1 一言の拡散
「おい、これ、今、進行形だって」
妙にテンションの高い成分が交ざっているその発声は、僕の耳に、唐突に飛び込んで来た。悪い意味で耳につくような、嫌な波長の音だった。
「え、なになに」
「これ。ほら、今サエズリのタイムラインで流れてきたの。投稿時間、ほんの三分前。映ってるビル、トーテムレコードの裏でしょ」
ちらっと声の主の方向に視線をやると、興奮気味にスマホを覗き込んで早口でしゃべっているのは、フランケンシュタインだった。その手もとを覗き込んだゾンビにも、その興奮はすぐに伝染したようだった。
「マジのやつじゃん。すぐそこだろ。行ってみようぜ、生で実況動画流せば神だろ。バズるぜ」
何があったか知らないけれど、この状況なら、同じことを考えている人、百人じゃきかないと思う。
内心でそんなツッコミを入れつつ、僕は辺りを見回した。
人、人、人。
十月最後の日、渋谷は非日常的な衣装をまとった『モンスター』たちで、細い路地の中まで大混雑していた。
のこぎりを持った流血ナース。鮮血を点滴中のドラキュラ。
二本差しに袴のサムライの頭には、盛大に矢が突き刺さっている。二人連れのギャルっぽいメイクの女の子たちが双子みたいにお揃いで着ている、一見普通なボーダーのセーターにデニム、ニットキャップの組み合わせは、世界的にヒットした旅行絵本の主人公のアイコンだ。
国交のない隣国の総指導者にそっくりなメイクをして、かの国の軍服らしきものを着こなしている小太りの男までいる。他人事ながら、そんな不謹慎で大胆なジョークをかまして、かの国の情報部員に消されないか心配になる。
日本はまったく平和ボケだと思う。
僕の背後にあたる、駅から伸びた大通りとこの裏路地が交わった交差点では、よく見かけるブルーの制服にネイビーのベストを着た警察官が、声をからして交通整理に当たっていた。
「まみちゃん、どこ行ったんだ」
僕は人混みをかき分けつつ、舌打ちした。
ついさっき合流したはずの連れが見当たらない。いつもあんなに目立つと思っていた、ふわふわの明るいブラウンのツインテールは、色とりどりのウィッグや被り物の洪水の中では、まったく目印としての役に立たなかった。派手なパステルカラーのファッションも同様だ。
いつもカラフルな組み合わせの個性的な服をまとっている彼女は、今日も、パンプキンオレンジの思いっきり膨らんだミニスカート、紫のブラウスに、くもの巣柄のケープでばっちりキメていた。
ただし、今日に限って言えば、そのファッションは個性的でも何でもない。同じデザインのセットアップを、駅からここまでほんの数百メートルのうちに、五人は見た。
当然だ。
往年の人気アニメ、「魔法戦士カレンダーガール」のキャラクター、十月の魔法戦士マリアローザ・デ=ローレルのバトルコスチュームは、アニメのTV放映がとっくに終了した今も、ハロウィンの仮装で常に人気上位に食い込む、定番のファッションなのだ。まみちゃんもこのアニメの大ファンだと公言している。
全く。
ハロウィンの渋谷なんて、まともな人間の来るところじゃない。
彼女に呼び出されなければ、今頃は、郊外のウィークリーマンションで肉体労働バイトの疲れを癒しつつ、のんびりベッドに寝転がっていただろう。画面の向こう側の快適な場所で、彼らの実況中継を高みの見物と決め込める立場だったはずなのに。まあ、間違いなくそんな面白くなさそうなチャンネル見ないけど。
いくら見回しても、彼女の姿は見つからなかった。
こんな芋を洗うような混雑では、大声を出して呼びかけるのも憚られる。
まみちゃんときたら、見た目だけはアイドル並みにかわいいのだ。下手に僕が名前を連呼して目立った頃合いで、僕が探しているのに気がついた彼女がこちらに手でも振ろうものなら、周りの浮かれた野郎どもに絡まれるのは目に見えている。
