12.ようこそ魔王谷
旧魔領の森は着実に広がり、精霊や精獣、妖精の数も増えていた。野菜や木の実がたわわに実り、川には魚が跳ね、空には鳥が飛んでいる。生と死があり、生者は死者となり、死者は生者を生んだ。
アクナバサクとホネボーンが野ネズミと共に西へ旅立ってから、留守番を仰せつかったナエユミエナは、毎日森の際にまで行って帰りを今か今かと待っていた。ずっと地中に封印されていた彼女は、やっぱり独りぼっちが寂しいのであった。
その日も夜明け前に森の縁まで出かけて、大きく育った木の枝に腰かけて西の荒野を眺めていると、夜明けの薄明かりの中、向こうの方に砂煙が立っているのが見えた。
目を細めてよく見ると、何かが凄い勢いでこちらに向かっている事が解った。
「わあ……帰って来たあ」
ナエユミエナは歓喜に顔を染めて、ひょいと木から降りた。そうして森の入り口に立ってアクナバサクたちを待つ。
果たして小一時間ほど後、大きな幌付きの荷車を引っ張ったアクナバサクが到着した。要するに馬の代わりをしたのである。
ナエユミエナが両腕を広げ、満面の笑みでアクナバサクを迎え入れた。
「お帰りなさぁい」
「おー、ナエちゃんただいま! 変わりなかったかね?」
「悪い事は何も起こってないですよぉ。あらぁ?」
と荷車の中を見て首を傾げる。ハクヨウたち魔姫がひっくり返っている。眠っているらしい。
「この子たちはぁ、どうしたんですかぁ?」
「ああ、説明すると長くなるんだけど、魔王谷の新しい住民だよ」
「人間さん……じゃないですねぇ? ホムンクルス、ですかぁ?」
「おっ、流石察しがいいね! 魔姫っていうちょっと特殊な子たちなんだよ。まあ、詳しい事は屋敷に帰ってから説明するよ。急いで帰ろうと思って速度重視で来たら、揺れまくって気絶しちゃったみたいでさあ。夜だったし、そのまま寝ちゃったみたいだわ」
とアクナバサクは屈託なく笑った。一人だけ無事なホネボーンが嫌そうな顔をしている。骨なのに表情豊かである。ナエユミエナは思わず笑ってしまった。
それでアクナバサクは屋敷まで荷車を引いて帰った。森の中は鬱蒼とし始めていて、種々の植物が所狭しと伸びている。
空けたのはたった数日の間だが、荒れた土地ばかり見て来たせいで、森の自然がより活き活きと目に迫って来る様に思われた。
「さて……どうすっかな? 起こすのも可哀想か。このままぐっすり寝かしてやろうかな?」
「それがいいでしょう。屋敷妖精のおかげで屋敷は整っているんですから、空いた部屋の寝床に転がしておけばいいと思いますよ」
ホネボーンが面倒臭そうに言って荷車を降りた。
「お前どうすんの?」
「持ち帰ったものを調べます。魔姫たちは王様の好きになさってください」
「マジでー? いいのかー、そんな事言っちゃってー? 愛でるぞー? わたし、めっちゃ愛でちゃうぞー?」
「どうぞ」
ホネボーンはさっさと自分の研究室に行ってしまった。
アクナバサクとナエユミエナは顔を見合わせた。
「あいつ、上司の扱いがぞんざい過ぎない?」
「えぇ? 今更ですかぁ?」
屋敷は崖の上にあるから、荷車を引いて行くわけにはいかない。ひとまず下の入り口の横に着けて、アクナバサクは腕組みした。
「屋敷の構造上の問題が発覚してしまったぞ。誰だよ、高い所に屋敷を造ろうなんて言ったのは。わたしか。くそっ!」
「どうするんですかぁ?」
「一人ずつ運ぶしかねーやな」
それでアクナバサクは魔姫たちをひとりずつおぶって、屋敷の中まで連れて行った。そうして大部屋の寝床に寝かす。よほど疲れていたのか気が抜けたのか、皆目を覚まさなかった。気持ちよさそうに寝息を立てている。
「ふー、やれやれ。これでひとまずおっけーだな」
「そろそろ朝ですけどねえ」
「いいじゃない。今日くらいはゆっくり休みさ。ま、わたしは毎日がエブリデイなんだがね! ははは!」
「え?」
そんな事を言いながら、二人は出て行った。部屋の中は、どこからか入って来る薄明かりで微かに明るい。
しばらくしてから、アルゲディはうっすらと目を開けた。他の魔姫たちの寝息が聞こえて来る。
知らない天井にやや戸惑ったが、自分はアクナバサクに連れられて都市を出て来たのだと思い出した。
