に耳なじみがあった。
まみちゃんはひらりとホウキの柄をつかんでまたがった。
その姿に、僕の記憶の扉が開く。
僕も子どもの頃、妹と一緒に夢中で見たアニメ、『魔法戦士カレンダーガール』の決め台詞だ。ホウキに乗って飛行する技、レビテーションは、戦士マリアローザの得意スキルだった。
『親父さん』は頭を抱えた。
「頼むぞ、まみ。ニュース沙汰にだけはならんでくれよ」
「大丈夫だよ、ハロウィンの渋谷だもん。どっきりでした、って言えばみんな納得するよ」
「ホウキで空飛んで、そんなわけあるかい!」
僕のツッコミに、まみちゃんは呆れたように左手を振った。
「じゃあ、これでいいでしょ」
次の瞬間、僕とまみちゃんの顔には、お揃いの黒い覆面のようなものが巻き付いていた。目のところはメッシュになっていて、辺りを見るのには支障がない。
「誰だかわからなかったらいいわけじゃん。魔法戦士、仮面ダーガール参上! シランさんは仮面ダーマンね」
「だじゃれかよ」
今度こそ僕のツッコミを無視して、まみちゃんは僕の二の腕を引っ張ると、ふわり、と宙に浮き上がった。
「いくよ! いち、にい、さん!」
掛け声とともに、彼女は僕の腕をつかんだまま、軽やかに屋上の柵を飛び越えた。















