5.冬を超えて春に至る
日々同じ生活を繰り返していて退屈かというとそうでもない。魔王時代のアクナバサクは、王城にふんぞり返っていたとはいえ、部下はホネボーンの他はほとんどが他の魔王や闇の神獣から送り込まれて来た監視に近いものであり、何をするにも気詰りであった。
だからホネボーンとナエユミエナという、気の置けない仲間と共に、自分のやりたい事が出来るという今の状況は、アクナバサクには歓迎される事であった。何よりも旧魔領の陰鬱な雰囲気ではなくて、毎日移り変わって行く木々や空模様を楽しむだけの余裕があった。
そんな風に毎日同じ事をしながら、移り変わる魔王谷の景色を眺めてアクナバサクがくふくふと笑っているうちに、次第に谷の背後にそびえ立つ山の頂上に雪が積もり始め、おやおやと思う間に雪が舞い始めた。
雪の中では流石に植樹をするわけにはいかない。
体のいい冬期休暇だと張り切って、雪のあるうちはとにかく遊び回る事をアクナバサクは宣言した。ナエユミエナはもろ手を挙げて賛同し、ホネボーンは肩をすくめて了承した。
魔王時代は雪の中ではしゃぐなぞ到底できなかったアクナバサクは、このふわふわした冷たいものに大興奮して、雪の降りしきる中を満面の笑みで駆け回っていた。
「ひゃーっ! つめたーい! たのしーい!」
段々と辺りが白く染まって来る。地面にも木々の枝葉にもふわりとした雪化粧がまとって、まったく違う世界になる様に見える。
アクナバサクは染まって行く木々を眺めて楽しんだり、唐突に幹を揺らして積もった雪を落としたりして、存分に遊び回っていた。
そうして魔王谷がすっかり雪に埋もれた頃、雲が抜けて青空が出た。
照り返す日の光で白銀の世界は目に痛いほどまぶしかった。
遠い山では頻繁に雪崩が起こっているらしく、山肌は雪煙ですっかりけぶっていた。その冷たい空気が吹き下ろして来て、木々は何だか寒そうに身を縮こめている様に思われた。
ホネボーンがぐるりと辺りを見回しながら、言った。
「見事に積もりましたね」
「そうだな! いやあ、魔王時代にはこんな風景はなかったね」
「地下の溶鉱炉のせいで、谷の気温は高かったですからね」
「雪も積もる前に溶けちゃってたもんね。それが今は貯水池の水もカチンコチンコに凍ってるしな」
「コが多いですよ」
「ナエちゃん、昔はどうだったんよ?」
とアクナバサクが言った。ナエユミエナは冬服でもこもこ着ぶくれている。
「昔は雪もよく降ってましたよぉ。春先の雪解け水が、畑をするのに大事なんです」
「なるほどなー。雪解け水で川が復活してくれればいいんだけど……ささ、仕事だ仕事だ」
寒さに鈍感な丈夫な体を持つアクナバサクだが、どうせなら季節感を楽しもうと、分厚いコートを着てニットの帽子をかぶり、そうしてシャベルを片手に現れた。ホネボーンが呆れた様に言った。
「動きづらくないんですか」
「平気平気。慣れだよ慣れ」
それで張り切ったアクナバサクが「イクゾー」と積もった雪を降ろそうと屋根に飛び上がったら、足を滑らして雪と一緒に落下して、たちまち埋まってしまった。ホネボーンが「おや」と言った。
「王様、大丈夫ですか」
「大丈夫! なんか面白かったぞ、もう一回やろうかな!」
「やめてください」
それで屋根の雪を下ろし、通り道の雪を除けて回った。
雪は冷たいけれど、雨と違って地表を流れて行く事なく長期に渡って地面に水分を供給してくれる。そうやって地中の水が増えて行けば、春が訪れる頃には、川に雪解け水が流れているだろう。
雪で白く染まっている枯れ川と、その向こうに広がる白銀の森を見て、アクナバサクはスコップに凭れながらほうと息をついた。
「嘆声を漏らして、何を感心しているんです」
「いやあ、魔王谷って綺麗な所だったんだなあって、しみじみ思ってさ」
「はあ」
「春になったら雪解け水で川が流れるかなあ。楽しみだなあ」