ふう、と息をついて目をしばたたいた。
(……布団柔らかい)
ごろりと寝返りを打つ。枕に顔をうずめる。肌触りが良い。布団は大変ふかふかしている。しっかりと干されているのか、暖かなにおいがする様だ。こんな風に穏やかな気分で床に横になるのは久しぶりである。闘いの日々は精神をすり減らす。ゆっくりと朝まで眠れる保障すらなかった。
「んー……」
アルゲディはしばらく布団の中でもぞもぞしていたが、やがて体を起こして立ち上がった。変に目が覚めて、もう眠れそうもなかった。
改めて部屋の中を見回す。
床は柔らかい草で覆われていた。天井からは蔦が垂れ下がって、光る実をつけている。壁から黄輝石や蛍草が淡い光を放っていた。
部屋には寝床がいくつも据えられていて、そこに魔姫たちが眠っていた。みんな穏やかな表情をしている。険しい表情ばかりしているグリーゼも、今日の寝顔は何だか可愛い。
廃都市で眠っている時は、うなされる事も多かった。先の見えない不安が、起きていても寝ていてもかぶさっていたものだ。
アルゲディは一人一人の寝顔を愛おし気に眺め、それから恐る恐る部屋を出てみた。
まだ夜は完全に明けてはいない様だった。空気が濃い。アルゲディは深く息を吸い、吐いた。胸の奥底まで森のにおいがしみ込んで来る様だった。
城塞都市が放棄される直前に生まれたアルゲディは、こんなに濃い緑を知らない。知っているのは荒れ地に健気に育つ乾いた草ばかりだ。青々としてみずみずしい植物なぞお目にかかった事がない。だから新鮮であり、しかし不思議と懐かしさも感じた。
ひとまず廊下を辿ってみると、少し先にメイド服を来た屋敷妖精が数匹、皿やコップを抱えて歩いていた。
屋敷妖精たちはアルゲディを見ると、驚いた様に顔を見合わせて、それから「きゃー」と嬉しそうな悲鳴を上げて、けらけら笑いながら走って行ってしまう。
「あっ、待って」
アルゲディは慌ててその後を追いかけた。しかし屋敷妖精たちはすばしっこく、すぐに姿が見えなくなってしまった。
アルゲディがどうしようかと思っていると、不意に足元でちちっと鳴き声がした。見ると、あの野ネズミがアルゲディを見上げてひくひくと鼻を動かしている。
「あ、君は」
ネズミはちゅうと鳴いて、アルゲディを先導する様に走り出した。アルゲディはその後ろをついて行く。しばらく行くと、何だかいいにおいがして来た。お腹がくうと鳴る。
辿り着いたのは台所らしき所だった。
かまどや水場が設えられ、調理台や食器棚がある。
壁際に芋やリンゴの入った籠や、穀物が入っているらしい袋が並び、天井から香草や玉葱、玉黍がぶら下げられている。
棚には油や茶葉、乾燥果物などが入った瓶が並び、かまどの上には大きな鍋がかけられて、くつくつと何か煮込まれている。
オーブンではパンが焼き上がったらしい。湯気の立つうまそうな丸パンが編み籠の上に山と積まれていた。香ばしいにおいが漂って来る。屋敷妖精たちがくるくると忙しそうに駆け回っていた。
「ええとぉ、セロリと人参を入れてぇ、蕃茄を潰して煮込んだ後で、油を最後にひと回し」
それを指揮する様にナエユミエナが行ったり来たりしていた。何だかふわふわした人だなあ、とアルゲディは思った。
外まで漂って来たいいにおいの正体はあの鍋らしい。スープが煮込まれている様だ。
ごくりと喉がなった後で、またお腹が鳴った。頬を赤らめていると、「あららぁ?」とナエユミエナが気づいてやって来た。
「あら、起きちゃったんですねぇ。疲れてないですかぁ?」
「だ、大丈夫です……あの、初めまして。アルゲディっていいます。王様にここに連れて来てもらって」
「わぁ、ご丁寧にありがとぉ。わたしはナエユミエナです。アクナちゃんに起こしてもらった豊穣神なんですよぉ」
えっ、神様なんだ、とアルゲディは驚いた。そう言われて見ると、神々しい気がしないでもない。しかし神様が台所で屋敷妖精を指揮しているというのは、何だか可笑しい。
物腰の柔らかなナエユミエナとアルゲディはたちまち打ち解けて、味見という建前のつまみ食いをする事になった。
木の椀にスープがなみなみと注がれる。
「はい、どうぞ。ナエちゃん特製の野菜スープですよぉ」
「いただきます……」
アルゲディはちょっと緊張気味に匙を入れて、一口すすった。
