10.魔王アクナバサク
「はっ……あっ……うえぇ……」
ぼろぼろと涙を流して嗚咽しているアルゲディを見て、アクナバサクは大慌てでうろたえた。
「えっ、えっ、なんで? わ、わたし、また何かやっちゃいました?」
「緊張がほぐれて感情が溢れて来たんでしょう。お気になさらずともよろしいかと」
とホネボーンも歩み寄って来た。そうしてアルゲディの前で膝を突く。
「泣いてばかりでは解りません。お前、一人だけですか? 仲間はいないのですか?」
「えぐっ……あ、あの……」
「まあまあ、ホネボーン君や、そんな風に尋問みたいに聞くもんじゃないよ。物事には順序ってものがあるでしょう」
「はあ」
アクナバサクはしゃがんで、アルゲディの肩に手を置いた。
「名前はなんていうの?」
「あ、アルゲディ……」
「そっかそっか。わたしはアクナちゃんだよ」
「アクナさん、それはさっきも言ってましたよ」
「黙らっしゃい。アルちゃん、こっちの生意気なのはホネボーンだ。わたしの部下だよ」
アルゲディは困惑した様にアクナバサクを見た。
「あ、あの、あなたたちは、いったい……」
「さっきも言った様に君を助けに来たのだ。そこのネズミ君に頼まれてね。凄いんだぞ、その子は。遥々荒野を超えて魔王谷まで」
と言いかけたアクナバサクの頭を、ホネボーンの杖が一撃した。アクナバサクは頭を押さえて悶絶した。
「うごご……」
「ともかく、我々はお前の敵ではありません。怖がる必要はない。解りましたか?」
アルゲディは緊張した様子でこくこくと頷いた。それからネズミを見る。ネズミの方もアルゲディを見上げて鼻をひくつかしている。そっと手を伸ばすと、ネズミはひょいと手の平に乗って、ちゅうと鳴いた。
本当に、このネズミが助けを呼んでくれたんだ、とアルゲディは胸が熱くなった。そして、ずるいなどと怒りを抱いた自分が恥ずかしくなって頬を染めた。
「それでアルゲディとやら。改めて聞きますが、お前は一人ですか? この都市は滅びたわけですか」
とホネボーンが言った。
「ひ、一人じゃ、ないです……でも、町は滅びたも同じで……」
「ふむ……」
とホネボーンはやや怪訝そうにアルゲディをじろじろと見た。
「……お前、人間ではありませんね。何者ですか?」
「えっ? そうなの?」
とアクナバサクも珍しそうにアルゲディを上から下へ見る。髪の毛を触ったり、ほっぺたをつねってみたりする。アルゲディは目を白黒させた。
「ふぎゅ……」
「いやー、人間じゃない普通に?」
「見た目の話ではありません。魔力の質が違います。魔人のそれに近い。アクナさん、どうして気づかないんです」
「……あ、ホントだ。どういう事?」
「あの、あの、わたし魔姫です。アクナさんは違うんですか?」
「マキ? いや、わたしは違うなあ」
アクナバサクは首を傾げた。アルゲディも何が何だか解らずに困惑している。
ホネボーンはふむと顎に手をやった。
「察するに、対現世喰専用の生物兵器といったところでしょうか」
「は、はい、そうです」
「マジで。ホネボーン、お前察しいいな」
アクナバサクが感心していると、アルゲディがおずおずと口を開いた。
「あの、でも現世喰は魔姫にしか倒せない筈で……その、アクナさんが魔姫じゃないとしたら、どうして……?」
「えっ……あっ、あれですよ。なんかこう……やれば出来る、的な」
「お前以外にこの都市にいるというのは人間ですか?」
ホネボーンが割り込んだ。
「いえ、いえ。ここには、もう人間は一人もいません」
「ふむ」
ホネボーンは何だか面白そうである。
その時、不意に強い風が吹いて土埃が舞い立った。アルゲディが口元を抑えて咳き込む。喋ったのもあって喉がすっかり渇いてしまった。
アクナバサクが背中をさすってやる。
「大丈夫? 風邪?」
「けほっ、いえ……喉が……」
「あ、喉が渇いてるんだな? よし、ちょっと待って」
とアクナバサクはその辺の石ころを拾い上げて、手の中でこねくり回した。そうして手を開くとそこにはガラスのコップがある。アクナバサクはそれで泉の水を汲み上げてアルゲディに差し出した。アルゲディは目を疑った。
