7. 『運命の矢は居住地にまで及ぶ』
「ふーっ。疲れた」
ゆっくりと伸びをする凛雨を、木陰が優しく受け止める。
初夏の気温はまだ暖かく、暑いとは到底言えないくらいの暑さである。
皆、この適温に、少なからず心が安らいでいる様だ。
通学路の側にある公園には、仲睦まじく座る老夫婦までもが見える程なのだ。
その近くで大きな気が揺れる様は、まるで絵本の世界だった。
誰もが新しい年度にも慣れ、ゴールデンウィークボケからも立ち直っていく5月の今日この頃。
麗しき日に、凛雨の気分は――怒りの絶頂である。
ブチギレ寸前である。憤慨している。
そして、肩より短い髪を然りに弄り、横目で隣人を――否、敢えて、隣人達と言っておこう。
彼らを睨む。
だが、特に効果は無し。
しかも、その度に1人が苦笑を返すもので、美味なる油を凛雨の怒りの火に、優雅にも注いでくれるのだ。
「ねぇ、何でいるわけ?」
何も、厳しい言い方をしたいのでは無い。
そうなってしまうんだ、と言うのが、凛雨の弁であるからして。
隣の彼は、また苦笑した。
――凛雨に1ℓの油が輸入される。
「ボクはね?君が嫌なんじゃ無いんだ。君と帰るのが嫌なんだよ!」
「それは、俺が嫌いって事なんじゃないのかなって思うんだけど……?でも、そうじゃないなら、嬉しい限りだよ」
「かっこいい言葉と顔で女性の心に土足で上がるな最低」
「君が振ってきたんじゃないか……」
余りにも理不尽な掛け合いに、後ろから付いてくる、他の2人も諦める。
――つい5分前、凛雨に話し合いで粉砕されたのも、理由の一つだが。
折角の5月の程良い陽気だというのに、各々下校中の4人、様々な問題で頭を抱える。
しかし、勇気のある1人は、凛雨の側に駆け寄った。
「りうりうー、そんなに僕達と帰りたくないの?」
「そうですよ、凛雨さん。何で嫌なのか、教えてくださらないと、どうにも……」
「何が嫌なの?」
凛雨の側に駆け寄った男子――瑠衣で1人、それに付いてきて、狐の尾を揺らす男性――綾で1人、隣人の彼――櫂で1人。
凛雨も含め、合計4人で帰宅中の放課後。
怒り心頭の凛雨は、周りの迷惑にならない程の声で叫ぶ。
「そんなの、君達が王子だからに決まってるだろう――!」
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――事の発端は、5限目の終わりにまで迫る。
「凛雨。今日、俺、リーダー関連の用事あるから、一緒に帰れないんだよ。どうする?」
5限が終わり、6限と7限の支度をしていると、突如、龍斗が話を持ち込んできた。
次は移動で、皆急いで用意しているのか、若干騒がしくも感じていた時だ。
無論、凛雨の答えは決まっている。
「どうするって、自分で帰るよ」
――寧ろ、1人で帰りたい。
目立つのは嫌いだ。
「いや、でもさ……」
「杞憂だよ。黙っとくし」
「や、でも……」
中々諦めようとしない。
それに少しだけイラッとしつつ、極上の笑みを浮かべる。
「1人で帰るよ」
「誰かと変わるか……」
「1人で帰るよ」
「櫂とかだな……」
「1人で帰るよ」
極上の笑み。
その真意に気付いた龍斗は、ゾッとした様に、背を退け反らせた。
周りも凛雨を取り巻く空気の冷たさに、王子である龍斗がいながらも、自然と離れていく。
――チャンス
「じゃ、次、移動だから。先行くよ」
「あ、おい!話はまだ終わってねえぞ!」
龍斗の怒号から逃げる様に、その場を去った。
凛雨は、制服のスカートを持ち上げると、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
