22.集合
夜が来た。寒気が空から降りて来て、肌にひりひりと冷たい。
ハクヨウとレーヴァティは拠点で眠りについたが、アクナバサクは、ずっと術式を刻んでいるホネボーンの傍らで、退屈そうに腰を下ろしていた。
「まだかよー」
「まだです」
「早くしろよ」
「もう少しです」
さっきからこんなやり取りを繰り返している。睡眠の必要があるというのは、実は幸せな事なんだろうなあとアクナバサクは思った。寝ないで済むというのも、それはそれで不便なものである。
生き物のせねばならない行動というのは、やはり何かが欠けても妙に不自然だ。食事然り、睡眠然りである。作られた存在である筈の魔姫もそれらは備わっていて、彼女たちは身体能力と、年を取らないという事を除けば人間とほとんど変わりがない。
「我々は不自然な存在なんだねえ」
「はあ」
「お腹ペコペコで食べるご飯がきっとおいしい様に、頑張って頑張って、へとへとになってから眠る晩はきっと幸せに違いない。そういうのがないのは何だか寂しいね」
「そうですか」
「生きている実感というものは、案外不足しているものから来るのかも知れないネ。足りないものを補おうとする瞬間に」
「だからです」
「なにが」
「レーヴァティの事です」
「どういう事」
「その実感を思い出に求めているのです」
「ははあ、成る程ね。そんなになるくらいの思い出ってのは、ちょっと羨ましくもあるね。わたしらは思い出に碌なもんがないからな。はははは! ……笑っていいのか解らんな」
アクナバサクは嘆息して、背後にある木に寄り掛かった。
石柱にはどんどん術式の紋様が刻まれている。非常に細かい。暗い中ではどんな紋様なのか解りづらいが、魔王谷のものよりもより細かい様だ。
「随分細けえなあ」
「距離が遠いですから。ここで手を抜くと体がばらばらになります」
「なにそれこわい」
「転移の術式は、一度肉体をエネルギーに変換し、その後、ポータル同士でつないだ魔力の糸を辿って移動します。その後、エネルギー化した肉体を再構築する必要があるのですが、距離が長くなるとその情報がやや不安定になる場合があります。そうならない様に、備えの術式を幾重にも展開しておく必要があるのです。そうでなくては、手足や頭の位置がもつれて、再構築された際にとんでもない事になる可能性があります」
「つまり大変って事だな」
「はあ」
「まあ、そんなら仕方がない。みんなが粉々にならない様に、頑張ってやってくれたまえ」
「はあ」
そうとなれば急かすわけにもいかず、アクナバサクは退屈まぎれに散歩でもしようと立ち上がった。
今夜はいいお天気である。しかしその分寒気が降りて来て、青々と茂っていた木々の葉が凍り、翌朝には萎えて枯れてしまうであろう事が想像できた。葉だけではなく、細い枝の先端など、生長点が寒気にさらされれば凍傷の様になってしまう。
アクナバサクは腕組みした。ちょっと森の復活を急いじゃったか知らと思った。冬のど真ん中に葉を茂らせても、常緑樹ならばともかく、落葉樹などはひとたまりもあるまい。
ともかく、生えてしまったものは仕方がない。枝の枯死は仕方がない。
本体が死ななければ、春になれば芽吹く筈だ、とアクナバサクはあちこちの木に死なない程度に少しずつエネルギーを“与え”て回った。
今夜は現世喰の気配がない。ここ数日の間に、変異体も含めてかなりの数を返り討ちにしたそうだから、向こうも少し様子を見ているのかも知れない。
ひと暴れする方が暇が紛れていいのだけれど、とアクナバサクは身も蓋もない事を思う。いっそこのまま現世喰のコロニーに殴り込みをかけてもいいな、と思ったけれど、流石にやめておくことにした。それくらいの分別はアクナバサクにだってある。
実際にやる事がなくなってしまえば、想像の世界に揺蕩う他ない。アクナバサクはこの地が谷の様に緑の蘇った風景を想像してみた。
この辺は谷に比べて地形が平坦である。しかし所々に丘の様な場所もある。
起伏が少ない分、日当たりはどこもよさそうだ。水の通りを考えて、どこにどう川を通し、どんな木を植えてどんな風に広げて行こうか、という事を考えると、どんどん思考が広がって行って楽しくなって来た。
