6.転機
春になって少し経ち、山からの雪解け水がすっかり谷川を潤す様になった頃、急に上流の方でけたたましい音がした。瀑布といっていい様なすさまじい音で、大木の枝に寝っ転がって怠けていたアクナバサクは驚いて飛び起きた。
「何事!」
「アクナちゃーん」
ナエユミエナがふわふわと浮いてやって来た。
「ナエちゃん、何が起こったの!」
「なんか、水かさが増したみたいでぇ、上の方が滝になってるんですよぉ」
「滝ぃーっ!?」
アクナバサクは大慌てでナエユミエナを伴って上流へと急いだ。
果たしてどん詰まりまで行ってみると、そこには既にホネボーンがいて、崖の上からどおどおと音を立てて落ちて来る滝の水を眺めていた。
「ホネボーン、これどうしちゃったんだよ! こっちは水が流れない場所だった筈じゃないの?」
「どうやら山の方で地滑りがあった様で、水の流れが変わりました。こちらにも流れができた様ですね」
「うわっ、この辺すっかり水が溜まっちゃってるじゃないの」
滝から落ちる水は地面を抉って窪地を作り、そこに水が溜まって、それが抜けずに残っているのである。木が水に浸かっていた。
「この辺りは元々窪地ですからね。水が溜まりやすいのでしょう」
「あ、あっちからまた流れてますよぉ」
ナエユミエナが指さす方を見ると、池の端の方からまた水が流れ出して川になっている。どうやらその川は、最終的に谷川に合流しているらしかった。
アクナバサクは腕組みした。
「こうなるとは……これじゃ池に浸かった木は枯れちゃうかな?」
「そうですね。根から腐ってしまうでしょう」
「うーん、勿体ない……まあ、仕方ないな。むしろまた一つ水源が出来た事を喜ぶ事にしよう。ナエちゃん、ここにも魚を放そうか」
アクナバサクはそう言って、まだ濁っている水に手を入れてちゃぷちゃぷと跳ね散らかした。
こうして荒れた大地に川が戻った。森は谷に沿って順調に広がり、虫の数もかなり増えた。
一度増え始めると虫というのは勝手に増えるものらしく、もうアクナバサクもナエユミエナも何の手も入れていないのに、森の中は虫たちの楽園になりつつあった。
そうして、捕食される虫の繁殖が安定した事で、蛙や蜥蜴といった小動物が生み出され、兎やリス、鼠といった小型の哺乳類も地面を走り出す。
さらに鳥たちの飛来が確認された。雁たちは無事にこの谷の事を他所へと伝えた様だ。小さな鳥から、それを狙う猛禽類までが、森のあちこちに姿を見せる様になった。
かつては葉擦れの音ばかりだった森の中に、生き物たちの営みの音が響く様になり、谷は賑やかさを増した。
「おっ、どうしたどうした」
散歩の最中、地面の上で苦し気に羽をばたつかしている鳥を見つけて、アクナバサクは駆け寄った。
「ああ、怪我したのか。よし、ちょっと大人しくしてろ」
そう言って『与える力』でたちまち怪我を治してやった。鳥は喜び勇んで宙に舞い上がり、アクナバサクは満足げに頷いた。
下草も随分伸びた。それらが地面を覆うから、風も乾いた厳しいものから、涼しく優しいものへと変わりつつある。
その風に乗って、晴天の下を鳶や鷹などが輪を描いて飛んでいる。それらから身を隠す様に、草の陰を野鼠や兎などが駆けて行く。
それらを存分に眺めまわしてから、アクナバサクは踵を返した。
谷の環境が改善され、自然が自らの力で循環を始めたから、アクナバサクたちの負担もずいぶん減った。『与える力』を使う頻度が減ったのは大きい。勿論今でも植樹は続けているが、本拠地から離れた場所になりつつある為、作業の進行もゆっくりである。
その本拠地だが、前の大木の横の小屋はほぼ全部がホネボーンの研究室となった。