「急流にならなければいいんですがね」
「こんだけ木を植えたんだからきっと大丈夫だよ!」
「そう願いましょう。それに雨と違って雪はじわじわ溶けますからね」
そこへ、お盆を持ったナエユミエナがやって来た。
「お疲れさまぁ、お茶が入りましたよぉ」
「わーい、お茶だお茶だ」
食物による栄養補給を必要としないアクナバサクだが、時折、嗜好品的な意味合いでお茶を飲んだり、蜂蜜を舐めてみたりする。ナエユミエナがそういう事に詳しいから、その楽しみが増したのもアクナバサクにとっては歓迎する事柄だった。
カップから漂う湯気からは、いい香りがしている。
森には沢山の植物が生えており、薬効を持つハーブなども多い。そういったものを、ナエユミエナが採取して天日に干し、お茶に仕立てている。
こういうひんやりとした日に温かいお茶を飲むのは、何となく気分がいい。ふうふうとお茶をすすりながら、アクナバサクはそこいらを見回した。
除けた雪は土で汚れてまだらになっているが、樹上や岩の上に残っている雪は綺麗で、それが日光を照り返してきらきら光っている。
それからアクナバサクは上流の方に目をやり、魔領の背後を遮る山々を見た。どの山も真っ白で雪煙が漂っている。背後の空が青い分、ひどく輪郭がはっきりしていて、見ているとくらくらする。
魔領は、元々は山岳地帯に位置する土地であった。
高い山を背に、渓谷や丘陵を幾つも抱え、むせ返るほどに自然豊かで、そこに暮らす小さな国の人々は畑を耕し、森から恵みを受け、穏やかに暮らしていた。
そこに闇の神獣や魔王たちが降臨し、人間の国を滅ぼした後、魔族の本拠地としてあれこれと仕掛けをこしらえたものだから、自然は穏やかさを失い、恐ろし気な雰囲気を放つ様になった。
アクナバサクは在りし日の魔領の姿を思い出してみた。
谷の上部にあったアクナバサクの居城は、申し訳程度の大きさだったが、眺めはよかった。そこから見る谷川には水が流れていたが、そこには水魔が住んでいた。
国境付近に防衛の為に残された森の木々には蔦や樹上蘚類がぶらさがり、あちこちに淀んだ沼が気泡を上げていた。草を掻き分けて行こうにも、足元を引っ張る妖魔がいて、容易に先に進めなかった。
周囲の山々には地下道が穿たれ、地底には巨大な溶鉱炉が設えられた。
鉱石の発掘と精錬が行われ、昼夜を分かたず炎が赤々と燃えて、それらが地上のあちこちの穴からちろちろと吹き出す有様だった。そのため地熱が上がり、多くの植物は枯れ、谷はいつも奇妙な熱気に包まれていた。
そんな風だったから、人間の軍勢は攻めるのにかなり苦労した。
しかし最終的には人間たちはそれらをすべて乗り越えて、森や施設を残らず破壊して焼き尽くし、坑道や地下施設を埋め、魔領をまっさらの更地にして去って行った。
そうして現世喰がそれを更なる不毛な大地に変え、今はアクナバサクたちが木を植えている。何だか変な話だと思う。
「はー、昔の事を思い出すと変な気持ちになるな。よっしゃ、体を動かして余計な考えを吹き飛ばそう」
アクナバサクはうおーとシャベルをかかげて、猛然と雪を掻き始めた。
それで雪掻きがてら領地を見回ったり、ナエユミエナと二人で無暗に巨大な雪ダルマを作ったり、かまくらで一夜を過ごしてみたり、嫌そうなホネボーンも巻き込んで三人で雪合戦をしたり、植樹が出来ない冬の間は、アクナバサクはそんな風に思う存分に遊んで暮らした。冬の間、雪は度々舞い落ちて、魔領を真っ白に染めた。
そのうち春の気配が漂い出したと思ったら、木々の枝先に宝石の様な芽が膨らみ始め、たちまち新緑が辺りに広がり出した。
雪は日陰にだけ残り、地表には以前にも増して種々の草たちが萌え出で、冬の間に姿を消していた虫たちがあちこちで盛んに動き回り、急に生命の気配が濃くなった様に思われた。