「広場の噴水跡は水源になるなー。そこから水路を通して、両岸にはやっぱり柳かな。白樺林なんかをその後ろに広げてもいいなー。実のなる木をいっぱい植えれば、旅鳥の中継地点になるかも知れん」
ぷつぷつ呟きながら歩き回る。森の際の方は防衛の手が回らなかったせいか、立ち枯れして崩れかけた木も多かった。いずれはここまで全部森にしてやるんだ、とアクナバサクは息巻いた。
そうして翌朝である。上った日がそこいらを照らすと、霜がきらきらと光って目に眩しい。
ホネボーンが石柱の前で腕組みして立っている。刻み終えた紋様をしけじけと眺めている様子である。
「終わったのかよ」
「点検中です」
そうらしい。
術式はアクナバサクが見てもちっとも解らない。ホネボーンは時折指でなぞる様にしながら石柱をぐるりと回って、そうして頷いた。
「大丈夫でしょう。これで問題なく起動できる筈です」
「よしよし、いい子だぞ。褒めてつかわす」
「光栄です」
「レーちゃんとハクにゃんを起こして来るかな……それとも起きるまで待っててあげようか?」
辺りはまだ夜が明けたばかりである。日の光は頭上ではなく横から差して来るという風だ。
「一度我々だけで転移を試してみましょうか」
「そうだな、そうしよう。粉々にならなけりゃいいんだが」
とアクナバサクはちょっとドキドキしながら石柱に手を触れて魔力を流す。すると触れた所から紋様に光が走り、その光が広がって、石柱の先端の魔晶石が光り出した。振動する様な低い音が腹の底に響いて来た。
「あれ、地図が出ないぞ」
「ここは遠方ですから、地図の表示をすると膨大な事になります。ですからこちらから谷に行く際は、屋敷の前のポータルのみに設定してあります」
「なるほどねー。まあ、確かにここから谷のあちこちに行く状況はないわな。よーし、イクゾー、俺ら魔王谷さ行ぐだー」
魔晶石から放たれた光がアクナバサクとホネボーンを包んだ。酩酊にも似た感覚の後、足元の感触がなくなって、落ちる、と思った時には雪の中に墜落した。
「どああっ、つめたっ!」
「いい加減に慣れたらどうです」
危なげなく着地したホネボーンが呆れた様に言った。
「あらあ、二人とも。お帰りなさぁい」
誰もいないと思っていたのに、屋敷の前にナエユミエナがいて、驚いた顔で二人を出迎えた。彼女の周りには大小の鳥が集まっていて、振りまかれたらしい穀物をついばんでいる。
「ナエちゃんだ、おはよー。何してんの?」
「この子たちにご飯を上げてるんですよぉ。冬はあんまり食べ物もありませんからねぇ」
鳥たちを肩や腕にとまらせて、朝日に照らされているナエユミエナの姿は、彼女が豊穣神だという事を思い起こさせる様だった。
アクナバサクは思わず両手を合わした。
「ありがたやー、ありがたやー」
「えー、なんでアクナちゃんが拝んでるんですかぁ?」
「だって谷の生き物たちのお世話をしてくれてるんだなあ、って思って……」
「あはは、いいんですよぉ、好きでやってるんですからねぇ。あ、転送装置が稼働したって事は、そのレーヴァティちゃんがこっちに来るんですかあ?」
「うーん、すぐ来るかは解んないけど……でもその前に、あっちに巣を作ってるノーウーマンノークライをやっつける必要があるんだよね」
「現世喰です」
「そっかあ、大変ですねえ。それじゃあ、谷の魔姫ちゃんたちを連れて行く感じですかあ?」
「そうなるなあ。みんなまだ寝てるでしょ?」
とアクナバサクは屋敷の方を見上げた。屋敷は屋敷妖精たちが騒いでいる。
「冬は野外作業も少ないですからねぇ。でもグリちゃんは毎朝お稽古してますから、そろそろ起きて来ると思いますよぉ」
果たして、ちょうどその時、屋敷から下って来る階段からグリーゼが現れた。普段着に着替えて、槍を携えている。
「あっ、グリちゃん、やっほー」
「あれっ、王様?」
グリーゼは目を丸くしながらも、嬉しげな様子でアクナバサクの元へ駆け寄った。
「今回も早かったな。もしかして、もう転移装置が完成したのか?」
「そうなのよ。でね、一度みんなであっちに行ってだな」
とアクナバサクが現世喰退治の計画を話すと、グリーゼは面白そうな顔で槍にもたれた。
「そうか。いいな、久しぶりに思い切り暴れられる。奴らには容赦する必要がないからな」