ホネボーンは谷のあちこちの植生や環境などを図やグラフにしてまとめており、小屋の中はそんな資料が整然と並ぶ様になっていた。
それで小屋を追い出されたアクナバサクは、谷を一望出来る様な場所に館を一つ建てる事にした。
建築自体は『創る力』を使えば難しい事はない。しかしデザインや構造を考えるのにしばらく時間がかかった。
ホネボーンがちっとも相手になってくれないので、アクナバサクはナエユミエナと膝を突き合わした。
「馬鹿と煙は高い所が好きと言うけれど、だからといって高い所が好きなのが馬鹿というわけではない。そうですね?」
「そうですねぇ」
「だから、わたしが高い所に家を造りたいと言ったところで、わたしが馬鹿だという証憑にはならない。いいですか?」
「はぁい」
「眺めがよければさ、色々な変化がすぐに解るだろ? 別に馬鹿だから高い所に行きたいとか、そういうわけじゃないんだよ、ちゃんと意図があっての事なのだ。むしろわたしは賢いと言ってよい。解りましたか?」
「解りましたぁ」
「で、折角だから大きな屋敷にしようかと思うんだ」
「お掃除が大変じゃないですかぁ?」
「そのうち屋敷妖精でも現れるでしょ。流石に小屋に屋敷妖精は出なかったから、多少は立派な家にした方がいいと思ってさ」
「お部屋をいっぱい作ったりですか?」
「そうね。それからちょっと凝ったデザインにしたいね。崖の壁面に張り付いてる様なのはどうだろう? それで広いベランダから谷間を見渡せるのだ」
「わぁ、素敵ですねぇ。それじゃあ、崖に半分食い込む様にして、崖の中に通路を掘るのはどうですかぁ?」
「それいただき! その通路で谷の上と下とに出られる様にしておくと色々便利だな。あとベランダに出る部屋は広くしてさ、宴会とかした時に眺望が良い感じに」
「わたしとぉ、アクナちゃんと、ホネボーンさんと三人で宴会するんですかぁ?」
「いや、いずれは精霊とか精獣とか増えるだろうし、そうなった時とかさ。だだっ広い部屋に三人は流石に精神的に来るだろ」
そういうわけで大きな屋敷が出来た。
ナエユミエナの提案通り切り立った崖の壁面に張り付く様な館で、後ろ半分は崖の内部につながっている。崖の中に蟻の巣の様に穴を掘って、崖の上と下とに出られる様になっていて、館の望楼からは谷間が一望できる。
部屋の数は無暗に多く、穴を掘ればまだまだ増やせそうだったが、際限がなくなりそうなので、ひとまず十七を数えた所でストップしている。
ベランダに接する大広間の一角には、掘り出されたナエユミエナの神像を安置した。
建物は単に石を切り出しただけのものではなく、あちこちから植物が生えて、天井からぶら下がるシャンデリアは、垂れさがる蔦の先端に蛍草が光っているし、壁からは黄輝石が突き出して淡い光を放つ。カーテンは細い蔦に細かな葉が茂ったものだ。緑の絨毯は芝生である。
さながら森の王族の屋敷といった趣になった。豊穣の女神であるナエユミエナの力の影響もあるのかも知れない。
アクナバサクは得意げに胸を張って、見せびらかそうとホネボーンを引っ張って来た。
「どうだ、良い屋敷が出来ただろう」
「はあ」
「お前の部屋もあるぞ。ちゃんと三人それぞれの私室を割り当てたんだ」
「そうですか」
「もっと喜んだらどうなんだよ」
「私がですか」
「そうだよ。嬉しいだろ?」
「そうでもありません」
「なんでだよ。自分のプライベートが確保されるって素晴らしいだろ」
「はあ、別に」
とホネボーンは無感動な様子である。
アクナバサクは口を尖らしたが、考えてみたらホネボーンは既に自分の研究室を持っているし、アクナバサク自身も私物というものが皆無であり、部屋に籠ってする様な事も何もないと気づいた。