後ろから、猛烈な勢いで『異能力者』の実力を行使する龍斗から逃げる様に、走って走って第二実験室に辿り着いた。
「……っ…はぁ……もう…っ…はぁ……追ってこないだろうね……?」
息も絶え絶えになりながら、凛雨は後ろを見る。
龍斗は諦めた様子で、ゆっくりと階段を上がってきているのが見えた。
「ふーっ」
大きく息を吐く。
凛雨はそこで、安心してしまったのだ。
――放課後。
いつも通り……では無い。
1人での下校は久方ぶりだ。
正門の近くまで来ると、龍斗が千隼とミーティングをしているのが見て取れた。
「良かった。追ってきてない……」
凛雨が、これ程までに1人で帰りたがるのは訳がある。
それは、龍斗の王子としての知名度。
毎度毎度下向するたび、朝から女子生徒達の事情聴取を受けなくてはならない。
その原動力は嫉妬か、あるいは羨望か。
凛雨自身は、どちらもだと思う。
しかし、龍斗にも凛雨と帰る理由がある。
凛雨との契約なのだ。
凛雨の両親は優しさ故か、登下校中を大変気にしている。
そのことは、決して凛雨が『魔法使い』だと、他人に知られたくない訳では無い、と主張しておこう。
ただ純粋に、純朴に、心配しているのだ。
世間から、暗黙の了解として知られている『人外』。
凛雨は、まだ外見から分からないが、いつ力が分かってしまうか知れたものでは無い。
外でどんな批判を浴びるか。
それが、『人外』の宿命だと割り切ることもできる。
だが、両親と、さらに姉も、凛雨のことを気にかけていた。
しかし、しかし、だ。
両親や姉が高校について行くのは難しい。
各々予定もある上、家族と登下校など、凛雨が悪目立ちするからだ。
契約が決まった日の事を、凛雨はずっと覚えている。
高校に入学する前、幼馴染の龍斗の前で、いつも両親と姉は話し合っていた。
そして、誰が行くのか、と言う最難関の場所に踏み込んだ途端、凛雨以外の全員の視線が――龍斗に向いた。
それ以来、凛雨がどんなに避けようと、龍斗は契約で結ばれている為、片時も離れずいてくれる。
片時も離れず。
片時も。
彼が、どうして契約したのかは、凛雨には分からない。
が、凛雨にとっては、王子と帰る方もありがた迷惑なのだと言う事を記しておく。
校門を出ようと、角を曲がる。
龍斗達の姿が見えなくなった所で、一息つき――
「あ、木舟さん」
「りうりう〜っ!」
「凛雨さん、先程はどうも」
「――!!」
霜峯櫂、夕凪瑠衣、火秋綾が門に佇んでいた。
まあ予想通り、生徒達の視線が、注がれる注がれる。
その光景に、凛雨は大変不機嫌になった。
「あ、どうも。じゃね」
「〰︎〰︎〰︎!?」
瑠衣の、声にもならない声が響く。
櫂と綾も呆れた目をした。
「で、火秋先輩、霜峯くん、瑠衣、何でいるわけ〜?」
満面の笑み。
否、満面の怒り顔、と言った方が正しいだろう。
案の定、鬼の形相をした凛雨に、3人とも見事同時に顔を逸らす。
それでも尚、説明を求める凛雨に、最初に観念したのは綾だった。
「すみません。龍斗に頼まれまして。断れずに……」
「そ、そうそう!何も、僕が行きたくて進み出たんじゃ無いし、駄々をこねたんじゃ無いし……」
「今、君が無理矢理来た事がバレたけど!?」
口を挟んで、瑠衣が撃沈。
続く綾も、凛雨の一睨みで轟沈した。
残るは櫂だが、王子各々のファンクラブの中で、飛び抜けて大規模な櫂のファンクラブを敵に回したく無い。
ここは潔く、勝ち逃げしよう。
「とにかく、ボクは帰らせてもらう」
「え〜っ、え〜っ!」
「凛雨さん……!」
「ちょっ、まっ」
3人の声を聞きながら、颯爽と歩き出す。