アクナバサクは急激に張り切ってどたどたと駆け回り、新たに木を植えたり、虫の観察をしたりと、春の訪れを全力で満喫していた。
アクナバサクたちが本拠としている最初の大木周辺はすっかり森になった。そこから見える範囲にはすっかり木が植わり、下草もわさわさと茂って、元が不毛の大地である事が信じられないというくらいにはなって来た様である。
しかし冬の間に枯死していつまでも芽を吹かない木もあった。しかしそんな木はいずれ新しい草木の床となるだろう。アクナバサクたちは領内を隅々まで見て回り、木を植え足したり地形を整えたりした。
虫の数もずいぶん増えた。そろそろ次なる動物を生み出してもいいのではないかとアクナバサクたちは作業の合間に話し合っている。
「もう少し虫たちの活動を観察してからですね。繁殖率を確認しておきたいので」
「まあ、そうだよね」
「でも見た感じかなりの数になりましたねぇ」
「ホントホント。ナエちゃんのおかげよ」
「えへへ」
「けどいつまでもナエちゃん頼りでもいかんよね。自然に動物が来てくれるならそれに越した事はないんだけど」
「そうですねぇ」
「しかし王様、私たちが最初に植物を探しに行った時、歩いても歩いても荒れ地が続くばかりだったでしょう。動物が超えて来るとは思えませんが」
「あー、そうだったな……ここがこういう環境だって解って向かって来るんならともかく、餌探しなんかにはまず来ないよなあ」
三人はちょっと黙って銘々に沈思した。
しばらくして、ふと思い起こした様にアクナバサクが顔を上げた。
「あのさ」
「はい」
「あのウマ……ウ……うっしょい、わっしょい」
「現世喰です。それがどうしました」
「あれってさ、周囲の色々のエネルギーを吸い取っちゃうんだろ? ここらにはあの大型のが一体だったけど……普通さ、そういうのって、餌がなくなったら求めて移動するよね?」
「そうですね」
「魔領で研究してた現世ぐるいって一匹じゃないよね?」
「現世喰です。確かに生物兵器ですから、それなりに数はあった筈ですが」
「……多分、人間の領地に侵攻した個体もいる、よね?」
「可能性としてはありますね」
「広い範囲が荒れ地になったままだったって事は、あれが倒されて生命エネルギーが元に戻ったわけじゃないって事でしょ? 人間、あれに勝てるのかなあ?」
「私の魔法が効きませんでしたからね。少なくとも苦戦はしそうですが」
「……世界、滅亡してたらやだなあ」
アクナバサクがぽつりと言った。ホネボーンは黙っている。何だかよい方向の想像が働かなくなったらしく、アクナバサクは何となくしょんぼりして俯いてしまった。
ナエユミエナだけは、話が見えないのかきょとんとしていたが、ふと何かに気づいた様に顔を上げて、空を見上げた。そうして嬉しそうに腕をぱたぱたと振る。
「アクナちゃん、アクナちゃーん」
「あん?」
「上、上」
アクナバサクは怪訝な顔を上に向け、そうして目を見開いた。
「鳥だーッ!」
「おや」
ホネボーンも感心した様子で上を見ている。
「ふむ、渡り鳥でしょうかね。これは中々幸先が、あ、ちょっと王様」
アクナバサクは作業をほっぽりだして、鳥の飛んで行く方角に突っ走って行った。ホネボーンは呆れ顔で、ナエユミエナはにこにこしながらその後を追っかけた。
鳥たちは貯水池へと降り立った様だった。
既に縁まで駆け上がっていたアクナバサクが、ぶんぶんと千切れんばかりに手を振っていた。
「おーい、おーい、こっちこっち!」
「王様、落ち着いてください」
「わたしは至極冷静だっつーの! 見ろ、鳥が水浴びしてるぞ」
「雁みたいですね。春になったのでどこからか渡って来たのでしょうか」
「鳥も来るって事は、まだ世界は滅亡してないみたいだ。いやあ、よかったなあ」
「はあ」
アクナバサクは、くちばしで毛づくろいをする雁の群れを眺めて、にへにへと表情を緩めた。