「きゃー、頼もしい! そういうわけでさ、皆が起きて来たら早速行こうと思うんだけど」
「うん、王様がそう言うなら異論はない。皆も文句はない筈だ」
「おーし、テンション上がって来た! グリちゃん、皆が来る前に準備運動しようぜ」
「よしっ、今日こそ一本入れる!」
それで二人は向き合って模擬戦を始めた。
ホネボーンは呆れた様に肩をすくめ、ナエユミエナはくすくす笑いながら、朝食の支度をしようと屋敷へ上がって行った。
〇
転移ポータルの石柱の前で、ハクヨウとレーヴァティが突っ立っていた。レーヴァティは目を細めて、刻まれた術式をじろじろと眺めていた。
「……おっそろしいくらい微細じゃの」
「うん。しかもほぼ一発書きだからな……というか、もう完成したのかな? どうしよう。転移してみてもいいんだけど、勝手にやって宰相殿に大目玉食らうのも……」
「あの骨はおっかないんじゃろ? 戻って来るのを待っとった方がええのじゃないか?」
何とも煮え切らない気分である。
もう辺りはすっかり明るくなっていた。木々は寒そうに突っ立っている。復活したばかりの頃の様な青々とした色はもうない。
泉の傍のひときわ高い木を見上げて、レーヴァティがぽつりと呟いた。
「春になれば……」
「ん?」
「いや……春が来れば、ここも昔の様に青々とするんかと思ってな」
「するさ。もっと色んな木が生えて来るだろうね」
レーヴァティは持っていた野太刀を杖の様にしてもたれた。
「……季節は巡るもんじゃな。変化を恐れている場合ではない、か」
その時、石柱の上の魔晶石が輝き出した。刻まれた紋様にも光が走り、死んだ様に黙っていた石柱が急に饒舌になる。
魔晶石からいくつも光の玉が放り出されたと思うや、それは空中で人の形になって、次々に地面に降り立った。ホネボーン、グリーゼ、シャウラ、アルゲディ、キシュク。ナエユミエナは留守番らしく姿が見えない。
アクナバサクはまた着地に失敗して地面に転がった。
「ぐはっ! くそっ、今度こそ上手くいくと思ったのに!」
「王様、運動神経いいのに、どうして転移の時だけいつも転びやがるんですかね」
とキシュクが呆れた様に言った。アルゲディがくすくす笑う。
「でもそういう所が可愛いと思うよ」
「あ、はは、ハクヨウ、と……えっと……」
ハクヨウとレーヴァティに目を止めたシャウラが、ちょっと恥ずかしそうにグリーゼの後ろに隠れる。グリーゼが一歩踏み出してレーヴァティに手を差し出した。
「初めまして、あなたがレーヴァティ?」
突如として現れた魔姫たちに呆然としていたレーヴァティは、ハッとした様に頭を振っておほんと咳払いし、グリーゼの手を握った。
「いかにも、わしがレーヴァティじゃ」
「ふふ、よろしく。わたしはグリーゼ。後ろのはシャウラ。あっちがキシュクで、その隣がアルゲディだ」
「はー、噂通りちっちゃいですねー」
とキシュクが言うと、レーヴァティの眉が吊り上がった。
「ちっちゃい言うな! これでもハクヨウと同世代じゃい! 百年近くお姉さんじゃぞ!」
「ああ……やっぱり、ボクたちに将来性はないんですねえ、アルゲディ……」
とキシュクが遠い目をした。アルゲディが口をもぐもぐさせる。
「キシュクちゃん、だからわたしを巻き込むのやめてよ……」
「どこ見て言っておるんじゃい! くそっ、失礼な後輩どもめ! ハクヨウ! 妹分の教育くらいきちんとしておかんかい!」
「まあまあ……」
ハクヨウは苦笑しながらレーヴァティをなだめた。怒っている様に見えるが、レーヴァティがまんざらでもない様子なのを感じ取っているのだろう。
アクナバサクがぱんぱんと手を叩いた。
「はーい、みなさーん、積もる話はあるだろうけど、ナエちゃんの用意してくれた朝食があるから、それを思う存分いただいてください。そしたら鬱で暗いをやっつけに行くから」
「現世喰です」
バスケットいっぱいのパンに、瓶詰めのジャムが数種類、茹でた野菜と茸のサラダ、干した果物とナッツ、瓶に入った果物のジュースなどがあった。
レーヴァティは「おお」と目を輝かせる。
「ご、ご馳走じゃあ……」
「流石、転移が出来るとなると、量も多く持って来られるね」
ハクヨウも嬉しそうである。