優しい味だ。野菜の甘味が舌に溶ける。下の方には豆も沈んでいて、これが上顎と舌で潰せるくらいに柔らかい。思わず夢中で匙を動かし、最後には椀に直接口をつけてすすった。
「あはは、いい食べっぷりですねぇ」
とナエユミエナが笑う。アルゲディは頬を赤らめた。
「その、すごくおいしかったから……」
「うふふ、嬉しい。お代わり、食べる?」
とナエユミエナは言ってくれた。思わず首肯しかけるが、どうせなら他のみんなが起きた時に一緒に食べたいなと思い、その場は固辞した。
しかし台所にいたままだと誘惑に負けてしまいそうだ。案内を頼みたいな、とアルゲディが野ネズミの方を見ると、野ネズミはちゃっかりパンの欠片を拝借してかじっていた。
アルゲディはネズミに先導されて台所を出た。
屋敷は随分広い様に感じていたが、さっきナエユミエナに聞いたところによると、屋敷は崖に半分埋まる様に建っているらしく、しかも崖の中まで穴が穿たれて広がっているのだという。
そりゃ広い筈だ、とアルゲディは一人で納得した。
ネズミは廊下を辿ってバルコニーのある大広間の方に向かった。
次第に明るくなって来て、どうやら朝が来たらしい事が解り始めた頃、アルゲディは大広間に出た。野ネズミはするするとアルゲディの肩に上った。
「あれっ、起きたの?」
声がしたので見ると、アクナバサクが逆立ちしていた。アルゲディは慌てて頭を下げる。
「お、おはようございます、王様」
「いいっていいって、そんなに改まらなくても。アルちゃんだけ? 他のみんなは?」
「まだ寝てるみたいで」
「成る程ねー」
アクナバサクはひょいと逆立ちをやめると、ぽてぽてとアルゲディに近づいて手を取った。
「おいでおいで。もう夜が明ける。夜明け前の魔王谷は綺麗だぜ。早起きの特権だ」
それで二人はバルコニーに出た。
「わあ……」
アルゲディは思わず嘆声を漏らした。
バルコニーの下に魔王谷の森が静かに広がっていた。黒々とした森だ。その中を川が流れているのが解る。
バルコニーの脇には細い滝が流れ落ちて、それがざあざあと音を立てていた。
館は西に向かっているから朝日が上るのは見えないが、しかし空が白んでいるのは解る。その薄明かりを受けた森はしっとりと濡れた様になっていて、木々の合間には白い靄が漂っていた。さながら雲の中から木々が伸び上がっているかの様だ。
やがて東の山の稜線がぎらぎらと光り出して、太陽が姿を見せる様になる。
そうなるとたちまち辺りの雰囲気が一変した。日の光に照らされた朝もやがきらきらと輝く。脇で流れる滝からの飛沫が光を受けて小さな虹を作っていた。
鳥たちの鳴き声が辺りを満たし、急に賑やかになり始める。
アルゲディは知らぬ間に涙ぐんでいた。世界とは、こんなに美しいものだったのかと思った。廃都市では想像もした事のない光景である。
アクナバサクは得意げに胸を張ってアルゲディの肩を抱いた。
「綺麗だろ? でもここも昔は荒れ地だったんだぜ? わたしが蘇らせたんだ」
「すごい……本当に、本当に綺麗です」
「むふふ。今日から君もここの住民だよ」
アルゲディは思わずしゃがみ込んで両手で顔を覆った。アクナバサクが慌てた様に背中をさする。
「えっ、嫌!? 泣くほど嫌だった!?」
「ちっ、ちがっ……嬉しくて……」
感情が溢れて来る様だった。嗚咽が止まらない。何だか泣いてばっかりだ、とアルゲディは思った。でもどうしようもない。アクナバサクはアルゲディを抱き寄せて、よしよしと頭を撫でた。
「いい子いい子。今まで頑張ったんだから、いっぱい楽しい事しよーね」
「はいぃ……」
アルゲディは、アクナバサクの胸に顔を押し付けて泣きじゃくった。
〇
日がすっかり上り、谷は日に照らされて青々と輝いていた。
大広間に集まった魔姫たちを前に、アクナバサクはおほんと咳払いをして偉そうに胸を張った。
「えー、ようこそ魔王谷へ! 今日から君たちはここの住民になるのです。谷は十分に美しいけれど、まだまだ発展途上! やる事はいっぱいあります。なるべく楽しく、ユーモアを忘れずに暮らしていきましょう!」
ぱちぱちと拍手が鳴る。口笛まで聞こえる。魔姫たちが来たと聞きつけた精霊や妖精たちも集まっていて、そんな連中はたいていが賑やかで騒ぎ好きだ。