しかし透明な水を目の前にすると、そんな疑問はたちまち吹き飛び、アルゲディは我を忘れて飲み干した。渇いた喉に染み渡る。甘味すら感じるくらいにうまい水だった。
「大丈夫? おっぱ、じゃねえや、もう一杯飲む?」
「は、はいっ!」
アルゲディは夢中になって飲んだ。飲んだ水がすぐに涙になって流れ出て来る様な気がした。
急に、アルゲディの頭に、拠点にいる仲間たちの事が浮かんだ。ここ数日は満足に水も飲めていないのだ。エネルギーは持ち帰れずとも、水を持ち帰ってあげたい。
「あの、実は」
アルゲディに事情を説明されたアクナバサクはうむうむと頷いた。
「よし、任せろ! えーと、入れ物入れ物……」
と再び石を拾い上げて、今度は大きな樽を生成する。さっきのコップは見間違いじゃなかった、とアルゲディは目をこすった。
アクナバサクは樽に水を汲み上げると、それを肩に担いだ。縁からちゃぷちゃぷ溢れる水が垂れて濡れるけれど気にしていない。
「よし行くぞ。アルちゃん、案内よろしく!」
アルゲディはこくこくと頷いて、二人を先導して歩き出した。肩にはネズミが乗っかっている。アルゲディが歩くと肩が揺れるから、ネズミはしっかと足を踏ん張っている。その様子が可笑しいのか、アルゲディはちょっと口端を緩ましている。
その後ろを歩きながら、アクナバサクは小さな声でホネボーンに話しかけた。
「魔姫、って解るか?」
「いえ。恐らくはこの二百年のうちに生み出された存在でしょう。魔力の質から鑑みるに、魔人を模して生み出されたのではないでしょうか」
「現世ツライに対抗してって事だよね? なんで女の子なんだ? 男の方が戦うにはよさそうだけどな」
「現世喰です。その辺りは気になるところです。もう少し情報を得たいですね」
「うん。でもあれだな。対抗策を考えたはいいけど、都市が滅ぶくらいだから、あんまり有効に機能しているとは言い難いみたいだネ」
「まあ所詮は人間の浅知恵ですから」
「こらこら、いちいち棘のある言い方をしない」
その時、アルゲディが振り向いた。
「あのっ、お二人はこの子の言う事が解るんですか?」
と肩に乗っているネズミを指さした。アクナバサクは口ごもった。
「何となくだけど……まあ、うん」
「じゃ、じゃあ、この子が助けを求めに来たって本当なんですか?」
「それは本当だよ。あー、わたしらの家はここよりちょっと東の方にあるんだけど、そこまで来たんだ」
とアクナバサクはホネボーンの反応を窺いながら答えた。アルゲディはびっくりした様に目を見開く。
「東……あっちは現世喰の巣窟って聞いてますけど、よく無事でしたね」
「いやっはっは、ほら、さっきの通りわたしめっちゃ強いから」
「た、確かに……でも魔姫じゃないんです、よね?」
「まーね」
三人は小一時間ほど歩いて、ようやく拠点の傍までやって来た。
途中で幾度か現世喰に出くわしたが、それはすべてアクナバサクが撃退した。その度にアルゲディが慌ててエネルギーを固定化したので、アクナバサクは目を丸くしていた。
「なにそれ、どういう技術?」
「え、あの、固定化です」
「どうやんの、どうやんの? 教えてプリーズ!」
「で、でも、魔姫なら誰でも出来る事だから……」
「マジか。うーむ……やってる時ってどんな感じ? 何か精神集中的な事するの?」
「ええと……そ、そうですね。手の平に集まれーって思う感じで」
「成る程ねー。よーし、次はわたしも試してみようっと」
しかしそれから拠点までは現世喰は現れなかったので、アクナバサクは不満そうだった。
新しい拠点、というよりも避難場所は、かろうじて崩れずに残っている建物だった。入り口は瓦礫の陰に隠れており、確かに身を隠すには丁度よさそうだ。
こりゃ随分ひどい有様だなあ、とアクナバサクが思っていると、「アルゲディ!」と声がした。
見ると青みがかった黒髪を肩辺りで切り揃えた少女が、瓦礫の上に立っていた。弓矢を携えて困惑気味の顔をしている。
「キシュクちゃん!」
「だ、だ、誰ですか、その二人は?」
「あのね、アクナさんとホネボーンさんっていって……その、危ない所を助けてくれたの」
「はあ? 危ない所って、現世喰しかいねーじゃねーですか。じゃあもしかして魔姫ですか? 今になって援軍が来やがったんですか?」
