2 階段を駆け上がる
僕は呆然と立ち尽くした。
まさか。
本当に、落ちるなんて。
命まで落してはいないだろうか。そうだといい。
「救急車!」
誰かが叫ぶ。
三階建てのビルの裏口らしき扉をがんがんと叩いている者もいる。守衛室があるのかもしれない。
「人が落ちた! 確認してくれ! 救助しないと」
「警察と消防に連絡!」
ようやく、我に返ったように、声を掛け合って行動を起こそうとしている者たちがいる。
その一方で、泣きそうな情けない声も聞こえた。さっきまでヤジをとばしていた特撮ヒーロー姿の男が、真っ青になって誰かに電話している。
「そうなんだよ、目の前で落ちてさ、おれトラウマになりそう」
こんなときまで自分の心配をする人間もいるのか。
ふいに、後ろから腕をつかまれた。
「シランさん」
その名前で僕を呼ぶ人物には、一人しか心当たりがない。まさにこの声。
「まみちゃん、どこ行ってたの」
「こっちのセリフだよ。いい大人が迷子?」
オレンジブラウンのふわふわの巻き毛を揺らしながら、アニメ声優のように愛くるしい声で、僕の連れ――まみちゃんは毒づいた。
「こっち。早く来て」
そのまま、ぐいぐいと僕を引っ張る。
彼女は人混みを歩くのがめっぽううまい。今度こそはぐれないように、僕は何度もぶつかった相手に謝りながら、彼女を追って早足で歩いた。
「今、落ちた人がいるんだ」
「知ってる」
まみちゃんはこともなげにうなずいた。
「動きがあるだろうとは思ってたけど、こういうことになるとはね。野次馬がどんどん増えてきてる。そのうち、身動き取れなくなるよ。早く離れないと」
だが、彼女は人の波に逆らわなかった。たった今、人が落ちたビルの方向へずんずんと進んでいる。
「離れないとって、大通りに出るなら逆じゃ――」
「いや、出てどうすんの。アタシがここに来た目的はこのビルだって」
古びたタイル貼りの壁にへばりつくようにして、まみちゃんは二つのビルの細い隙間に身体を滑り込ませた。周囲の人々は、落ちた人物を案じてか、単に好奇心にかられてか、落下地点の三階建てのビルにばかり注意が向かっている。
隙間を少し歩くと、非常階段があった。出入口は施錠されている。
「ちょっと待ってね」
まみちゃんは左右をちらっと見た。誰も見ていない。
「いち、にい、さん!」
軽くひざを曲げて力を溜めると、まみちゃんは助走もなしにひらりと跳びあがった。非常階段を囲んでいる、二メートルほどのスチール柵の上に軽く手をついて、足音もなく軽やかに、内側に着地した。
「内側からは簡単に開けられないと、避難できないってものよね」
ドアを操作して、あっという間に開けてくれる。
「ほら、早く入って」
「まみちゃん、これって、不法侵入って言うんじゃ」
「人命救助。つべこべ言わない!」
独特のアニメボイスで怒られると、従わざるを得ない気持ちになってしまう。
「ほら、カギ閉めといて。いくよ」
まみちゃんは非常階段を駆け上がり始めた。
まさか、これ、屋上まで上がるのか。
人命救助なら、なぜ、三階建てのビルじゃなくてこっちなんだろう、という疑問をぶつけようにも、彼女は踊り場一つ半分くらい、もう先行している。僕は仕方なく、走って彼女を追いかけた。
◇
まみちゃんのことを、僕――栗田岳彦、二十五歳――はほとんど知らない。
見た目は僕より少し年下の二十歳前後。ハロウィンだろうが普通の日だろうが関係なく、ふわふわの明るい茶色の髪をツインテールに結わえて、原色か華やかなパステルカラーを洪水みたいに取り合わせたファッションに身を固め、とらえどころのないゆるいしゃべり方をしている女の子だ。
見た目に似合わず、悪い奴らをこらしめるみたいな仕事をしているらしい。だけど、断じて警察ではない。
とあるきっかけから不可抗力で事件に巻き込まれた僕を、まみちゃんは助けてくれた。だが、その際にまみちゃんもそこそこ危ない橋をわたったようで、彼女に言わせると、「しくじったアタシを、岳彦さんが助けてくれた」ことにもなるらしい。
そんなささやかなご縁は、その場限りのものだと思っていた。しばらくしてからサエズリでダイレクトメッセージをくれたときには、アカウントを教えた覚えもなかったので、おや、と思ったものだ。
