因縁
寝台で上体を起こした姿勢で、助介より渡された吹き矢を吹く。筒先から白い矢が飛び出し、壁に立て掛けた板に突き刺さる。
続けて手元に並べてある矢を手に取って眺める。紙を丸めて円錐にし羽とし、先端に爪楊枝が蝋で固められて居る。筒に押し込み筒息を吹き込む。
ストッと音がして板に刺さる。続けて吹く。握りこんだ拳から突き出た筒先を両目の真ん中にし、目標に合わせれば左右の振れは少ない。息の吹込み方や強さで上下に多少の振れが出る。
助介によると筒は1尺(30cm)から人の背丈ほどの長さの物が有り、長いほど命中率は高いそうな。矢の後ろ、膨らんだ方が風受といい、息を吹き込むと広がって筒に密着して、息の力を漏れなく前に伝える。
鉄砲の名人も言っておった。口径より小さき弾を込めると筒内を転がり進んで上に伸び上がった後は勢いを失って目標の手前に落ちると。
吹き矢も鉄砲も同じじゃな。吹き矢は息の力を、鉄砲は火薬の爆発する力を漏れなく伝えることで、筒先より遠くへ矢玉を飛ばす。
矢を無心に吹き続けて、手元の矢が無くなった事に気づく。
さて、夕方には水野守隆殿が来る。気が重いがそろそろ用意せねばならぬ。まずは管が繋がったままでは見てくれが悪い。管は外して壺に巻いておく。壺を持って厠へ行って中を流し用を済ます。血などは混じって居らんかった。
過去の因縁も水に流せれば良いのじゃが……
守隆殿はワシと同様に織田家との因縁、そして徳川家との因縁も抱えている。
事の始まりは1573年、織田包囲網の一環として武田信玄が三河に侵攻し同時に東美濃には秋山虎繁が向かい岩村城に入る。信玄死去後も居座った。
1575年に信忠様が岩村城を開城させた。しかしその後虎繁がまだ籠城中に、守隆殿の義父である水野信元殿の手の者が岩村城に兵糧を運び入れた疑惑が持ち上がる。上様の追及を恐れた信元殿は妹於大の子の家康を頼る。
だが家康は於大の再婚相手の久松俊勝に信元殿を案内させてそこで騙し討ちしおった。
久松俊勝はこれに憤り徳川家を出奔する。
兄を息子に殺され夫に出奔され残された於大は、子供共々やむなく三河に身を寄せる。
が、家康の意を受けた石川数正が兄の殺害を計画したと気付き、彼が後見する家康の嫡男であり自身の孫の信康との仲が険悪になったとも。
(※後の数正が徳川家を出奔する遠因とされる)
1579年に信康が20歳で切腹したのは、上様の娘徳姫を正室にしながら疎略に扱った事や武田家に通じた、性格が粗暴であった為などとも語られている。
婿の不行状を上様に説明に上がった徳川家家老の酒井忠次に対し、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」とだけ上様は答えた。
家康と信康が不仲との話もあった。上様の許可を得て家康が嫡男を排除した、と言う所が正解であろう。だが家康は内々には上様の命令で泣く泣く息子を斬ったと言うて居るようじゃ。
同じように家康は水野信元殿殺害も上様の命令で仕方無くと周囲には言うて居るとも聞く。
どちらも上様の許可が有ったにしても家康が主導して殺害したとワシは睨んでおる。
信元殿と家康は織田家と今川家で分かれて争ったことも有ったが、叔父と甥の関係もあり、信元殿が清須同盟を結ぶ際に仲介し、家康が三河一向一揆に苦戦した際には援軍を出している。
そして信玄が三河に侵攻した際にも織田家からワシと信元殿、平手汎秀殿、林秀貞殿の東尾張衆が僅か3千程で援軍に入った。