僕は、大通りに出ようとする人間と、裏路地に入ってこようとする人間が無秩序に押し合いへし合いする狭い空間で、必死でスマホを取り出して、SNSアプリ<サエズリ>を立ち上げた。まみちゃんからダイレクトメッセージが来ていないか確認したかったのだ。
メッセージはなかった。
アプリを閉じようとして、タイムラインに表示されている写真に目が行った。画面の端に引っかかるように一部が映りこんでいる、あざやかな黄色がトレードマークのトーテムレコードの看板は、僕もよく行く店なのですぐに分かる。
『トーテムレコードの裏だろ』
さっきのフランケンとゾンビの会話がふと脳裏によみがえった。アイツらが見ていたのはこの写真なのか。
確かに、普段は気にも留めていなかったけれど、それはここ渋谷にある日本最大級のCDショップの行き帰りで見慣れた、古いタイル貼りのビルだった。隣接するトーテムビルの半分くらいの高さがあるから、六階建てくらいだろうか。
その屋上に人が立っている。
柵の外に。
『自〇ヤメテ!!!!』
不謹慎なげらげら笑いのアイコンとともに添えられたコメント。
悪趣味な写真だ。
誰かの苦境を指さし、嘲笑っている。
人の流れに押し流されて、僕はいつの間にか、そのビルに自分が近づいていたのに気がついた。周りの人間が、上を見て、指さしている。大声。
写真で見たのと、角度こそ違え、同じ光景がそこに広がっていた。
柵の外に誰かが立っている。だぶだぶの、黒と白の横縞のツナギ。囚人服のコスプレか。僕の位置からは見上げるような角度になって、身長も性別も分からなかった。
「おい、やばいぞ!」
「やめろー、死んだら復活できないんだぞー!」
「そこから跳んだからって、自由にはならないぞー!」
やじるような声、どっと笑う声。
向けられる無数のレンズ。
興奮したような会話。
「本気かな」
「落ちたらシャレんならん高さだと思うが」
「いや、ここまで来て、柵超えて戻ったらヘタレだろ」
「こういうのって、下にいるやつにケガさせたらどうなるわけ? 損害賠償とか請求できんの?」
みんな、他人ごとだ。
ショーか何かを見ているような、無責任な高揚感が辺りを満たしている。
反吐が出そうなむかむかを抱えて、僕も上を見上げた。下を向いていたら本当に吐きそうだったのだ。
ビルの上の人物は、路地から向けられるヤジやカメラレンズに怯えたように、じりじりと横歩きした。隣の、三階建てくらいのビルとの境目の方向に、必死でにじっていく。後ろ手に柵をつかんで、一本ずつ横に伝っている。ようやく、ビルの角を曲がって、隣のビルと接した側の縁を、路地から離れる方向に数歩分進んだ。路地を正面に見下ろさなくてもいい角度だ。
がんばれ。落ち着いて、中に戻れ。
こんなところで落ちるんじゃない。
僕は祈るような気持ちでその姿を見つめた。
その胸元辺りに、赤い点のようなものが見えた。
血?
いや、違う。
その点は、命を持った物のように不規則に素早く動いた。また胸元に戻る。
男か女かも分からない囚人服の人物は、怯えたように身をよじった。その動きをからかうように、赤い点が動く。胸元から、顔へ。
囚人服の人物は慌てて柵を離し、顔のあたりで虫を払いのけるような仕草をした。その急すぎる動作があだとなった。
大きくバランスを崩し、大の字になって宙に投げ出された白と黒の縞が、僕の網膜に焼きついた。
「おい、危ない――――!」
とっさにあげてしまった大声は、おそらく、その人物には届かなかったことだろう。
周囲からも、やっと、恐怖と深刻さをにじませた叫び声が幾つもあがる。
まるでスローモーションのようにその身体はゆっくりと落下する。まるで、飛んでいるようだ。
音は、聞こえなかった。
その姿は、十メートル近く低いであろう隣のビルの屋上へと、吸い込まれるように消えていった。