ともかくそれで魔王谷は少しずつ発展の様相を呈して来た。
現在は谷川に沿って森を広げて行く計画だから、三人は下流方面に歩を進めて、川の縁には柳を植え、その周辺に種々多様な木々を植え付けていた。
森が広がった分だけ動物たちも活動範囲を広げる。次第に森の途切れる所まで行くのに半日かかる様になり、ついには歩いていたのでは一日で行き来するのが難しいくらいになった。新築の館から見える範囲はすっかり緑に染まり、飛び立つ鳥の姿もよく見える。
加えて、崖の上のあちこちに川が出来たらしく、それが谷間に注ぐ為、谷の上流部には大小の滝があちこちに出来た。
館のすぐ脇にも小さな滝が落ちる様になって、時間帯によって、その飛沫で小さな虹がかかる様になった。朝方には霧も立ち込める様になって、かつては空っ風と強い日差しで焼ける様に暑かった谷は、涼しく心地よい場所へと様変わりした。
午前の光が降り注ぐ中、ベランダの欄干にもたれて、アクナバサクはにやにやと笑った。
「見たまえ、この魔王谷の美しい姿を」
「素敵になりましたねぇ」
とナエユミエナが言った。
「素敵だよね。いやあ、荒れ地だった頃とは雲泥の差だネ。吹く風や太陽の光も全然違うものに感じるよ」
「アクナちゃん。川も流れ始めましたし、少し畑でも始めてみませんかぁ? お野菜を育てるの、とっても面白いですよぉ」
「おー、そうだそうだ。ホネボーンにも相談してみようぜ」
それで二人はホネボーンの所に行った。ホネボーンは苗木の圃場で苗の数を数えていた。そこへアクナバサクが闖入する。
「ホネボーン!」
「何ですか」
「ナエちゃんと話してさ、畑でも始めてみようかって思うんだけど」
「はあ」
「始めるに当たってまず何が必要だろう?」
「そりゃ圃場です。日当たりのいい肥沃な場所を選んで、可能ならば近くまで灌漑して水を引くのが良いでしょう」
「畑用の水路というわけだな。ホネボーン、場所を決めるからお前も来いよ」
「はあ」
それで三人は連れ立ってあちこちを歩き回った。
大股でずんずん歩いて行くアクナバサクの後ろで、ナエユミエナがホネボーンに話しかけた。
「あのぅ、ホネボーンさんはどうしてそんなに知識が豊富なんですかぁ?」
「どうしても何も、仕入れたからです」
「へぇー、でもそんなに色々覚えられるものなんですねぇ。凄いなー」
「私に媚を売っても無駄ですよ」
「あう、そういうつもりじゃないですよぅ……」
ナエユミエナはしょげた様に俯いて、もじもじと両手の指を絡ました。ホネボーンは知らん顔をしている。
谷の上流部は両側から崖が迫って来ているものの、下流の方へ向かうにつれてその幅は広まり、やがて崖は傾斜となって平坦な所も増える。畑を拓くならばそういった場所が適しているであろう、と三人は下流へと向かった。
川は雪解けの水が流れている。谷を見下ろす急峻な山は、山頂付近はまだ雪で帽子をかぶった様に白くなっており、それが少しずつ解けて流れて来ている。
以前はその水も川になる前に消えていたが、森が出来、大地の生命力が戻った事によって、川として谷を潤す様になっていた。
貯水池を造った傾斜の下あたりまで来た三人は、そこで足を止めた。
「どうだろう、この辺は。上に貯水池もあるし、そこから水路を引けばいいと思うんだ」
「そうですね。どのみち、裏法の最下段のドレーン溝は川へ水路をつなげています。そこから枝分けすればいいでしょう」
「日当たりもいいし、ここならいいお野菜が育ちそうですねぇ」
それで三人は区画を作って、灌漑用の水路をあちこちに伸ばした。
もう土も簡単には崩れない様になっていて、わざわざ柳などで護岸整備してやる必要はない。