その立ち振る舞いに、2人は諦めたが、もう1人――瑠衣は諦めなかった。
「待って!りうりう〜っ!」
校門を抜けた凛雨に、小さな体が襲いかかる。
高く高く宙を飛んで。
常人ではあり得ないほどの高さを舞う。
そして、周りが驚く中、凛雨に瑠衣が抱きついた。
「はっ!?」
「む〜っ!逃さないもん!」
凛雨の顔が赤くなる。
頭一つ分低い身長のせいか、腹の辺りに手が回っており、細い体に締め付けられた。
どこかで、風が吹く音がする。
「風の……っ、『魔法使い』……っか」
風を操る『魔法使い』である瑠衣は、風に乗って凛雨に飛びかかることも可能だ。
その事実に、凛雨は大きく溜息を吐く。
火照った頬は、まだ冷えない。
抱きついた彼は、嬉しそうに凛雨の背中に自分の頬を撫でつけた。
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「で、何で帰ることになったのか……」
「ふふーん♪」
上機嫌な瑠衣と、不機嫌な凛雨。
ギスギスな2人を見つめるのは、微笑した2人。
何とも、慣れない光景である。
鼻歌を口遊む瑠衣を横目に、凛雨は静かな溜息を吐いた。
「瑠衣……」
何とも言えぬ愛らしさを前に、遂に凛雨も言葉を失う。
その様子を見ていた陵は、彼方よりの疑問を口にした。
「しかし、何故、瑠衣だけ名前呼びなのでしょう?龍斗はともかくとして、何か理由でも?」
あ、と止める瑠衣をさておき、凛雨は待ってました、とばかりに口を開く。
妥当な質問に、凛雨はあっさりと朝の事を暴露した。
「いや?最初は夕凪くん、と呼んでいたんだけど、泣き叫んで頼むものだからつい……」
それで折れていたのでは、顔を上げる術を知らない。
不覚の事態が起こった事に、我ながらショックを受ける。
その話を聞いた2人は、しばらく唖然としている様だったが、先に口を開いたのは綾だった。
「そうですか。では、僕のことも名前で呼んでくださいませんか?」
「ぇ」
自らのことを指差し頼む綾に、言葉もない。
驚きと羞恥から、風の吹く音だけが、その場に流れる。
いわゆる、沈黙というやつである。
「いいじゃないのー?りうりうっ!呼んであげてっ」
沈黙を最初に破った勇者は瑠衣だった。
彼は凛雨に再び抱きつくと、赤い顔をした凛雨に最上級の甘え顔でねだる。
それを、凛雨以外の2人は黙認。
――薄情な人達である。
瑠衣には弱い凛雨は、渋々と言った様子で小さく名前を呼ぶ。
「綾……先輩」
気恥ずかしさから小声になり、風に攫われそうになるが、言ったは言ったのだ。
二度は言わない心算だ。
だが、しっかりと聞き取ったらしく、綾の顔が嬉しそうに崩れるのが分かる。
凛雨の顔が、真っ赤に染まった。
「見るなぁっ!!」
その後、相好を崩した各々に、凛雨の怒号が響き渡るのは、当然だと言っておこう。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆
道中での出来事はこのくらいにするとして、舞台は凛雨の家へと移る。
「あのさ、もうすぐボクの家だし。送ってくれてるんだったら、もう大丈夫だけど」
「……あ、いや、その、ね」
「――今、歯切れ悪くなった?今、多分ボクに言ったら嫌がるだろうな、的なことを思った?」
自宅であるマンションに近づく最中、歯切れを悪くした櫂を攻める凛雨が、近くの窓ガラスを通して見える。
その表情は、物凄く強張っていた。
「木舟さん、話さないといけないことが――」
「とにかく帰って!」
そう言うや否や、マンションの自動ドアが開く。
もう、すぐ近くまで来ていてしまっていたのだ。
そして、その中から2人の女性が姿を現す。