「まだまだ森は広げる予定だし、川沿いには居住区を作りたいと思ってるんだ。畑も広げられるだろうし、場所によっては池も必要だ。楽しいぞ、こういうのは」
「居住区、という事はまだ住民は増える予定があるんでしょうか?」
とハクヨウが手を上げて言った。アクナバサクは頷く。
「いずれはね! まあ具体的な事は何も決まってないんだけどね」
「あの、それなら、少し提案、というよりお願いがある、のですが……」
とハクヨウが遠慮がちに言う。アクナバサクは面白そうな顔をして身を乗り出した。
「言っちゃって言っちゃって!」
「……わたしたち魔姫は戦いの為に生み出された存在です。しかしその個体差は顕著で、生まれた時に使えるか使えないか選別されてしまう。あの都市に残されていたのは、いわゆる『役立たず』でした」
「そんな事ないぞ。みんな素敵だぞ」
とアクナバサクが口を挟んだ。ハクヨウはそれだけで胸がいっぱいになって言葉に詰まった。
「ありがとう、ございます……けれど、王様が来てくれるまでは確かにそうだった。おそらく、大陸各地には、そういった魔姫たちがまだ多くいると思います」
「ははあ、解ったぞ。その魔姫たちを助け出して魔王谷に呼びたい、とそういうわけだな?」
「そう、です……厚かましいお願いの様ですが」
「いやいや、そんな事はない。いい考えだと思うよ。ね、ホネボーン?」
ハクヨウはおずおずとホネボーンの顔色を窺う。魔姫たちにとってはアクナバサクよりも、この骨人間の方が余程おっかなかった。
ホネボーンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「いいでしょう。しかし大陸は広い。どこにその困っている魔姫がいるのか、どうやって知るつもりですか? そこへどうやって行くつもりですか? そしてどうやって連れ帰って来るつもりですか?」
「う……」
ハクヨウは肩を落とした。確かに、そう言われてしまうと何の考えも浮かばない。助けたいという思いだけではどうにもならないのだ。
現実味がなかったか、とハクヨウは目を伏せた。他の魔姫たちも悲し気に顔を曇らしている。
ホネボーンはしばらくそんな魔姫たちを見ていたが、やがて嘆息した。
「まあ、その方法は考えましょう。森が広がれば守るべき場所も増える。魔姫の数が多いに越した事はありません」
ハクヨウは驚いて顔を上げた。
「え……さ、宰相殿、反対ではないのですか?」
「誰が宰相ですか、誰が。反対ではありません。お前の考えが浅いのはともかく、魔姫を呼び込むというのは悪くない案です。森が広がったので、領内の転移の魔術式を研究しようと思っていた所ですから、いずれは外との行き来もしやすくなるでしょう」
「で、では……」
「何度も言わせないでください、その案は採用です。ただし段取りは私がします」
アクナバサクがにやにやしながらホネボーンを小突いた。
「このツンデレさんめ! 賛成なら賛成って最初から言えよ!」
「問題点だらけでしたから手放しで賛成ではありません」
「理屈っぽいとモテないぞ。まあいいや。ともかく、いずれ来るであろう新しい仲間たちのためにも、魔王谷のますますの発展を心よりお祈り申し上げる次第であります」
「どうして他人事なんですか」
その時、ナエユミエナが屋敷妖精たちを連れて大広間に入って来た。屋敷妖精はそれぞれが大鍋やパンの盛られた籠や、サラダの皿などを運んでいる。
「朝ごはんでーす」
とナエユミエナがにこやかに言った。アクナバサクが「おー」と手を上げる。
「よし、難しい話は後だ、後! お腹いっぱい食べるがよいぞー」
たちまち辺りが陽気になった。朝食というよりも宴会が始まった様で、魔姫たちだけでなく、精霊や妖精たちもパンや果物を失敬している。魔姫たちもすっかり腹が減っていた様で、次々と食事を腹に収めていた。
それを眺めながら、アクナバサクはハーブティーをすすった。ますます面白くなりそうだぞ、と考えるだけで口端が緩んだ。久しぶりに植樹にでも行こうか知らと思った。
バルコニーから風が吹き込んで来た。
一日が始まろうとしている。
第一章終わりです。
一週間くらいお休みします。