幅の狭い小川、といった趣の水路が縦横に走り、色々な形に区画された畑が出来上がった。
「よーし、これで野菜を育てる下準備は整ったな。中々壮観じゃないか。なあ?」
「はあ」
「何を育てましょうかねぇ。あ、果樹園なんかにしてもいいですねえ」
「その方が手間かからんかなあ。今のところ三人だけだから、管理しっぱなしというわけにもいかんもんね。畑妖精でも現れれば話は別なんだがなー」
「どちらにせよ、大規模に野菜など作った所で領民がおりませんから無駄ですがね。我々三人は食事を必要としませんから」
「そこなんだよなぁ……いや、別に野菜だって食われる為にせっせと育つわけじゃないだろうけどさ。でも食べ物として作るなら、やっぱりそれを消費する奴らが欲しいよなあ」
アクナバサクは腕組みして唸った。ナエユミエナは何となくはらはらした様子でそれを見ており、ホネボーンは黙って突っ立っている。
しばらくしてから、アクナバサクはうむと頷いて顔を上げた。
「ま、ともかく何か育ててみようや。収穫しなくても、花を咲かして実を結ぶ以上種が出来るんだから、植物として生きててくれりゃそれでいいよ。わたしらが食わなくても、虫や動物が食べればそれでいいじゃない。みんな生きてるんだしさ」
そういう事ならば、ホネボーンにもナエユミエナにも異存はない。
さっそくナエユミエナが差配を振るって、区画された畑にあれこれと野菜だの果樹だのが植え付けられた。
季節は夏に差し掛かろうとしている。
多くの花は散り、どこもかしこも青々とした葉が茂っていた。
日差しはぎらぎらと暑いけれど、谷川に水が戻った事もあって、どことなく涼し気だ。
陽光と水、気温とが十分にあるから、植物たちも元気いっぱいに育っている。畑に植えた野菜たちも、たちまちぐんぐんと大きくなり、種々多様な実を下げていた。
「おー、真っ赤真っ赤。立派な蕃茄だこと。いいじゃないの」
丸々と大きいトマトを手に取って、アクナバサクが言った。麦わら帽子をかぶったナエユミエナがえっへんと胸を張る。
「みんなとっても元気がいいんですよぉ。虫さんたちも喜んでるし、動物さんたちもきちんと熟れたのを選んで食べてます。おいしいものは解るんですねぇ」
「どれどれ」
とアクナバサクはトマトにかぶりついた。果汁が口から溢れて頬を伝い顎から垂れる。それを手の甲でぬぐいながら、アクナバサクはもちゃもちゃと口を動かした。
「うみゃい。いーね、甘酸っぱくて。美味美味」
「おいしいですよねぇ。うふふ、後で玉黍も茹でましょうねぇ」
「やったー」
アクナバサクたちも、食事は必要ないといっても、嗜好品として楽しむ程度には野菜を口にする。尤も骨であるホネボーンはまったく食わない。
トマトをかじりながら、アクナバサクとナエユミエナは川っぺりに腰を下ろした。素足を水に浸けてちゃぷちゃぷと飛沫を跳ねさす。日の光を照り返す水面はまるで宝石を溶かした様にきらきらしている。その水面すれすれをトンボが飛んで行き、それを追いかける様にしてカワセミが飛んで行った。少し向こうでは何か魚が跳ねたらしく、目に眩しいほどの光がちかりと光って、消えた。
「あー、いいわー。恋焦がれた魔王谷の美しい姿が目の前にあるわー」
「あのまま畑を維持していたら、そのうちきっと妖精さんが現れますねぇ。ふふ、そうなったら素敵だなぁ」
「畑妖精に、あと屋敷妖精も出たらいいんだけどな。私室を作ったのに、わたし全然家に帰ってないし……」
基本的にアクナバサクは昼も夜も谷のあちこちをうろついている。時折、ナエユミエナの料理を食べに屋敷に戻って来るものの、基本的には外で暮らしていた。
「わたしはちゃんと毎晩帰ってますよぉ? お掃除もきちんとしてます」