「魔姫じゃないらしいんだけど……でもすごく強いんだよ! 現世喰が十匹以上いたのに、全部やっつけちゃったの!」
「うえっ!? そ、それって初代様並みに強えぇじゃねぇですか……」
「あとほら、前のおうちの泉を復活させてね、こうやってお水を」
とアルゲディが言ったところで、キシュクも水の存在に気付いたらしい。思わずごくりと喉を鳴らす。
目ざとくそれに気づいたアクナバサクは、樽を地面に置いて、コップに一杯汲み出した。
「一杯どう?」
「――ッ! いただくです!」
とキシュクは瓦礫の山から駆け下りて来て、夢中で水を飲み干した。
「うう……水がこんなうめえもんだとは知らなかったです……か、感謝してやるです!」
「感謝されてあげよう!」
「そうだ、シャウラとグリーゼにも……そ、その水はもらっていいのですか?」
「いいのですよ! じゃんじゃん飲みなせい!」
と胸を張ったアクナバサクの手を、キシュクは握りしめた。
「あんたは本当に恩人です……」
「なーに気にするこたないよ。それではお宅拝見といきましょー。お邪魔しまーす」
と一行はキシュクに中へと招き入れられた。
奥の方にシャウラと、横になったままのグリーゼがいた。シャウラはアクナバサクたちにびっくりして、後ずさって壁にぶつかった。
「だ、だ、だ、誰?」
「大丈夫ですよシャウラ、この人たちは味方です。お水を持って来てくれたんです」
「えっ……み、み、水!?」
警戒していたシャウラも、一杯の水でたちまち心を開いた。それだけ渇きは深刻な問題だったのである。二杯三杯と立て続けに喉を潤す魔姫たちを見て、アクナバサクは満足げに頷いた。
「いやあ、人助けってのは気分が良いね」
「はあ」
「しかし生き残りはこれだけって事か。随分深刻な事になっちゃってるなあ」
とアクナバサクが辺りを見回すと、シャウラがコップの水を片手に、グリーゼを抱き起していた。
「ぐ、グリーゼ、みみ、水、だよ……飲んで……」
「う……」
かろうじて生きているグリーゼだが、口に流し込まれた水は喉まで至らずに口端から流れ落ちた。
現世喰にエネルギーを取られ、その後満足に休む間もなく劣悪な環境へと移動し、しかも水も食料もない状態が続いたから、すっかり憔悴してしまっているらしかった。
魔姫たちは必死になってグリーゼを介抱している。何とか水だけでも飲ませようとしているが、グリーゼにその元気がないらしい。
アクナバサクはじれったい思いで足踏みして、ホネボーンを見た。
「可哀想過ぎて見てらんない! ホネボーン、『与える力』使っていい?」
「どうぞ」
あっさり許可が出てやや拍子抜けだったが、それならば遠慮する事はない。アクナバサクはグリーゼに歩み寄って膝を突いた。
「ちょっといい?」
と魔姫たちを脇にどかす。シャウラが心配そうに口を開いた。
「どど、どうする、の?」
「まあ見てなって」
とアクナバサクはグリーゼの上に手をかざした。全身に力を込めて魔力エンジンをフル回転させる。体内で渦を巻いた力が、両手からグリーゼへと降り注いだ。
「う……」
青白かったグリーゼの顔に色が戻って来た。シャウラが驚愕のあまり息を呑む。
「ち、ち、治癒魔法……? にしては、す、すごく高度な……」
グリーゼが急にぱちりと目を開けた。たちまち意識が覚醒し、驚いた様に上体を跳ね起こした拍子に、アクナバサクに強烈な頭突きを食らわす羽目になった。
二人は額を抑えて悶絶する。アクナバサクは涙目になってへたり込んだ。
「うごご……何だか最近頭部へのダメージが深刻過ぎる。頭悪くなっちゃう!」
「これ以上悪くなりようがないでしょう」とホネボーンが言った。
「あれ? 今わたしディスられてる?」
「うっ、ぐ……ハクヨウ! ハクヨウは!?」
グリーゼもすぐに立ち直り、傍らにいたシャウラの肩を掴んでゆすぶった。キシュクが慌てて止めに入る。
「落ち着くですよグリーゼ!」
「ここは……いったいどこなんだ? あの異形の現世喰は……ハクヨウはどうなったんだ!?」
「グリーゼ姉さん、ちゃんと説明するから……」
混乱しているグリーゼを何とかなだめすかして、魔姫たちは代わる代わるに状況を説明した。