織田家包囲網が敷かれている時期で兵の工面が難しい時期じゃったが、尾張にまで進んで来る武田軍を今川義元を討ち取ったように桶狭間周辺で止めて、集めた鉄砲で討ち果たすのが上様の狙いであったと思うておる。
実際後年に長篠の戦いで敵の後方を断ち馬防柵で前進を阻んで当時最強の武田の騎馬隊を討ち滅ぼしておる。
信玄の侵攻に対して、ワシら東尾張衆は揃って浜松城で籠城して援軍を待つ様に訴えた。だが城の前を無視して先に進む武田軍に対し、じっと籠城していては国人衆の離反を招くと家康は危惧した。
夕刻に背後から襲えば勝てると博打に出たが、武田軍は魚鱗の陣で待ち構えていた。結果わずか2時間で多数の将兵が戦死して徳川軍は潰走した。
家康本人も近習から何人も影武者を出しては死なせて、背を襲う武田軍に恐怖し、馬上で糞を漏らして浜松城に逃げ込んだ。
ワシら東尾張衆は後方の陣に位置して居ったので、先に帰城してその様を見ていた。
(その際、平手汎秀殿が一戦も交えず戻るのは、援軍として来た織田軍の面子に関わる、と寡兵で武田軍に突入し戦死した)
その後に家康は気持ちを入れ替えて夜間に篝火を焚いて門を開け放ったまま敗残兵を収容し、計略を疑った武田側は躊躇し引き揚げたと言われている。だがこれも大嘘である。
糞まみれで意気消沈したままの家康に代わって以後の指揮を執ったのは叔父である信元殿だ。
その後の信玄急死で救われた家康だが、援助もしてくれたが口も出す叔父の信元殿を、疎ましく思って居たのだろう。
援軍に来たワシら東尾張衆に面前では謝意を表したが、上様への戦の報告ではワシらの戦意不足で負けたと告げているはずだ。
(※これもワシへの折檻状の一節「協力者である家康への援軍として出したのに、平手汎秀を見殺しにして佐久間勢から誰も死なせず恥知らずだ」に繋がる)
無策な戦に駆り出されて命を擲つなどやってられるか!
上様も状況から家康の嘘だと分かっていたはずじゃ。が同盟の面目の為ワシらの説明より家康の言の方を取った。それで面目を潰されるは東尾張衆である。そして皆その後碌な目に会っていない。(汎秀殿は討死、信元殿は騙し討ちで暗殺、ワシは出奔、林殿は追放である)
信元殿殺害後にその所領は近隣であるワシの預かりとなった。がそこで信元殿を讒言したのはワシだと噂が立つ。
石山本願寺包囲中のワシが遠くの加増を喜ぶとでも言うのか!
さらに事情を知らされず信元殿を案内させられ出奔した、久松俊勝の息子信俊は当時ワシの配下に有った。だが讒言の噂を信じたのか「三河一向一揆の際に久松家は一向一揆を保護した」ので石山本願寺包囲では前に出ず大人しくするが良い、と言う様に忠告すると逆上して切腹してしまった。
このような状況で恨みを抱える旧水野家の家臣をワシが登用できようか?
(これも折檻状の一節「水野家の所領を与えたのに水野の旧臣を召抱えていない。その分の収益を横領している」に繋がる)
その水野家の所領だがワシの出奔後に一人の男に預けられる。
水野信元殿の異母弟の忠重じゃ。20年ほど前に水野家を出奔したのか徳川家に仕官し功績を上げて居った。
何のことはない。知多半島を統一し24万石と称された水野領は織田家内に留まるとはいえ、労せずして家康の子飼いに乗っ取られたのだ。
表裏裏腹な言葉を繰り出せてこそ戦国大名として生き残れたのかも知れんが、家康の遣り様をワシは許せぬ。
義父を殺され領地を接する水野守隆殿もいつ自分が同様の目に会うのではないかと気が気で無いであろう。
更に瀬戸物の保護の為上様から出された禁窯令で、常滑焼きも多少制限された。守隆殿は領地を永らく離れ、京で茶会三昧である。
ワシは守隆殿のやる気を引き出せるであろうか?