まあ、僕の方はアマチュアミュージシャン活動で名乗っている、「大江戸芝蘭」という実にセンスのない芸名そのままのアカウントだから、彼女の側から探すことは容易だったはずだけど。
そのDMには、例の晩に遭遇した出来事に関わる、彼女と僕しか知りえない事が書かれていて、僕はとりあえず、そのアカウントを彼女のものだと見なすことにした。
それでも、今夜急に呼び出されるまで、彼女は、僕の投稿した短い動画にときおり「いいね」をくれるくらいで、言ってみれば、なんとなくサエズリで相互フォローするようになったごくごく縁の薄い知り合いくらいの付き合いしかしていなかったのだけれど。
『ちょっと仕事上の問題があって、シランさんの協力が欲しいんだ。仕事終わったら、20時に渋谷駅まで来て』
バイト上がり、昼休憩以来数時間ぶりに触ったスマホには、彼女からの、唐突で断る余地のない一方的なメッセージが届いていた。
もちろん、無視して放っておいたって構わなかったのだけれど、のこのこやってきたのは、彼女ともし再会できるんなら、元気にやっているかどうかくらい知りたい、という、ごくごく些細な動機からだった。前のバイト先で、店員と客という立場で知り合ったまみちゃんは、放っておけない危なっかしさと、陽気で明るい雰囲気を持ち合わせていて、少し年の離れた妹のような親しみを感じる存在だった。このメッセージが、彼女特有の気まぐれから来るほんのいたずらで、実際には会えなかったとしても、久々にトーテムレコードのインディーズコーナーで試聴機のブラウジングをするのも悪くない。
その時には、今日の渋谷が魔境と化すことには、僕は全く思い当っていなかったのだ。ハロウィン当日だということを忘れるなんて、浮世離れした生活にもほどがある、と、我ながら思うけれど。
数年前のフェスで買ったお気に入りのライブTシャツにコットンの長袖シャツを引っかけて、普段通りのゆるいデニムを合わせただけの僕のファッションは、周囲から浮きまくっていた。
とはいえ、動きやすいのだけは結果的に正解だったようで、僕は必死に階段を駆け上がり、彼女に追いついて屋上に出た。
誰もいない屋上で、まみちゃんは、真っ先に、さっきの人物が落ちた側の手すりに駆け寄った。身を乗り出すようにして下を眺める。
隣のビルの屋上には、空になったものか、幾つもの段ボールが転がっていた。リフトで荷物を釣り上げるときに使うような、幅の広い荷造り用の繊維テープがのたくっているのも見える。ごちゃごちゃと乱雑に物がちらかったそのただなかに、あの白黒の衣装が見えた。不自然に手足が折れ曲がっている。
守衛らしき制服の男が、その横にかがみこんで肩を叩き、声を掛けているようだった。その呼びかけにも、倒れた人物はピクリとも動かない。
守衛はスマホを取り出してどこかに連絡を始めた。消防への通報だろうか。慌ただしく建物の中に戻っていく。
僕はとっさに顔をしかめた。苦いものが口の中に広がる。救急車だって、この混雑では路地に入ってこられないだろう。
「助かるかな。ひどいヤジだったし、最低のいたずらをして、最後に背中を押したやつがいるんだ。あんなことさえなければ、こんな風にならなくてすんだんじゃないか」
「最低のいたずら? シランさん、何を見たの?」
「レーザーポインターを当てたやつがいるんだ」
「レーザーポインター?」
「大きい会場でプレゼンをするとき、スクリーンに映した映像やホワイトボードの一点を指し示す道具、あるだろう。ペンライトみたいなやつで、赤い光点が指した先に浮かび上がるようにできてる」
「ああ、見た。確かに、誰か使ってたね。あれって、そういう名前なんだ」
まみちゃんは得心がいったという表情でうなずいた。
「あれが顔に当たったんだ。多分下からやられてる。それで、まぶしがってバランスを崩したあの人が倒れて落ちたように見えた」
「ふうん」
まみちゃんは腕を組んだ。
「どいつだか分かればいいのに。ふざけてやったにしても度が過ぎてる。警察に突き出せば、傷害罪になるかも」
やりきれなくて、僕は吐き捨てるように言った。まみちゃんは少し首をかしげて、眼下の光景を見下ろしていた。