「ナエちゃんってば真面目~。でも外で寝るのもいいもんだぜ。星空を屋根に草を枕にするんだ。まあ、寝るっつっても寝転がってるだけなんだけど。力を使い過ぎなければいつまで経っても寝れないんだけど」
そのせいで屋敷に帰って休む必要がなくなっているわけである。
森が順調に広がっている為、現在は植樹も最初ほど熱心に行われなくなっている。少なくとも、新しい屋敷から見える範囲には木が植わり、谷川の下流域にもかなりの距離に木が植わった。
大地の生命力が戻ったせいか、森は自らその範囲を広げようとしている様でもあり、現在はわざわざそちらまで出向く事がなくなっている。
アクナバサクは何ともなしに空を見上げた。
「このままちょっとずつ森が広がってさ、動物が増えて、妖精とか精霊とか精獣とかも出て来て、賑やかになって……昔、世界創造に携わった神族は、こんないい気分になったのかしらん?」
「どうでしょうねぇ。わたしはゾマ神族の皆さんの気持ちは解りませんから」
「ダヨネー」
「でも、今はとってもいい気分ですよぉ。あのままずっと地面の下にいたと思うと、とっても寂しくなっちゃいます。こうやって足を水に浸けられるなんて、とっても嬉しいですぅ」
「これ、最高だよなー。ちゃぷちゃぷするのめっちゃ楽しい。ホネボーンの奴、何やってんだろ? この楽しみを教えてやりたい、あるじとして」
とアクナバサクは後ろを見返った。勿論いる筈がない。どこで何をやっているのかも解らない。最近はアクナバサクとナエユミエナの二人と、ホネボーンの活動領域がかぶらないのである。
少しずつ日が動いているから、さっきまで日陰だった二人の場所に、日が差し込んで来る様になった。アクナバサクは目を細めて、不意に大きくくしゃみをした。
〇
都市の内部は廃墟が広がっている。既に現世喰との戦いは都市内部で行われる様になってしまっていて、その爪痕も顕著だ。
かつては高層建てだった建物も崩れており、手入れされていない道には草が生え放題に伸びている。その草も硬くとげとげしいものばかりで、歩くのを邪魔する様な具合だ。
その一角に、取り残された者たちが寄り添うように暮らしている場所があった。
かつて魔姫を生み出す研究がされていた研究所の跡地で、中庭に大木と小さな泉のある場所である。尤も、大木は既に半分枯れかけており、泉の水も少しずつ湧出量が減っていた。
ハクヨウたち取り残された者たちは、廃墟の瓦礫の後にささやかな畑を拓き、現世喰を倒した時に得られる生命エネルギーを利用して、何とか生き延びている状態だった。
「げほっ、げほっ」
寝床で体を起こしたハクヨウが深く咳き込んで、口端から血を垂らした。
傍らで薬湯を煎じていたアルゲディが、慌てた様にたらいに汲んだ水を持って来る。
「ハクヨウ姉さん……」
「……すまない」
水で手と口とを拭う。肺病やみの様だ。
一番戦える筈の自分がこれでは、とハクヨウは歯噛みした。
都市に取り残された魔姫は、かつてはもっと多かったが、度重なる現世喰との戦いで幾人もが命を落とした。現在は全部で五人だけである。
中で一番年長であり、魔王の因子も濃いハクヨウだが、第一世代という事もあって肉体の劣化が激しい。一日の大半を病床で過ごし、薬湯をすすって生きながらえている。
戦いの場に出れば強いのは確かだが、力を発揮できる時間は短く、一度戦えばしばらくは体を動かすのも大変になってしまう。
「ハクヨウ姉さん、無理しないで……今日はとっても辛そう……」
「大丈夫だよ。少し休ませてもらえば」
ハクヨウは微笑んだ。そうして、薬湯の入ったカップを手に取った。