その横で、ナエユミエナが池の縁に立って、そっと手をかざした。すると雁たちが顔を上げてナエユミエナを見る。そうしてがあがあと鳴いた。ナエユミエナはにっこり微笑んで頷いた。
アクナバサクは首を傾げる。
「ナエちゃん、何してるん?」
「あっ、ちょっと鳥さんと意思疎通を」
「鳥語が堪能でいらっしゃる!? 意外な才能をお持ちなんですね!」
「いえ、ざっくりとしか解りませんよぉ」
「何て言ってるの?」
「休みに来たって」
「それだけ?」
「この子たち、長い返事はしてくれないんです」
「まあ、鳥頭っていうしな……でも来てくれただけでいいや。はー、可愛いな。いやあ、愛でたい愛でたい」
はしゃぐアクナバサクの横で、ホネボーンが思考する様に顎に手をやっている。
「休みに、という事はここが目的地ではないという事ですね。となると渡り鳥が居場所を変えられる程度には、外界にも自然が残っていると考えてよさそうです」
「だよね! あー、よかった。世界滅亡してなくて」
アクナバサクはホッと胸を撫で下ろし、改めて池で遊ぶ雁たちを見た。灰色の羽が美しい。羽を広げ、くちばしで体をくまなく繕っている。そうしてぱしゃぱしゃと水を跳ね飛ばしながら時折があがあと鳴いている。
「とても充実した気分です」
「はあ」
「ねえナエちゃん。あいつらまた旅立つんだよね?」
「そうだと思いますよぉ」
「だったら、旅先で鳥たちにここの事を教える様に言ってくれない? ナエちゃんが生み出してくれるのもいいんだけど、やっぱり自分で来てくれる鳥もいた方が嬉しいし」
「はぁい、解りましたぁ」
それでナエユミエナは両手をかざして雁たちの方を見ている。
鳥たちは水を浴びながら、時折ナエユミエナを見、があと返事をする様に鳴いた。鳥語、というよりも一部の上位存在による言語を持たない生物へのコンタクト方法らしい。
「はい、一応伝えましたよぉ。ちゃんと覚えてくれるといいんですけど」
「鳥頭だからな。ま、来れば儲けものくらいに考えておこう」
それからアクナバサクは、雁たちが飛び立つまで飽きる事無く、池のほとりでそれを眺めていた。
やがて雁たちは目的地を目指して一斉に飛び上がり、Vの字を作って北に向かって行った。アクナバサクは両腕を大きく振って、その姿を見えなくなるまで見送った。
「さようならー、元気でねー」
「無事に辿り着けるといいですねぇ」
「ねー。そして他の鳥たちにここの事を伝えてくれるといいんだが……そして始まるウルトラソ――魔王谷新時代。ワクワクしちゃうね!」
「もしそれで鳥さんたちが来た時の為に、もっと森を大きくしないといけませんねぇ」
「だね。よーし、やったるで。ナエちゃん、ホネボーン、わたしについて来い!」
「もう日が暮れますから明日にしましょう」とホネボーンが言った。
「出鼻を挫かんといて!」
〇
高く、分厚い城壁があった。灰褐色の巨岩が組み合わされたそれは、月明かりを冷たく照り返して光っていた。
その都市は、古い時代から増改築を繰り返された城塞都市である。高台に位置し、遠方を見渡す事も出来るし、守るに易く攻めるに難い。内部の町は交易の要所として栄え、人も物も頻繁に行き交っていた。
しかしそれはかつての姿だ。昔は豊かな田園地帯が広がっていた城壁の周囲は、今では草一つ生えぬ荒れ地へと変貌している。
荒れ地のそこかしこには戦いの爪痕が色濃く残っている。地面がえぐれ、折れて壊れた武器が転がっている。比較的古いものばかりだが、いくらかは新しいものもあった。滔々と流れていた川も今では枯れ果てて、わずかに湿り気を残すのみだ。
その城塞の一部は、何者かが力任せに破壊した様に崩れていた。かつては絢爛さを誇った都市内部は既に廃墟ばかりが広がり、かつての威容はもうない。
その廃墟の中で、誰かが戦っていた。
一方は確かに現世喰である。かなりの大きさだ。