左側にいる1人は茶髪。
もう1人は黒髪だ。
「お帰りなさーい。凛雨〜」
「遅かったわね」
――即ち、姉。
これが、凛雨がマンションまで来て欲しくなかった理由の、一つである。
「えと……?」
「木舟さんの知り合い?」
「そうよ〜。凛雨の長姉の木舟華音です〜っ」
「同じく。あたしは、凛雨の次姉の木舟沙月よ。よろしく」
瑠衣含め、3人が言葉を失う。
凛雨の2人の姉、華音と沙月。
それぞれ性格は違えど、共通点が一つ。
――末妹に対して、過保護だと言うこと。
「ねーえー。凛雨〜。今日どうかしたの〜?電話切っちゃって〜」
「それは、完全に華姉のせいだと思うわ。あたしでも迷惑しちゃうわよ、そんなの」
「あら〜。そう〜?」
おっとりとした華音と、尖った性格の沙月。
どちらも、凛雨にとっては懸念すべき相手であることは確かだ。
一方、瑠衣達3人は、口を開いたままである。
唖然とした面持ちで、見ていてすぐに分かる程、絶句という言葉をなぞっていた。
「あ、昼の電話って……」
櫂の推測は正しい。
昼休み、オリ合宿の打ち合わせ時に電話がかかってきた原因……というか、犯人は華音だ。
学校にも関わらず、寧ろ自分も大学に在中だろうに、ご丁寧な事である。
何故かける気になったのか、知りたい気持ちも山々だが、答えが大方分かっているので敢えて聞かない。
「あら〜っ?この子達……って、彼氏さん?」
「――は!?」
「何を言ってるの!?今、何て言ったの!?」
爆弾発言とは、この事を言うのだろう。
口を挟もうとした凛雨を押し除け、沙月が櫂に掴みかかる。
櫂を壁にぶつけると、黒髪を掻き分けると、尋問に入った。
「アンタ、凛雨の事、どう思ってんの?恋愛感情抱いてんの?変な事とか、してないでしょうね!?」
凛雨にはダダ甘な沙月なのである。
それを許さないのは、当の本人である、凛雨のみだ。
「沙月姉!やめてってば!」
「何故?可愛い妹に彼氏がいるなんて、これは下調べが必要な予感が――」
「うん、一番やめてほしいだけど!やめてくれる!?」
先程から、口を開け閉めする事しか自由が無い櫂を、解放するように促す。
ようやく自由を獲得した櫂は、恐る恐る沙月から離れた。
相当、恐怖は刻み込まれたらしい。
「……じゃ、アンタ達、誰よ?最近は朝にマンションで見かけるけど」
「下調べはしてるんだと言う事が分かったよ!?……って、は?マンション?」
「あ、言うのを忘れてたんだけどね……?僕達、この春から、りうりうと一緒のマンションに引っ越して来たの〜」
「じゃないっ!!」
完全にパニック状態に陥った凛雨は、この場にいる4人と+龍斗に最大級の恨みを覚える。
その瞳を見、綾も尾を丸めて、たじろぐ程に。
「ん〜っ?話終わった〜?」
一番不憫なのは、板挟みになっていた長姉の華音であると、弁護側は主張したい。
ともかく、同じマンションに居ると分かった3人の事情を聞くのは、どうやらお預けの様だ。
何故なら――
グーッ
瑠衣の腹の虫が鳴ったからだ。
丁度、夕食時である事も手伝って、大変な空腹を凛雨も覚える。
「あっ、ねーぇ、今日ね〜、夕飯作りすぎちゃったのよ〜。彼氏さん達も、一緒にど〜お?」
「わーい!やったーっ!」
「彼氏さん達って、付き合ってないし、二股みたいに言うのやめてくれる!?」
凄く心外だ、と言う顔をした凛雨を4人は笑い合って、更に逆上させている光景に、見る人からは映っただろう。
微笑ましい光景である事は、凛雨当人から説明したい。
笑い声と尖った声が響く。
それは、楽しそうで、『常人』と変わらぬ光景だった。
5月のある日。
――オリ合宿まで、実に後1週間。