ハクヨウが攫われた事、その後現世喰に襲撃されて拠点を移動した事、物資不足にあえいでいた所にアクナバサクたちがやって来て、今まさにグリーゼを治してくれた事。
話が進むにつれ、寝床に腰を下ろしたまま聞いていたグリーゼは消沈して俯いた。しかし話が終わると、アクナバサクとホネボーンの方を見て、深々と頭を下げた。
「ありがとう。あなたたちは命の恩人だ……礼も出来なくて申し訳ない」
「お、おう……」
こういう雰囲気は苦手だなあ、とアクナバサクはもじもじした。
グリーゼはしばらく黙っていたが、やがて水を一杯飲み干すと立ち上がった。シャウラが慌てた様にその腕を掴む。
「い、い、行っちゃ、駄目……」
「……わたしは諦められない。確かに絶望的かも知れないが、その目で見届けるまではハクヨウが死んだなどと信じない。信じたくない」
そう言って出て行こうとするグリーゼに、アルゲディとキシュクが縋り付いた。
「一人じゃ無理だよ、グリーゼ姉さん!」
「そうですよ! みすみす死にに行く様なもんです!」
「しかしっ……だからといってお前たちまで巻き込んでは……」
「落ち着けって言ってるんですよ! ここに頼れる人がいるのに、どうして一人で背負いこもうとしやがるんですか!」
その場の視線がアクナバサクに集まった。
急に注目されたアクナバサクは、とりあえずポーズを決めてみた。ホネボーンが呆れた様に言う。
「何をやっているんですか」
「えっ、あの、荒ぶる白鳥のポーズ……」
「アクナちゃんはすっごく強ぇえんですよ! 現世喰なんか目じゃねーです!」
「いやー、それほどでもぉ」
とアクナバサクは照れ照れと頭を掻く。
グリーゼは逡巡した様子だったが、すぐに首を横に振った。
「駄目だ、危険過ぎる。それに、彼女は無関係だ。恩人を危険に巻き込むのは本意じゃない」
「こ、こ、こんな時に、かか、カッコつけないでよ、馬鹿!」
シャウラが大声を出したので、皆ビックリしてそちらを見た。シャウラはぼろぼろと涙をこぼしている。
「し、し知ってるんだから! ぐぐ、グリーゼ、もう、いっそ死んじゃいたいって思ってるって、知ってるんだから!」
グリーゼは言葉に詰まった様に押し黙った。気まずい沈黙が場を包む。シャウラは勿論、アルゲディもキシュクも、大なり小なり絶望感を抱いていた様だ。
死ぬのは怖いが、同時に死が自由を与えてくれるのではないかという期待感も持っていた。グリーゼも心のどこかでそれを求めていた。魔姫たちは、もう本当にいっぱいいっぱいだったのだ。
耐えきれなくなったアクナバサクがぶんぶんと腕を振った。
「だーもう! 行く! わたしが一緒に行くから安心しろって! 断ってもついて行くからね! べっ、別にあんたの事が好きとかそういうんじゃないんだから、勘違いしないでよねっ!」
「ほっ、本当ですか!?」
「ほらぁ! だから素直に頼めばいいんですよ!」
アルゲディとキシュクが手を取り合って喜んでいる所に、ホネボーンが歩み出た。
「ちょっと待ってください」
アクナバサクが怪訝な顔をして振り返る。
「何だよ。まさか反対する気じゃねーだろうな?」
「いえ、助けには行ってもらいます。ただし行くのは彼女たち自身です」
「はあっ?」
「グリーゼとやら。体が軽いでしょう?」
ホネボーンは藪から棒に言った。
グリーゼは面食らって自分の体を見る。手を握ったり開いたりしてみる。
そういえば、確かに体が軽い。怪我が治ったからとか、そういった軽さではない。何だか力が増した様にさえ思われる。
困惑しているグリーゼに、ホネボーンは続けて話しかける。しかしその言葉はグリーゼだけに向けているのではなかった。
「あなたたち魔姫というのは、人工的に作り出された魔人の様なものだと仮定しました。その力の根源は魔王に端を発するもの。アクナさんの、王様の力を『与え』られれば、力が増すのは必定です」
「お、おい、ホネボーン。そればらしちゃっていいの? しかも王様って」
「構いません。どのみちこの都市はもう滅びたも同然。彼女たちには谷に来てもらいます」
「マジで? うわー、いいの? 住民が増えるとかウェルカムだけど、お前は渋面だったよね? どういう心情の変化だよ?」