強靭そうな咢、剣も通さぬ様な甲殻に身を包み、周囲には不気味な黒い靄を漂わせている。瞼のないむき出しの目は赤くぎらぎらと光っていた。しかし谷でアクナバサクたちが対峙したものと違って、その個体は後肢が大きく発達し、その為に二足で立っていた。そうして腕は四本。いずれも昆虫の様な甲殻と節があり、先端には鋭い鉤爪が、月明かりを冷たく照り返していた。
その現世喰を相手取っているのは二人の少女である。
片方は長い茶髪を束ねており、もう一方は青みがかった黒髪を肩辺りで切りそろえている。どちらも十、十一といった年の頃だ。とても武器を握って戦う年齢には見えないが、それでも茶髪の方は剣を、黒髪の方は弓矢を携えて、現世喰と相対していた。
「はぁ……はぁ……うぅ、キシュクちゃん、こいつ強いよぉ」
と茶髪の少女が言うと、キシュクと呼ばれた黒髪の少女が檄する様に叫んだ。
「頑張るのです、アルゲディ! 次こそはボクがこいつの急所を射抜いてやるのです!」
「でも、動きが速過ぎて……うわわっ」
少女たちがもたもたしている間に、現世喰は鉤爪を振り上げて、素早い動きでかかって来た。アルゲディは慌てて剣で受け止めるが、剣は一本、鉤爪は四本である。たちまち防戦一方の様相を呈した。
「キッ、キシュクちゃーん! はやくぅ!」
「むむむ……! そこだあーっ!」
キシュクは一声上げ、限界まで引き絞った弦を放した。
矢は魔力を帯びて白い光を放ちながら猛然たる勢いで現世喰へと向かい、目と目の間に突き立った。
現世喰がうめき声の様な雄たけびを上げ、悶える様に四本の腕を滅茶苦茶に振り回す。アルゲディは慌てて距離を取ったが、細かな傷が腕に走り、血が滲んでいた。
「アルゲディ! 怪我はないですか!」
「う、うん。大丈夫だよぉ……やった、かなぁ?」
「思いっきり眉間を射抜いたのですよ? あんなに苦しんでるし、倒していない筈ないのです!」
とキシュクははふんすと鼻を鳴らした。
しかし現世喰はひとしきり暴れたのち、眉間に矢が刺さったまま、猛然と二人に向かって来た。
「うええっ、あれで倒せないのですかあっ!?」
「うう、もうやだよぉ……」
アルゲディはべそをかき始めたが、キシュクはキッと現世喰を睨みつけて弓を構え直した。
「でも、逃げるわけにはいかねえんですよ! ボクたちが頑張って、少しでも初代様を休ませてあげないと!」
「――ッ! そ、そうだよね……! 泣いてる場合じゃ、ないよね」
アルゲディも涙をぬぐい、剣を構え直した。二人は果敢に現世喰にかかって行ったが、物凄い勢いで振るわれる鉤爪に、段々と体の傷は増えて、ついには満身創痍となって膝を突いてしまった。
現世喰が足を止め、動けなくなった二人を見下ろす。表情というものはないが、真っ赤に輝く目が、二人をあざけっている様に見えた。キシュクがふらつきながらも弓に手を伸ばす。
「ぐっ……馬鹿に、すんなです! お前なんか……」
「キシュクちゃん!」
アルゲディが悲痛な声を上げる。現世喰が鉤爪を振り上げた。
その時、凛とした声が響いた。
「待て! わたしが相手だ!」
二人はハッとして辺りを見回す。二人の頭上を軽々と飛び越えて、誰かが現世喰の面前へと降り立った。
純白の髪に純白の服をまとった美しい少女だ。年の頃は十七といったところ。しなやかながら細身の体躯は一見頼りなさげであるが、しゃんとした背筋と真っ直ぐな視線は、不思議と人を安心させるものがあった。
「ハクヨウ姉さん!」
「初代様! どうして……!」
ハクヨウ、と呼ばれた少女は右手を前に出してひゅうと振り抜いた。すると、手の先にはいつの間にか輝く剣が握られている。柄から刀身までが形のある光といった風で、彼女の魔力によって生み出された魔法の剣らしい。
「下がっていなさい」
ハクヨウは二人に微笑みかけた。
キシュクとアルゲディは何か言いたげに口をもごもごさせたが、それでも黙って後ろに下がる。