「苦いけど、これを飲むと楽になるよ。いつもありがとうな」
「う……」
アルゲディは恥ずかしそうに俯いた。
薬湯を飲み、再び目を閉じたハクヨウを見て、アルゲディは立ち上がった。
アルゲディは都市が放棄される寸前に生まれた世代だ。魔王の因子は薄く、戦闘能力も決して高いとはいえない。肉体も幼く、力も強くない。しかも魔姫として生まれた為、肉体は劣化こそしていくものの成長する事がない。剣の稽古はしているものの、これ以上体は大きくならないから、どうしても力が弱い。
どうしようもない無力感が、常に彼女には付きまとっていた。それでも、自分にやれる事をやるしかない、と日々とにかく動き回っていた。
廊下を曲がった所で、キシュクとばったり鉢合わした。キシュクは小さなリンゴを持っていた。
「アルゲディ、初代様の様子はどうですか?」
「また血を吐いたの。今は休んでらっしゃるけど……それ、どうしたの?」
「ようやく熟したんですよ。初代様に差し上げようと思って」
「そっかぁ……キシュクちゃん、こっそり食べるんじゃないかって思った」
アルゲディが冗談めかして言うと、キシュクはぷうと頬を膨らました。
「そこまで食い意地は張ってねえです。それに、そんなずっこい事したらグリーゼ姉さんに怒られるですよ」
食物の乏しい都市においてリンゴなどは貴重品である。しかしハクヨウにあげるのだというならば、アルゲディにも異議はない。病床に臥せっているとはいえ、ハクヨウは魔姫たちの精神的支柱である。いいものをあげて元気になって欲しいという思いは大なり小なり誰でも持っている。
「アルゲディは、どこに行くですか?」
「畑に、行こうと思って。薬草を摘んでおこうかなって」
「そうですか。後でボクも手伝いに行ってやるですよ」
「ありがとう、キシュクちゃん」
キシュクはアルゲディと同時期に生まれた魔姫だ。だから今都市にいる魔姫たちの中では一番仲が良い。生意気な口を聞いたり、意地っ張りだったりするけれど、その実とても優しいのだとアルゲディは知っている。
「……何ですか、じろじろ見て」
「ううん、何でもないよ」
それでキシュクと別れたアルゲディは、畑の方に歩いて行った。研究所の中庭に小さな畑があって、少しずつ野菜が作られている。果樹も植わっていて、さっきキシュクが持っていたリンゴはここに植えてあったものだろう。
畑には先客がいた。長い黒髪が顔にかぶさる様に伸びている少女である。背中を丸めてもそもそと土をいじっていて、何となく陰気な印象を受ける。アルゲディは駆け寄った。
「シャウラちゃん!」
シャウラはびくっとした様子で顔を上げた。
「お、う、あ、アルゲディ……」
「珍しいね、シャウラちゃんが畑にいるなんて」
「ぐ、ぐ、グリーゼが、無理やり、引っ張り出すから……ここ、こういうの、苦手、なのに」
とシャウラはもじもじと両手の指を揉み合した。
魔姫というには弱弱しい印象のこの娘は魔法を主に扱う魔姫だ。アルゲディやキシュクよりも少し上の代ではあるが、やはり魔王の因子は薄く、“役立たず”と見なされてここに取り残された。引っ込み思案で人付き合いが苦手だが、魔法の扱いは上手く、現世喰の接近を知らせる術式を組んだのは彼女だ。
アルゲディはシャウラの隣に屈みこんだ。
「グリーゼ姉さんは?」
「さ、さっきまで、いた、けど、小さな、反応があったから……じょ、城壁のほうに、行ったよ」
アルゲディは表情をこわばらせた。
「現世喰が、来たの?」
「で、でも、反応は小さかったから、また、よ、様子見の奴、だと思う」
とは言うが、シャウラも自信なさげである。先日苦戦した現世喰も、反応自体は小さなものだった。だからアルゲディとキシュクが討伐に出たのだが倒しきれず、最終的にハクヨウが出る羽目になってしまった。