それで食事になった。アクナバサクから事情を聞いているせいか、谷の魔姫たちはしきりにレーヴァティに話しかけ、あれこれと話をしていた。レーヴァティは食事に舌鼓を打ちつつも、律儀に返事をし、段々と会話が弾んで来ている様に思われた。アルゲディやキシュクの様な幼い魔姫などはレーヴァティに寄り添って何だか嬉しそうだ。
レーヴァティも、なんだかんだ言って、こうやって魔姫同士で話すのは嬉しい様である。最初はぎこちなかった様なのが、次第に表情がほぐれて、それと同時に態度も柔らかくなっている。腹がくちくなって来たのもあるかも知れない。
いずれにせよ、魔姫たちはたちまち打ち解けて、互いの苦労話だとか思い出話などで盛り上がっていた。
それを眺めながらアクナバサクはうむうむと頷いた。
「よかったなあ」
「はあ」とホネボーンが言った。
「レーちゃんも嬉しそうじゃないの」
「そうですね」
「後は過去に決着をつけるだけ、というわけだネ」
「はあ」
「食休みを挟まないとポンポン痛いになっちゃうから、少ししてから攻め込むぞ。ホネボーン、お前どうする?」
「ご一緒します。戦闘のお役には立てませんが、確認したい事もありますので」
「何を?」
「現世喰の変異具合を確かめます。それによって制約の度合いがどうなっているのかも気になりますので」
「ほーん……まあいいや、そういう事はお前に任せる」
「はあ」
賑やかな食事が終わり、何だか眠くなる様な心持だった。
レーヴァティはふあとあくびをして、両腕をいっぱいに伸ばした。
「……お腹いっぱいじゃ」
「レーちゃん、めっちゃ食ってやがったですね。この体のどこに入ってやがるんですか」
とキシュクが無防備なレーヴァティの腹をぽんぽんと撫でた。レーヴァティは身をよじった。
「やめんかい、こしょばい」
「えへへ……お昼寝したくなっちゃうね」
とアルゲディがレーヴァティに寄り掛かる。反対側にはキシュクがいる。つまりレーヴァティは二人に挟まれている状態である。こうやって並んでいると、幼い子供が肩を寄せ合っている様にしか見えない。
シャウラがグリーゼにささやいた。
「かか、可愛い……ね」
「そうだな。なんかこう、なごむ光景だな」
食後のまどろみも手伝って、何となく雰囲気に締まりがなくなって来た。
その時ホネボーンが杖で手近な木をかんかんと叩いた。
「起きなさい。このまま憩っていては日が暮れます。現世喰を攻撃する算段を立てますよ」
たちまち魔姫たちは緊張した面持ちで居住まいを正した。やっぱりこの骨の事はちょっと怖いらしい。
「王様、どういう作戦で行きますか」
「えっ。あ、こう、がーって行ってどーんって!」
「わかりました。ではこの廃村の防衛に一名を残し、後の全員で巣を叩く事にします」
「あれ、わたしの意見聞いた意味あった?」
「残りたい者はいますか」
とホネボーンが言うと、シャウラがおずおずと手を上げた。
「た、た、戦いは好きじゃない、から……そっそ、それに、まもっ、守ってる方が、とと得意……」
「ではそうしましょう。シャウラ、この石柱はしっかり守る様に」
「はひっ」
シャウラは緊張気味に頷いた。グリーゼがその背中をぽんと叩いた。
「大丈夫、すぐに片付けて帰って来るからさ」
「う、うん……ま、ま、待ってる」
レーヴァティが野太刀を担いで立ち上がった。
「チッ、こんな事なら、たらふく食わにゃよかったわい……ま、食後の運動じゃな」
「レーヴァティ、ここから巣までの距離と道程が解りますか」
「大体はな。わしは討伐に赴いた事はねえからの」
「構いません」
「よーし、イクゾー。日が暮れる前に片を付けて、夜は思う存分憩ってやるぜ、がははは」
とアクナバサクが拳を手の平に打ち付ける。
持ち物を点検したり、体を曲げたり伸ばしたり、魔姫たちも銘々に動き始め、のんびりしていた雰囲気が一転、騒がしくなり始めた。
レーヴァティは刀の柄を握り直した。今日は何かの区切りになるかも知れない。しかし、少し前までは恐ろしかったそれが、不思議と今は向き合える様な気がした。
他の魔姫たちと出会ったからだろうか。
現金なものだ、とレーヴァティは少し自嘲した。
それでも、今はこうして肩を並べられる仲間がこれだけいるのが心地よい。
「……よっしゃ、行くか。ついて来いや」
レーヴァティは野太刀を担ぎ、歩き出した。