現世喰は巨大な咢を広げて、うめき声の様な不気味な雄たけびを上げる。
「来い!」
ハクヨウは一歩も引かずに剣を構えてそれを迎え撃った。四つの鉤爪と魔法の剣とが激烈な打ち合いを展開する。月明かりの中で残像すら見える様な応酬に、後ろで見守る二人は思わず息を呑んだ。
やがて、振り下ろされた前肢の一本を、ハクヨウの剣が根元から切り落とした。そのまま飛び上がって頭を踏みつけ、現世喰の後ろへ着地する。そうして今度は後肢を横なぎに切り払った。
現世喰がバランスを崩して地面に倒れ込む。それでも首をもたげて、ハクヨウに食いつこうとする。
「無駄だ」
光の剣が振り上げられ、そうして振り下ろされた。
現世喰の首が落ち、残った体が急激に崩れて光る粒へと変わって行く。ハクヨウは右手をかざした。光の粒が集まって来て、やがて小さな光る玉になって、手の中に収まっていた。
「……この程度にしかならないか」
と言いかけてから、ハクヨウは慌てた様に口元を手で押さえた。急にこみあげて来た様に咳き込む。
軽いものではない。胸の奥を抉るかの様な激しい咳だ。口元を押さえた指の間から鮮血が滴って、彼女の純白の装束に赤い染みを作った。
「ぐっ……げほっ……くそ、この程度の戦闘で……」
ハクヨウは地面に突き立てた剣にもたれながら、口惜し気に歯噛みした。
「……奴ら、また変異している。明らかに力を増しているのに、ため込んだエネルギーはこれっぽっちか」
キシュクとアルゲディが慌てた様にやって来た。
「初代様! ああ、血が……ど、どうしよう、どうしよう」
「わたしたちが仕留められなかったから……うえぇ、ごめんなさい……ごめんなさぁい」
縋りつきながらぽろぽろと涙を流す幼い娘二人を、ハクヨウは優しく撫でてやった。
「気にするな。反応が小さかったからといって任せてしまってすまなかったな……二人ともよく頑張った。ほら、わたしは平気だ……さ、帰ろう。ゆっくり休んで、次の襲撃に備えないと」
「あ、あの、グリーゼ姉さんとシャウラちゃんは……? 別の所で戦ってる筈で……」
とアルゲディが言った。
「ああ、解っているよ。これを持って、先に戻ってくれるか? 大丈夫だとは思うが、わたしは二人の方も見てから戻るから」
そう言って、ハクヨウは手に持った光の玉をアルゲディに渡した。二人は涙ぐみながら頷き、互いを支え合う様にしながら城塞の方へと歩いて行った。
それを見送りながら、ハクヨウは大きく息をついた。
「……こんな事が、いつまで続くのだろう」
歩き出しながらぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれる事もなく風に吹かれて消えた。
闇の神獣の討伐から二百年の間、魔族の脅威が除かれた大陸で待っていたのは、大国同士の戦乱の時代であった。魔領から手に入れた技術は人間たちの兵器や技術も進化させ、戦いは激しさを増して行った。
人間たちは現世喰も発見し、秘密裏に確保して生体兵器として実験を繰り返していたものの、やはり実用化には至っていなかった。
魔王デモナスゴスが作った生物兵器は、彼の魔術式と技術によって「魔人の力」、そして「女の肉体」の両方を持つ者にしか傷つける事が出来ないという制約を持っていた。
強力な制約はデメリットも同時に発生させる。魔法とはそういうものだ。高い山を作る為には深い谷を掘らねばならない。現世喰は強力だったが制御が出来ない怪物で、人間たちも制御する技術を得る事が出来ぬまま、研究所の片隅で魔術牢に入れっぱなしになっていた。
しかし泥沼化する戦況に業を煮やしたのか、ある日ついに現世喰が解き放たれる。殺し合いの激化は倫理感を麻痺させるものらしい。