「現世喰がまだまだ残っている事が解った以上、森が広がれば襲撃が考えられます。そうなった時、谷の防衛を王様一人に任せておくわけにはいきません。彼女たちに力を与え、防衛に協力してもらいます。拒否権はありません。その実力を見る為に、救出は彼女たちに行ってもらいたいのですよ。王様に力は『与え』てもらいますがね」
「うひゃー、情熱的ぃ」
「手始めに、他の者たちにも『与える力』を」
「よっしゃ、それー」
アクナバサクは魔姫たちに手を向けて一気に力を解放した。驚くべき力の奔流が魔姫たちに流れ込む。疲労が吹き飛ぶのと同時に、今までないくらいに力が湧いて来るのに、魔姫たちは驚きと若干の恐怖を抱いた。
「す、すげえです。ボク、今なら大型の現世喰が十匹いても勝てそうです……」
「わたしも……! こ、これ、どういう事なの?」
「……あなたたちは、いったい?」
グリーゼが困惑した表情を向けた。アルゲディとキシュクは身を寄せ合って互いの体の変化を確かめ合っているし、シャウラは怯えた様に縮こまり、しかし手の平を眺めて、急激に増した魔力に目を白黒させている。
野ネズミがちちっと鳴いた。
アクナバサクはにっと笑って魔姫たちに向き直った。
「怖がらなくていいってば。わたしは君たちの味方だよ。改めて自己紹介しよう。わたしはアクナバサク。元魔王で、今は魔王谷の王様、アクナバサクだ! そうと決まれば早速そのハクヨウちゃんを助けにいくぞお!」
〇
「う……」
うっすらと目を開けたハクヨウは、体中の痛みに顔をしかめた。
腕は折れているらしい。足も立たなさそうだ。
首は動かせる。何とか見える範囲を見回してみたが、何だかよく解らない。
しかし次第に目が慣れて来るにつれ、わずかな変化が解る様になって来た。
暗い空間だった。ずるずると、何かが這い回る様な不気味な音がしている。わずかに差し込む光で、そのうごめく者たちの肌が黒く光った。
まだ生きている。もう殺されたのだと思っていた。それともここは死後の世界なのだろうか。ハクヨウは覚醒するにつれて増す鈍痛に耐えながら、何とか体を起こそうとした。
「ひ、ひ、ひひ」
奇妙な笑い声が聞こえた。ぞくりと肌が粟立ち、身構える。
急にハクヨウの目の前で真っ赤な光が現れた。現世喰の眼だ。ハクヨウを痛めつけて攫ったあの異形の現世喰が、目の前にいた。ずっといたのだ。ハクヨウは思わず凍り付く。
「しょ、しょ、しょだい。つか、つかまえ、た」
「き、貴様……」
あり得ない変異だ、とハクヨウはぞっとした。言語だけではなく、意志を持って活動している。
エネルギーを吸収する、という食欲だけしか持たない筈の現世喰が、ハクヨウを殺さずに捕えている。こんな変異種が増えれば、間違いなく人類は勝てなくなる。
現世喰は太い指でハクヨウの顎を撫でた。
「ひひ、ひ」
「さ、触るな!」
ハクヨウは身をよじったが、手足は動かない。
「ひ、ひ、ひみつ、しる。もっと、かしこく、なる」
現世喰の赤い眼が不気味に笑った様に見えた。
間違いない。こいつは自ら進化しようとしている。魔王に生み出されたという現世喰が、同じ様に魔王の力を持つ魔姫から何かを盗もうとしている。
まずい。これではいけない。いっそ舌でも噛んでしまおうか。そんな事を思った。
しかしそれを見抜いたかのように、するすると触手の様なものが伸びて来て、ハクヨウの口を塞いでしまった。
「うっぐ、むぐぅ……!」
「にが、さない」
みしみしと音を立てて、現世喰の眼が閉じて行った。その後は、真っ黒で扁平な顔が残った。それがくるりと踵を返して離れて行く。
ハクヨウはもがいた。何とか逃げ出さないといけない。しかしとても逃げられない。
都市の妹たちはどうなっただろうかと思った。まだ生きていても、さらに変異した現世喰に襲われてはひとたまりもないだろう。
自分が弱かったから、とハクヨウは悔やんだ。目から涙が流れ落ちた。
ああ、誰かがひょいと現れて、わたしたちを助けてくれはしないだろうか。
そんな現実逃避の様な事を考えているうちに、次第に意識が遠くなって行った。
眠りがやって来た。
ハクヨウはそれに身を任せた。もう二度と目が覚めない様に祈りながら。
 