実際、ハクヨウが討伐後に手に入れた生命エネルギーは、個体の強さに似つかわしくないほど小さなものだった。今では魔力の多寡が現世喰の強さの指標にならなくなっている。
「わたしも、行かなきゃ」
立ち上がったアルゲディを、シャウラが慌てて引き留めた。
「だ、だ、駄目、だよ。危ないよ」
「だけど……」
「もしグリーゼが苦戦する様な相手だったら、アルゲディじゃ、かか、勝てないよ。もう、仲間が死ぬのは、嫌だよ……」
「でも、でも……もしそんな相手だったらそれこそグリーゼ姉さんが危ないよ! ハクヨウ姉さん、今日は特に調子が悪そうだし……わたし……」
とアルゲディは俯いた。シャウラは口をもごもごさせていたが、やがて立ち上がった。
「わ、わ、わたしが、行って来る、から。だから、アルゲディは、ハクヨウを、まま、守ってあげて、ね!」
震える声で言い切ったシャウラは、おぼつかない足取りで走って行った。
「シャウラちゃん……」
アルゲディの目に涙が浮かんで来た。
どうして自分はこんなに弱いんだろう。弱い癖に偉そうに他人の心配なんかして、これじゃあ、シャウラをけしかけて無理やり行かせたみたいだ。
俯いて涙ぐんでいると、ふと足元に何かがやって来た。見ると、小さな野ネズミがアルゲディを見上げている。
「あ……」
アルゲディは涙をぐしぐしと拭うと屈みこんだ。
「ごめんね、今日はこれしかないんだ」
そう言ってポケットの中からパンの切れ端を取り出す。アルゲディは、いつも野ネズミや小鳥などに、自分の食事を分け与えてやっている。だからそういった小動物たちは、アルゲディの事を慕っていた。
パンの欠片を受け取った野ネズミは、不思議そうに小首を傾げた。アルゲディの暗い表情を気遣うかの様だ。その人間っぽいしぐさに、アルゲディも思わず表情を和らげた。
地鳴りがした。戦いが始まったのかも知れない。
いつまで生き延びられるだろう。現世喰を撃退し続けても、いずれは息切れする。現世喰に殺される前に飢え死にするかも知れない。助けは来ない。希望はない。
アルゲディはぎゅうと拳を握った。
「……ここもね、もうもたないのかも。助けは来ないし、敵は強いし……君も、早く逃げた方がいいかも。一匹なら、きっと逃げられるよ。ほら、これみんなあげる。仲間にも分けてあげて」
そう言って、残ったパンの欠片もみんな野ネズミにくれてやった。
「わたしも、みんなの役に立ちたいのにな……ごめんね、愚痴なんて聞かせちゃって」
アルゲディは弱弱しく微笑むと立ち上がった。そうしてハクヨウの元へと駆けて行った。
取り残された野ネズミは、しばらく思案顔で立ち尽くしていた。
動物たちの間で、ここのところまことしやかに囁かれている噂話がある。渡り鳥が運んで来たという情報で、遥か東の地に、豊かな緑に覆われた楽園があるのだという。しかし荒野に隔てられたその地へたどり着ける者は、翼を持つ鳥ばかりだと。
しかし辿り着いた鳥たちは、その地の王に歓迎される。王は優しく、困った者や怪我をした者には快く救いの手を差し伸べるとも聞いた。
種の違う動物同士では、話は断片的にしか伝わらない。単なる噂話と言ってしまえばそれまでだ。
それでも、それだけの情報が多くの動物の口に膾炙しているのであれば、でたらめであると断定はできない。
もしそんな場所が本当にあるのだとしたら。そして、王に助けを求める事が出来たとしたら。
野ネズミは何かを決意した顔で、一声ちゅうと鳴いた。
それからパンの欠片を携えてそっと都市を抜け出した。そして小さな四足に力を込めて、一心に東へと走り始めたのである。