屈強な戦士も熟練の魔法使いも相手にならない現世喰は、たちまち戦況を傾かせたが、制御不能な性質と、意図しない変異によって増殖を始めた事によって暴走し、解き放った国が最初に滅亡する事態になってしまった。
こうなっては戦争どころではない、と国々は現世喰への対策を練った。
そうして人魔戦争時代の遺産を元に、何とか魔王の因子を組み込んだ少女のホムンクルスを生み出し、現世喰に対抗する事になったのである。生み出された少女たちは『魔姫』と称された。
魔姫たちは身に宿した魔王の力によって現世喰と戦い、何とか現世喰の侵攻を遅らせる事には成功した。しかし依然として、現世喰に奪われた地は取り戻せていないし、問題は解決したとは言い難い。
今のところ、現世喰たちは各地に点在して彼らだけのコロニーを形成し、そこから人類へと攻撃を行っている状況である。彼らを滅ぼす事は出来ていないが、防衛に力を割けば一応の平穏を手に入れる程度にはなっている。解決していないが、解決していないという事が日常化した。異常事態も、それが続けば異常事態ではなくなるわけだ。
そんな風になまじ事態に適応した為、今は人間同士の小競り合いまで起こる始末だ。西側の諸国では、既に戦争の火種がくすぶっている。
しかしさっきの様に現世喰はまだ変異を続けている。いつ防衛ラインが破られるか解らない。危うい均衡を保っているのだ、という危機感を保っている者はそう多くないらしい。
城塞都市の住民たちは、まだ国の残っている西部へと移って行った。
現世喰の侵攻を食い止める、という理由でハクヨウや幾人かの魔姫が残されたが、どの魔姫も力が弱く、切り捨てられた事は容易に想像できる。しかし魔姫として生まれた以上、彼女たちは戦う意外に生きるすべを知らない。
ホムンクルス作成の技術も安定しているとは言い難く、魔姫そのものは続々と生み出されているものの、魔王の因子を濃く持って生まれて来る者は少ない。因子が薄ければ現世喰との戦いもままならない。数少ない“成功作”の魔姫たちは人間たちに連れられて西へと行った。
かつては“成功作”であったハクヨウの様な、既に百年近く戦い続けている第一世代の魔姫たちも、度重なる戦闘と時間の経過で肉体が次第に限界を迎えようとしている。長時間の戦闘は勿論、短期間の戦闘ですら肉体が悲鳴を上げてしまう。そのハクヨウが一番の戦力となるくらい、都市に残された魔姫たちの力は弱かった。
この都市はそういった、いわゆる“役立たず”たちの取り残された場所となっていた。
かつては防衛ラインを形成していた拠点のひとつではあったが、今ではそのラインはとっくに突破され、都市は完全に孤立してしまっていた。
援軍が来るまで持ちこたえよ、という言葉を信じて戦い続けていたハクヨウたちであったが、既に防衛ラインが後退し、都市が現世喰に包囲されている事を知った時は愕然としたものだ。
逃げ道は断たれた。助けは来ない。戦いに身をやつし、緩慢に滅びを待つばかりの状態である。
現世喰はいなくならない。むしろ、最近は統率が取れて来た節すらある。
ただ闇雲に攻めて来るだけならば、まだやりようがあった。倒した時の生命エネルギーを得る事が出来れば、ここに踏みとどまれる時間も伸びるだろう。尤も、それは死への時間をほんの少し伸ばしているだけに過ぎないのかも知れないが。
しかし最近は、こちらの疲弊を誘う様に寄せては引いてを繰り返している。
戦闘の消耗に対して得られるものが減った。強力な割にエネルギーの少ない現世喰ばかりが襲撃して来る。その現世喰たちからも、こちらをじわじわとなぶり殺しにしているかの様な、じっとりとした悪意を感じる。
変異を繰り返し、知性を得た個体が出現していたとしたら、とハクヨウは身震いした。
「げほっ……ごほっ、ごほっ」
再び咳と共に血が吐き出される。
滅びが運命なのか? とハクヨウは足を止めて月に問いかけた。
月は黙して答えず、ただ月明かりを冷たく投げかけるだけだった。